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そらのかけら  作者: 夜と雨
第九章: 消える世界、君のために
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第五十三話:レゾナンス

 剪定者との会話。

 記憶のこと。

 そして、忘れてしまった”空”という存在のこと。


 夜の出来事はまるで夢のようだったと感じていた。だが、それは、あまりに静かで、確かすぎた。


 中庭を後にした朝陽は、ゆっくりと廊下を歩きながら、部屋に辿り着いた。

 部屋の扉を押し開くと、すぐにベッドに倒れ込んだ。

 

「…ふぅ…」


 息をひとつ吐くと一度起き上がり、おそらくサイドテーブルにシィロが用意してくれたであろう水差しから水を飲んで、今度はベッドの中に潜り込んだ。


 頭の中では剪定者との会話が何度も反芻され、目は冴えていた。

 正直、眠れそうになかったはずなのに──それでも、気づけばいつの間にか意識は深く沈んでいた。


 * * *


 そして朝。


 白いカーテン越しに射し込む陽の光が、まぶたの裏にじわりと届いてくる。

 少しだけまどろみの中で目をこすり、朝陽はゆっくりと身を起こした。


(……夢じゃ、なかった)


 そう呟いた声は、少しかすれていた。

 でも胸の奥には、昨日までとは違う、確かな想いがあった。


 カーテンを少しだけ開けてみる。

 光の粒が床に散り、鳥の声がかすかに聞こえていた。


 まるで、昨日までとは少しだけ違う世界に来たような気がして──朝陽はその音に耳を澄ませた。


 しかし、頭にあるのは昨日の出来事。


「彼を…私の中に取り戻すんだ。そのためにもシィロさんと話さないと…」


 改めて言葉にして小さく頷くと、瞳に力が籠る。

 

 朝陽はこの世界のことも取り戻す方法もわからない。

 だからこそ、シィロが力になりたいと言ってくれたことが、心の支えになっていた。


 それと同時に、彼女を巻き込んでしまっていいのだろうかという不安が、心のどこかに残っていた。

 シィロはきっと、声をかけたら嫌な顔ひとつせず助けてくれる。

 頼もしい、そう思う反面、その優しさに甘えてしまうことが怖かった。


 だが、彼女はこれからの自分に必要な存在──そんな予感がしていた。


 朝陽はベッドから立ち上がり、カーテンを引いた。

 光とともに、小鳥のさえずりが風に乗って届く。

 眩しすぎない朝の光が、部屋をやわらかく照らしていた。

 朝陽は少しだけ呼吸を深くした。


 そのとき、廊下の方から、誰かの足音がかすかに聞こえてきた。


(……もしかして、シィロさん?)


 朝陽はドアに目を向けた。心が、少しだけ前に動いた。


 ──コン、と軽いノックの音が響く。


「朝陽さん、起きてますか?」


 聞き慣れた声に、朝陽は一瞬ためらいながらも返事をする。


「……はい。起きてます」


 ガチャ、とドアがゆっくりと開き、シィロが姿を見せた。

 白いシャツに薄い水色のカーディガンを羽織り、朝の光の中でどこか柔らかな雰囲気を纏っている。


「よかった。体調、どうですか?」


 心配そうに朝陽の顔を覗き込むその瞳に、嘘はつけないと思った。

 だから朝陽は、ほんの少しだけ力を抜いて、頷いた。


「……うん。大丈夫です。たぶん……ちゃんと眠れたから」


 シィロはほっとしたように笑い、朝陽のもとに歩み寄る。


「よかった。それなら、朝ごはん……一緒に行きませんか?」


 差し出された手が、どこかあたたかかった。

 朝陽はほんの一瞬迷ってから、その手をそっと取る。


「……行きましょう。ちょっと、話したいこともあるので」


 それを聞いて、シィロはぱっと表情を明るくする。


「わかりました!じゃあ食堂で。歩くの、まだしんどかったら言ってくださいね」


 朝陽は、そんな彼女の気遣いに少しだけ救われる気がして、小さく笑った。


 * * *


 食堂の窓際のテーブル席に、ふたりは向かい合って座っていた。

 朝食はトレイに盛られた軽めのメニュー。あたたかいスープの湯気が、わずかに揺れている。


 静かな時間。

 けれど、心の中では言葉を探していた。


「……シィロさん」


 最初に声をかけたのは、朝陽の方だった。

 スプーンを持った手を止め、ゆっくりとシィロに目を向ける。


「はい、なんでしょう?」


「……変な話、してもいいですか?」


 シィロは目を少しだけ見開いたけれど、すぐに真剣な表情で頷いた。


「もちろんですよ!聞かせてください!」


 朝陽は一呼吸おき、スープをひとくち口に運んだ。

 その温かさが、ほんの少しだけ、言葉を解かしていく。


「昨日の夜、シィロさんが帰った後、部屋を抜け出して……中庭に行ったんです。眠れなかったから、外の空気が吸いたくて」


 シィロは無言で頷いて、続きを促す。


「そこで、人…?に会いました。“剪定者”って名乗った女の子。……記憶を管理してるって言ってました」


 シィロはその言葉に一瞬息を呑んだ。

 けれどすぐに、急がずに続きを待ってくれる。


「その子に言われたんです。……母ともうひとりの誰かが、私をこの世界に留めようとしたって」


「……お母様ともうひとり……」


 朝陽は小さく頷いた。


「……そのときに聞いたんです。“空”って名前を。私は、その子と昔、約束を交わしたことは思い出せたんです。でも、まだそれ以上は思い出せないんです。名前と約束だけが、ぽつんと心の中に残っている…」


 口にした名前に、心が少し震えた。

 その揺れは不安ではなく、何かに触れたときの、確かなものだった。


「……私はどうしても彼のこと……空のことを思い出したいんです…でも、どうすればいいのかわからないんです」


 しばらくの間、言葉が途切れた。

 スプーンの音も止まり、ふたりの間に静けさが流れる。


 やがて、シィロが小さく息を吐いて呟いた。


「……なるほど…もうひとりの存在ですか…」


「シィロさん、何か知らないですか…?」


「いえ……私が喪失から戻った朝陽さんを運ぶように頼まれたときには…」


「誰かに頼まれたんですか…?」


「え、っと…誰…いえ、あのときは…私はレイスさんに…ミミ…?」


 シィロは俯いてそのときのことを思い出していた。

 そして、申し訳なさそうに朝陽を見た。


「ごめんなさい、朝陽さん…詳しく思い出せそうにありません…」


「え……」


「当時のことを思い出そうと考えても、すぐに逸れてしまうんです…思考が定まらないと言いますか…」


「それって…おかしいですよね…」


「そうですね…何かに誘導されているような気分で怖くなってきました…」


 シィロが虚な表情になり、目が一瞬だけ濁ったように見えた。


(もしかして…シィロさんも何か忘れているんじゃ…?)


「シィロさん…私がいた場所は覚えていますか?」


「場所ですか…?場所は記憶の祭壇と言う所ですよ」


 気が付けば表情や目は元に戻っていた。


「そこに案内してもらうことは出来ますか…?」


 朝陽がそう尋ねると、シィロはしばらく言葉を探すように黙った。

 そして、ふっと目を伏せ、小さく呟く。


「……今、この世界は変化しています。ある《トガビト》が、“種子”を蒔きました。それが、ある日、一斉に芽吹いた……」


「……“トガビト”?」


「はい。想いに集まる存在、と言えば良いのでしょうか…強い想いに惹かれ、求め、取り込もうとする恐ろしく、そして危険な存在です」


 そこまで言うと、シィロはおそるおそる自分の掌を見つめた。

 その手は少しだけ震えていた。


「……朝陽さんがいた場所。記憶の祭壇にはひとりのトガビトがいました…正直、私は手も足も出ませんでした…だから、再びトガビトが現れる可能性のある“記憶の祭壇”へ行くのは危険だと思います……」


「でも、行きたいんです」


 朝陽は真っ直ぐにシィロを見た。

 その瞳は、不安と決意をないまぜにした色をしていた。


「私……この世界のこと、何も知らないけど……ちゃんと向き合いたい。思い出したいんです。”空”のことを。何を失ったのかを」


「……朝陽さん……」


 シィロはしばらく迷った末、小さく頷いた。


「……わかりました。私にできる限り、力になります。でも、ひとつだけ約束してください」


「……?」


「無理をしないでください。記憶を追いかけるということは、時に“存在の輪郭”さえ揺らぎかねません。あなた自身が消えてしまったら、本末転倒です」


「……うん、ありがとう」


 微かに微笑んだ朝陽に、シィロも静かに微笑みを返す。


「食事が済んだら、準備をして向かいましょう。記憶の祭壇に」


「……わかりました」


 静かに頷き合った。

 あたたかいスープの湯気が、まだほんの少しだけ揺れていた。


 朝食を終えると、シィロは席を立ちながら言った。


「私は少し準備をしてきますね。朝陽さんはここで待っていてください」


 朝陽が小さく頷くと、シィロは足音も静かに食堂を後にした。


 * * *


 窓際の席に座っている朝陽は目を閉じて深く息を吸う。

 緊張と不安、そして決意。胸の中には、いろんな感情が渦巻いていた。


 ──そのときだった。


「……遊びに行くなんて、いい身分だな」


 鋭く抑えた声が、廊下の方から聞こえてきた。

 朝陽が顔を上げると、壁の向こうから低い怒声が続く。


「レイスさんが未帰還なのは、お前のせいだろうが……それに…我々がトガビトと戦っている間、お前は何を呑気にしてやがるんだ」


「……それは、違います。私は……」


「お前に反論する権利があると思ってるのか?我々、記録者(トキビト)のお荷物の分際で…!」


 ──その言葉に、朝陽の胸が締めつけられた。


(……シィロさんが、責められてる……?)


 立ち上がり、足音を殺して廊下へ向かうと、そこには険しい顔の記録者がひとり、シィロを睨みつけていた。


 シィロはただ俯いて、唇を噛んでいた。


「……やめてください!」


 思わず、朝陽の声が飛び出していた。


 記録者が振り返り、眉をひそめる。


「……誰だ。お前は」


「朝陽です。……シィロさんに、謝ってください。あなたの言い方は──」


「ふん……」


 記録者は舌打ちし、睨みつけるような視線を投げてから、肩をすくめて踵を返す。


「感情で動く者が増えてきたな……どいつもこいつも」


 そのまま、廊下の奥へと去っていく。

 だが朝陽は、それを追いかけようとして、一歩踏み出した。


 そのとき──


「……朝陽さん、もういいんです……」


 シィロの手が、朝陽の手首を静かに掴んでいた。


「でも、あんな言い方……っ」


「大丈夫ですから。私は、慣れています……」


 そう言った彼女の声は、かすかに震えていた。

 朝陽は振り返り、その目を見た。


 そこには、痛みと、哀しみと、少しの諦めが混ざった色があった。

 その瞳に、何も言い返せなかった。


 記録者の姿はすでに見えない。

 静寂が戻った廊下で、ふたりだけが立ち尽くしていた。


 しばらくの沈黙のあと、シィロがぽつりと呟いた。


「私……誰かを助けられるように努力はしてるんです。でも……まだ未熟で……皆さんの足を引っ張ってばかりだから……仕方ないって、わかってるんです」


 彼女の視線が、微かに揺れる。


「それでも……責められるたびに思ってしまうんです。私はここにいるべきじゃないんじゃないかって。いらない人間なんじゃないかって……」


「……」


「朝陽さんのことを守りたい。そう思ってます。でも……同じように、私では力になれないんじゃないかって……思ってしまうんです……」


 言葉がそこで止まる。


 肩が、ほんの少し震えていた。

 それでも、涙は流さなかった。


 朝陽は迷いながらも、その手をゆっくりと取った。


「……シィロさん」


 言葉が、また喉でつかえる。

 けれど、しばらく沈黙したあと、ゆっくりと続ける。


「……うまく言えないけど……私は、目覚めたとき、あなたがいてくれて……すごく、安心しました」


 シィロの目が、驚いたように動いた。


「……あなたがいなかったら、私はきっと……ここにいなかった。だから……私にとっては、あなたがいてくれてよかったって……本当に、そう思ってます」


 そうしてから、ふと声を落とした。


「……でも、無理しないでください。私は……まだ何もできないけど。……でも、誰かのために傷つくあなたが、ひとりで耐え続けるのは、違うと思うから」


 静かな空気が流れる。


 シィロは、ほんの少しだけ目を伏せて、ふっと微笑んだ。


「……ありがとう、朝陽さん」


 シィロはふっと目を伏せたあと、少しだけ頬を赤らめた。


「……すみません、なんだか、自分のことばっかり話しちゃって」


 声はわずかに照れくさそうだった。


「……ちょっと、かっこ悪かったですね。朝から重たい話して、ごめんなさい」


 朝陽が首を振ると、シィロは小さく息を吐き、わざとらしく明るい声を出した。


「……よし、じゃあ気持ちを切り替えて!朝陽さん、そろそろ行きましょう!」


 さっきまでの弱さを隠すように、でもどこか柔らかな笑顔を浮かべて、手を差し伸べてくる。


 その手はもう震えていなかった。


「準備、大丈夫ですか?記憶の祭壇へ」


 朝陽も小さく頷いて、その手を取る。


「……うん。行こう、シィロさん」


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