第五十五話:エクリプス
朝陽が静かに歩み寄る。
神聖さを湛えた祭壇は、傷ひとつなくそこに在りながら、周囲の荒廃をひっそりと受け止めていた。
そのときだった。
瓦礫の奥から、小さな音が響く。
——ガラッ。石をどけるような、確かに誰かがそこにいる音。
「……?」
朝陽が立ち止まる。
その背後から、シィロが警戒するように前に出た。
「……誰か、いる?」
霧の中、ゆっくりと人影が現れた。
黒ずんだ石柱の影から姿を現したのは、一人の女性だった。
肩に外套のような布を羽織り、手には長杖。
煤にまみれたような姿で、鋭い視線をこちらに向けている。
「ここから先に、入るな」
杖を水平に構えると威嚇するように告げた。
その声は低く、明確な拒絶の意思を含んでいた。
ふたりは思わず足を止める。
「……あなたは……?」
朝陽がたずねるよりも早く、シィロが震えるように声を発した。
「……レイス……さん?」
その名を聞いても、女性は微動だにしなかった。
「レイスさんですよね!?…探したんですよ!」
「レイス…誰だそれは……?それに、馴れ馴れしいぞ貴様」
彼女は短く返すと、祭壇の前に立ちふさがるように立ち位置を変えた。
「私のこと、覚えてないんですか…?シィロです!…貴女の仲間のシィロですよ!」
シィロの声は揺れていた。
彼女の目に浮かぶのは、かつて仲間と呼んでくれたレイスの姿。だが、今そこにいる彼女は、まるで別人のような瞳をしていた。
「…すまないが、知らないな」
彼女に嘘を言っている様子はなく、本当に覚えていないようだった。
「だが、例え、知り合いだったとしても、ここは“師匠”が護っていた場所だ。師匠亡き今、ここは私が護る。誰ひとりとして近づけさせるつもりはない」
「…レイスさん!」
シィロは女性に詰め寄ろうとしたが、朝陽が腕を引いて止めた。
「シィロさん、私にあの人と話をさせてください」
朝陽は囁くようにシィロに告げると、少し前に出た。
その動きに反応するように女性は杖を構え直した。
「…私は朝陽と言います…レイス、さん?…師匠…とはどなたのことなんですか…?どうしてこの場所を護るんですか…?」
朝陽が静かな声で女性に話しかける。
「…ここは師匠が古くから護っていた場所…私は…あの人を尊敬して…。そうだ…この場所を護れるのは…私に残っているものはそれしかないんだ…」
言葉の端々に、混乱と曖昧さがにじんでいた。
まるで記憶の断片だけが、彼女の中に残っているようだった。
「自分が誰か…気にはならないんですか…?」
朝陽の言葉に、女性は黙り込んでまう。
「………」
しばらくした後に、ふと、女性がぽつりと呟く。
「名前も、記憶も……思い出せない。ただ……ここを護るべきだと。それだけが残ってる…」
空白。
そこにある「想い」は、とても頼りなさそうで吹けば消えてしまいそうな弱さがあった。
「レイスさん…」
シィロは自分の知るレイスとの相違に思わず声を溢した。
「…お願い、です…思い出してください…」
「…仮にそうだとしても、その名で呼ばないでくれ…私はレイスではない…」
静かに、だがはっきりと女性は言った。
その瞳に、苦悶のような影が一瞬だけ走る。
何かが、胸の奥で疼いている。けれど、それが“何か”まではわからない。
「お前たちはどうしてこの場所に来た…?」
「…私には思い出したい人がいるんです。そして、この場所に手がかりがあるかもしれないんです…」
「…その者の名前は…?」
「”空”って言います…何か、覚えていませんか…?」
朝陽がその名を口にした瞬間、女性の指がわずかに震えた。
記憶にないはずの名前だが、何故か気になった。
しかしそれはすぐに霧に飲まれる。
「……やはり、知らないな…それに、その者がこの場所に関係している保証もない…」
「…なら!せめて、近くに寄ることだけでも許してください…」
シィロが女性に懇願した。
「……だめだ…信用できない」
一瞬の沈黙の後に発した拒絶の言葉。
だがそれは、敵意というより、「自分自身すら信じられない者の必死の防衛」に見えた。
——そのとき。
朝陽が、ふと一歩だけ前に出る。
「……あなたは今も、師匠さんのためにこの場所を“護りたい”って思っていますよね…?お願いです。その想いを少しだけでいいんです…私の想いを護るために曲げてもらえませんか…?」
「……」
朝陽は真っ直ぐな瞳で、彼女を見つめている。
彼女は答えない。
彼女もまた、朝陽の瞳を見つめ返している。
崩れた聖域の中で、言葉にならない感情が、しばし空気を満たしていた——。
* * *
——しばらくの沈黙のあと。
女性は静かに、杖を下ろした。
その仕草はほんのわずかなものだったが、朝陽にとっては、世界がひとつ開かれたように感じられた。
「……近くまでなら、構わない。ただし、無闇に触れないでくれ。ここは“師匠”の、いや、大切な場所だ」
その言葉に、朝陽は深く頭を下げた。
「ありがとうございます……」
ゆっくりと、祭壇へと歩み寄る。
その一歩一歩が、やけに重く感じられるのは、場所の神聖さゆえか、それとも。
中央に佇む祭壇。
苔むすことも、ひび割れることもなく、まるで時間の流れの外に存在しているようだった。
——そして、そのときだった。
朝陽の視界に、ふと違和感のような揺らぎが走る。
まるで、何かを「思い出す」というより、どこかの記録が勝手に再生されたような、不思議な感覚。
* * *
……光がゆらいだ。
灰色の世界。音も色も失われたフィルムのような風景。
視界の中に、誰かがいた。
表情は見えない。
こちらに背を向けて、一歩一歩、前に進んでいく。
そして——
黒い何かが世界に拡がったような映像に変わった。
トガビト。
その名を知らずとも、肌がざわめく。
黒い何かが誰かに覆い被さる瞬間、こちら側を振り返って微笑んだ。
その瞳には覚悟と悔恨が入り混じって見えた。
——空
朝陽が声を出そうとするが声が出ることはなく、当たり前のように飲み込まれて消えた。
* * *
「……!」
気がつくと、朝陽は膝をついていた。
祭壇の前で、息が乱れている。
「朝陽さん!」
駆け寄ろうとしたシィロの肩を、女性が無言で制した。
彼女はじっと、朝陽を見つめていた。
「……なにが、あった……?」
「……わからない……でも……きっと彼が…“空”が…何かに、飲み込まれる瞬間……それが…見えたの……」
朝陽の声は震えていたが、その瞳だけははっきりと前を向いていた。
女性はわずかに目を細めた。
その表情は、まるで何かを思い出そうとするかのようで——それでも、曖昧なままだった。
そして、静かに言った。
「……ここに、何かがあったのは……間違いない…のだろうな…。けれど、私には……何も思い出せない。名前も……何も」
その横顔には、悔しさとも悲しさともつかない、曖昧な影が差していた。
「……だったら、トキレイムに…いっしょに行きませんか…?」
朝陽が言った。
「あなたの記憶も、いつか戻るかもしれない……それに……“レイスさん”を見つけたことは、大きな手がかりなんです。ここに置いておくには……あなたはあまりにも、何もかもを失いすぎてる」
レイスは黙っていた。
長い時間をかけるように、じっと朝陽の顔を見つめていた。
——そして。
「……トキレイム、という町に行くんだな?」
「はい」
「……師匠の教えには逆らえないが……きっと、今なら“あの人”も、こう言うかもしれない。“人を信じろ”と」
静かに、そう呟くと、彼女は祭壇に一礼した。
そして立ち上がり、朝陽たちのほうへと歩き出した。
「行こう。……このままここにいても、何も変わらない気がする」
その言葉は、ようやく見つけた小さな“希望”だった。




