第五十三話:レゾナンス
剪定者との会話。
記憶のこと。
そして、忘れてしまった”空”という存在のこと。
夜の出来事はまるで夢のようだったと感じていた。だが、それは、あまりに静かで、確かすぎた。
中庭を後にした朝陽は、ゆっくりと廊下を歩きながら、部屋に辿り着いた。
部屋の扉を押し開くと、すぐにベッドに倒れ込んだ。
「…ふぅ…」
息をひとつ吐くと一度起き上がり、おそらくサイドテーブルにシィロが用意してくれたであろう水差しから水を飲んで、今度はベッドの中に潜り込んだ。
頭の中では剪定者との会話が何度も反芻され、目は冴えていた。
正直、眠れそうになかったはずなのに──それでも、気づけばいつの間にか意識は深く沈んでいた。
* * *
そして朝。
白いカーテン越しに射し込む陽の光が、まぶたの裏にじわりと届いてくる。
少しだけまどろみの中で目をこすり、朝陽はゆっくりと身を起こした。
(……夢じゃ、なかった)
そう呟いた声は、少しかすれていた。
でも胸の奥には、昨日までとは違う、確かな想いがあった。
カーテンを少しだけ開けてみる。
光の粒が床に散り、鳥の声がかすかに聞こえていた。
まるで、昨日までとは少しだけ違う世界に来たような気がして──朝陽はその音に耳を澄ませた。
しかし、頭にあるのは昨日の出来事。
「彼を…私の中に取り戻すんだ。そのためにもシィロさんと話さないと…」
改めて言葉にして小さく頷くと、瞳に力が籠る。
朝陽はこの世界のことも取り戻す方法もわからない。
だからこそ、シィロが力になりたいと言ってくれたことが、心の支えになっていた。
それと同時に、彼女を巻き込んでしまっていいのだろうかという不安が、心のどこかに残っていた。
シィロはきっと、声をかけたら嫌な顔ひとつせず助けてくれる。
頼もしい、そう思う反面、その優しさに甘えてしまうことが怖かった。
だが、彼女はこれからの自分に必要な存在──そんな予感がしていた。
朝陽はベッドから立ち上がり、カーテンを引いた。
光とともに、小鳥のさえずりが風に乗って届く。
眩しすぎない朝の光が、部屋をやわらかく照らしていた。
朝陽は少しだけ呼吸を深くした。
そのとき、廊下の方から、誰かの足音がかすかに聞こえてきた。
(……もしかして、シィロさん?)
朝陽はドアに目を向けた。心が、少しだけ前に動いた。
──コン、と軽いノックの音が響く。
「朝陽さん、起きてますか?」
聞き慣れた声に、朝陽は一瞬ためらいながらも返事をする。
「……はい。起きてます」
ガチャ、とドアがゆっくりと開き、シィロが姿を見せた。
白いシャツに薄い水色のカーディガンを羽織り、朝の光の中でどこか柔らかな雰囲気を纏っている。
「よかった。体調、どうですか?」
心配そうに朝陽の顔を覗き込むその瞳に、嘘はつけないと思った。
だから朝陽は、ほんの少しだけ力を抜いて、頷いた。
「……うん。大丈夫です。たぶん……ちゃんと眠れたから」
シィロはほっとしたように笑い、朝陽のもとに歩み寄る。
「よかった。それなら、朝ごはん……一緒に行きませんか?」
差し出された手が、どこかあたたかかった。
朝陽はほんの一瞬迷ってから、その手をそっと取る。
「……行きましょう。ちょっと、話したいこともあるので」
それを聞いて、シィロはぱっと表情を明るくする。
「わかりました!じゃあ食堂で。歩くの、まだしんどかったら言ってくださいね」
朝陽は、そんな彼女の気遣いに少しだけ救われる気がして、小さく笑った。
* * *
食堂の窓際のテーブル席に、ふたりは向かい合って座っていた。
朝食はトレイに盛られた軽めのメニュー。あたたかいスープの湯気が、わずかに揺れている。
静かな時間。
けれど、心の中では言葉を探していた。
「……シィロさん」
最初に声をかけたのは、朝陽の方だった。
スプーンを持った手を止め、ゆっくりとシィロに目を向ける。
「はい、なんでしょう?」
「……変な話、してもいいですか?」
シィロは目を少しだけ見開いたけれど、すぐに真剣な表情で頷いた。
「もちろんですよ!聞かせてください!」
朝陽は一呼吸おき、スープをひとくち口に運んだ。
その温かさが、ほんの少しだけ、言葉を解かしていく。
「昨日の夜、シィロさんが帰った後、部屋を抜け出して……中庭に行ったんです。眠れなかったから、外の空気が吸いたくて」
シィロは無言で頷いて、続きを促す。
「そこで、人…?に会いました。“剪定者”って名乗った女の子。……記憶を管理してるって言ってました」
シィロはその言葉に一瞬息を呑んだ。
けれどすぐに、急がずに続きを待ってくれる。
「その子に言われたんです。……母ともうひとりの誰かが、私をこの世界に留めようとしたって」
「……お母様ともうひとり……」
朝陽は小さく頷いた。
「……そのときに聞いたんです。“空”って名前を。私は、その子と昔、約束を交わしたことは思い出せたんです。でも、まだそれ以上は思い出せないんです。名前と約束だけが、ぽつんと心の中に残っている…」
口にした名前に、心が少し震えた。
その揺れは不安ではなく、何かに触れたときの、確かなものだった。
「……私はどうしても彼のこと……空のことを思い出したいんです…でも、どうすればいいのかわからないんです」
しばらくの間、言葉が途切れた。
スプーンの音も止まり、ふたりの間に静けさが流れる。
やがて、シィロが小さく息を吐いて呟いた。
「……なるほど…もうひとりの存在ですか…」
「シィロさん、何か知らないですか…?」
「いえ……私が喪失から戻った朝陽さんを運ぶように頼まれたときには…」
「誰かに頼まれたんですか…?」
「え、っと…誰…いえ、あのときは…私はレイスさんに…ミミ…?」
シィロは俯いてそのときのことを思い出していた。
そして、申し訳なさそうに朝陽を見た。
「ごめんなさい、朝陽さん…詳しく思い出せそうにありません…」
「え……」
「当時のことを思い出そうと考えても、すぐに逸れてしまうんです…思考が定まらないと言いますか…」
「それって…おかしいですよね…」
「そうですね…何かに誘導されているような気分で怖くなってきました…」
シィロが虚な表情になり、目が一瞬だけ濁ったように見えた。
(もしかして…シィロさんも何か忘れているんじゃ…?)
「シィロさん…私がいた場所は覚えていますか?」
「場所ですか…?場所は記憶の祭壇と言う所ですよ」
気が付けば表情や目は元に戻っていた。
「そこに案内してもらうことは出来ますか…?」
朝陽がそう尋ねると、シィロはしばらく言葉を探すように黙った。
そして、ふっと目を伏せ、小さく呟く。
「……今、この世界は変化しています。ある《トガビト》が、“種子”を蒔きました。それが、ある日、一斉に芽吹いた……」
「……“トガビト”?」
「はい。想いに集まる存在、と言えば良いのでしょうか…強い想いに惹かれ、求め、取り込もうとする恐ろしく、そして危険な存在です」
そこまで言うと、シィロはおそるおそる自分の掌を見つめた。
その手は少しだけ震えていた。
「……朝陽さんがいた場所。記憶の祭壇にはひとりのトガビトがいました…正直、私は手も足も出ませんでした…だから、再びトガビトが現れる可能性のある“記憶の祭壇”へ行くのは危険だと思います……」
「でも、行きたいんです」
朝陽は真っ直ぐにシィロを見た。
その瞳は、不安と決意をないまぜにした色をしていた。
「私……この世界のこと、何も知らないけど……ちゃんと向き合いたい。思い出したいんです。”空”のことを。何を失ったのかを」
「……朝陽さん……」
シィロはしばらく迷った末、小さく頷いた。
「……わかりました。私にできる限り、力になります。でも、ひとつだけ約束してください」
「……?」
「無理をしないでください。記憶を追いかけるということは、時に“存在の輪郭”さえ揺らぎかねません。あなた自身が消えてしまったら、本末転倒です」
「……うん、ありがとう」
微かに微笑んだ朝陽に、シィロも静かに微笑みを返す。
「食事が済んだら、準備をして向かいましょう。記憶の祭壇に」
「……わかりました」
静かに頷き合った。
あたたかいスープの湯気が、まだほんの少しだけ揺れていた。
朝食を終えると、シィロは席を立ちながら言った。
「私は少し準備をしてきますね。朝陽さんはここで待っていてください」
朝陽が小さく頷くと、シィロは足音も静かに食堂を後にした。
* * *
窓際の席に座っている朝陽は目を閉じて深く息を吸う。
緊張と不安、そして決意。胸の中には、いろんな感情が渦巻いていた。
──そのときだった。
「……遊びに行くなんて、いい身分だな」
鋭く抑えた声が、廊下の方から聞こえてきた。
朝陽が顔を上げると、壁の向こうから低い怒声が続く。
「レイスさんが未帰還なのは、お前のせいだろうが……それに…我々がトガビトと戦っている間、お前は何を呑気にしてやがるんだ」
「……それは、違います。私は……」
「お前に反論する権利があると思ってるのか?我々、記録者のお荷物の分際で…!」
──その言葉に、朝陽の胸が締めつけられた。
(……シィロさんが、責められてる……?)
立ち上がり、足音を殺して廊下へ向かうと、そこには険しい顔の記録者がひとり、シィロを睨みつけていた。
シィロはただ俯いて、唇を噛んでいた。
「……やめてください!」
思わず、朝陽の声が飛び出していた。
記録者が振り返り、眉をひそめる。
「……誰だ。お前は」
「朝陽です。……シィロさんに、謝ってください。あなたの言い方は──」
「ふん……」
記録者は舌打ちし、睨みつけるような視線を投げてから、肩をすくめて踵を返す。
「感情で動く者が増えてきたな……どいつもこいつも」
そのまま、廊下の奥へと去っていく。
だが朝陽は、それを追いかけようとして、一歩踏み出した。
そのとき──
「……朝陽さん、もういいんです……」
シィロの手が、朝陽の手首を静かに掴んでいた。
「でも、あんな言い方……っ」
「大丈夫ですから。私は、慣れています……」
そう言った彼女の声は、かすかに震えていた。
朝陽は振り返り、その目を見た。
そこには、痛みと、哀しみと、少しの諦めが混ざった色があった。
その瞳に、何も言い返せなかった。
記録者の姿はすでに見えない。
静寂が戻った廊下で、ふたりだけが立ち尽くしていた。
しばらくの沈黙のあと、シィロがぽつりと呟いた。
「私……誰かを助けられるように努力はしてるんです。でも……まだ未熟で……皆さんの足を引っ張ってばかりだから……仕方ないって、わかってるんです」
彼女の視線が、微かに揺れる。
「それでも……責められるたびに思ってしまうんです。私はここにいるべきじゃないんじゃないかって。いらない人間なんじゃないかって……」
「……」
「朝陽さんのことを守りたい。そう思ってます。でも……同じように、私では力になれないんじゃないかって……思ってしまうんです……」
言葉がそこで止まる。
肩が、ほんの少し震えていた。
それでも、涙は流さなかった。
朝陽は迷いながらも、その手をゆっくりと取った。
「……シィロさん」
言葉が、また喉でつかえる。
けれど、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと続ける。
「……うまく言えないけど……私は、目覚めたとき、あなたがいてくれて……すごく、安心しました」
シィロの目が、驚いたように動いた。
「……あなたがいなかったら、私はきっと……ここにいなかった。だから……私にとっては、あなたがいてくれてよかったって……本当に、そう思ってます」
そうしてから、ふと声を落とした。
「……でも、無理しないでください。私は……まだ何もできないけど。……でも、誰かのために傷つくあなたが、ひとりで耐え続けるのは、違うと思うから」
静かな空気が流れる。
シィロは、ほんの少しだけ目を伏せて、ふっと微笑んだ。
「……ありがとう、朝陽さん」
シィロはふっと目を伏せたあと、少しだけ頬を赤らめた。
「……すみません、なんだか、自分のことばっかり話しちゃって」
声はわずかに照れくさそうだった。
「……ちょっと、かっこ悪かったですね。朝から重たい話して、ごめんなさい」
朝陽が首を振ると、シィロは小さく息を吐き、わざとらしく明るい声を出した。
「……よし、じゃあ気持ちを切り替えて!朝陽さん、そろそろ行きましょう!」
さっきまでの弱さを隠すように、でもどこか柔らかな笑顔を浮かべて、手を差し伸べてくる。
その手はもう震えていなかった。
「準備、大丈夫ですか?記憶の祭壇へ」
朝陽も小さく頷いて、その手を取る。
「……うん。行こう、シィロさん」




