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そらのかけら  作者: 夜と雨
第九章: 消える世界、君のために
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第五十五話:エクリプス

 朝陽が静かに歩み寄る。

 神聖さを湛えた祭壇は、傷ひとつなくそこに在りながら、周囲の荒廃をひっそりと受け止めていた。


 そのときだった。


 瓦礫の奥から、小さな音が響く。

 ——ガラッ。石をどけるような、確かに誰かがそこにいる音。


「……?」


 朝陽が立ち止まる。

 その背後から、シィロが警戒するように前に出た。


「……誰か、いる?」


 霧の中、ゆっくりと人影が現れた。


 黒ずんだ石柱の影から姿を現したのは、一人の女性だった。

 肩に外套のような布を羽織り、手には長杖。

 煤にまみれたような姿で、鋭い視線をこちらに向けている。


「ここから先に、入るな」


 杖を水平に構えると威嚇するように告げた。

 その声は低く、明確な拒絶の意思を含んでいた。


 ふたりは思わず足を止める。


「……あなたは……?」


 朝陽がたずねるよりも早く、シィロが震えるように声を発した。


「……レイス……さん?」


 その名を聞いても、女性は微動だにしなかった。


「レイスさんですよね!?…探したんですよ!」


「レイス…誰だそれは……?それに、馴れ馴れしいぞ貴様」


 彼女は短く返すと、祭壇の前に立ちふさがるように立ち位置を変えた。


「私のこと、覚えてないんですか…?シィロです!…貴女の仲間のシィロですよ!」


 シィロの声は揺れていた。

 彼女の目に浮かぶのは、かつて仲間と呼んでくれたレイスの姿。だが、今そこにいる彼女は、まるで別人のような瞳をしていた。


「…すまないが、知らないな」


 彼女に嘘を言っている様子はなく、本当に覚えていないようだった。


「だが、例え、知り合いだったとしても、ここは“師匠”が護っていた場所だ。師匠亡き今、ここは私が護る。誰ひとりとして近づけさせるつもりはない」


「…レイスさん!」


 シィロは女性に詰め寄ろうとしたが、朝陽が腕を引いて止めた。


「シィロさん、私にあの人と話をさせてください」


 朝陽は囁くようにシィロに告げると、少し前に出た。

 その動きに反応するように女性は杖を構え直した。


「…私は朝陽と言います…レイス、さん?…師匠…とはどなたのことなんですか…?どうしてこの場所を護るんですか…?」


 朝陽が静かな声で女性に話しかける。


「…ここは師匠が古くから護っていた場所…私は…あの人を尊敬して…。そうだ…この場所を護れるのは…私に残っているものはそれしかないんだ…」


 言葉の端々に、混乱と曖昧さがにじんでいた。

 まるで記憶の断片だけが、彼女の中に残っているようだった。


「自分が誰か…気にはならないんですか…?」


 朝陽の言葉に、女性は黙り込んでまう。


「………」


 しばらくした後に、ふと、女性がぽつりと呟く。


「名前も、記憶も……思い出せない。ただ……ここを護るべきだと。それだけが残ってる…」


 空白。

 そこにある「想い」は、とても頼りなさそうで吹けば消えてしまいそうな弱さがあった。


「レイスさん…」


 シィロは自分の知るレイスとの相違に思わず声を溢した。


「…お願い、です…思い出してください…」


「…仮にそうだとしても、その名で呼ばないでくれ…私はレイスではない…」


 静かに、だがはっきりと女性は言った。


 その瞳に、苦悶のような影が一瞬だけ走る。

 何かが、胸の奥で疼いている。けれど、それが“何か”まではわからない。


「お前たちはどうしてこの場所に来た…?」


「…私には思い出したい人がいるんです。そして、この場所に手がかりがあるかもしれないんです…」


「…その者の名前は…?」


「”空”って言います…何か、覚えていませんか…?」


 朝陽がその名を口にした瞬間、女性の指がわずかに震えた。

 記憶にないはずの名前だが、何故か気になった。

 しかしそれはすぐに霧に飲まれる。


「……やはり、知らないな…それに、その者がこの場所に関係している保証もない…」


「…なら!せめて、近くに寄ることだけでも許してください…」


 シィロが女性に懇願した。


「……だめだ…信用できない」


 一瞬の沈黙の後に発した拒絶の言葉。

 だがそれは、敵意というより、「自分自身すら信じられない者の必死の防衛」に見えた。


 ——そのとき。


 朝陽が、ふと一歩だけ前に出る。


「……あなたは今も、師匠さんのためにこの場所を“護りたい”って思っていますよね…?お願いです。その想いを少しだけでいいんです…私の想いを護るために曲げてもらえませんか…?」


「……」


 朝陽は真っ直ぐな瞳で、彼女を見つめている。


 彼女は答えない。

 彼女もまた、朝陽の瞳を見つめ返している。


 崩れた聖域の中で、言葉にならない感情が、しばし空気を満たしていた——。


 * * *


 ——しばらくの沈黙のあと。

 女性は静かに、杖を下ろした。


 その仕草はほんのわずかなものだったが、朝陽にとっては、世界がひとつ開かれたように感じられた。


「……近くまでなら、構わない。ただし、無闇に触れないでくれ。ここは“師匠”の、いや、大切な場所だ」


 その言葉に、朝陽は深く頭を下げた。


「ありがとうございます……」


 ゆっくりと、祭壇へと歩み寄る。

 その一歩一歩が、やけに重く感じられるのは、場所の神聖さゆえか、それとも。


 中央に佇む祭壇。

 苔むすことも、ひび割れることもなく、まるで時間の流れの外に存在しているようだった。


 ——そして、そのときだった。


 朝陽の視界に、ふと違和感のような揺らぎが走る。


 まるで、何かを「思い出す」というより、どこかの記録が勝手に再生されたような、不思議な感覚。


 * * *


 ……光がゆらいだ。

 灰色の世界。音も色も失われたフィルムのような風景。


 視界の中に、誰かがいた。

 表情は見えない。

 こちらに背を向けて、一歩一歩、前に進んでいく。


 そして——

 黒い何かが世界に拡がったような映像に変わった。


 トガビト。


 その名を知らずとも、肌がざわめく。

 黒い何かが誰かに覆い被さる瞬間、こちら側を振り返って微笑んだ。

 その瞳には覚悟と悔恨が入り混じって見えた。


 ——空


 朝陽が声を出そうとするが声が出ることはなく、当たり前のように飲み込まれて消えた。


 * * *


「……!」


 気がつくと、朝陽は膝をついていた。

 祭壇の前で、息が乱れている。


「朝陽さん!」


 駆け寄ろうとしたシィロの肩を、女性が無言で制した。

 彼女はじっと、朝陽を見つめていた。


「……なにが、あった……?」


「……わからない……でも……きっと彼が…“空”が…何かに、飲み込まれる瞬間……それが…見えたの……」


 朝陽の声は震えていたが、その瞳だけははっきりと前を向いていた。


 女性はわずかに目を細めた。

 その表情は、まるで何かを思い出そうとするかのようで——それでも、曖昧なままだった。


 そして、静かに言った。


「……ここに、何かがあったのは……間違いない…のだろうな…。けれど、私には……何も思い出せない。名前も……何も」


 その横顔には、悔しさとも悲しさともつかない、曖昧な影が差していた。


「……だったら、トキレイムに…いっしょに行きませんか…?」


 朝陽が言った。


「あなたの記憶も、いつか戻るかもしれない……それに……“レイスさん”を見つけたことは、大きな手がかりなんです。ここに置いておくには……あなたはあまりにも、何もかもを失いすぎてる」


 レイスは黙っていた。

 長い時間をかけるように、じっと朝陽の顔を見つめていた。


 ——そして。


「……トキレイム、という町に行くんだな?」


「はい」


「……師匠の教えには逆らえないが……きっと、今なら“あの人”も、こう言うかもしれない。“人を信じろ”と」


 静かに、そう呟くと、彼女は祭壇に一礼した。

 そして立ち上がり、朝陽たちのほうへと歩き出した。


「行こう。……このままここにいても、何も変わらない気がする」


 その言葉は、ようやく見つけた小さな“希望”だった。

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