第五十話:リライト
新章開始です。
蝉の声が、うるさいほどに響いていた。
ここは青岐町。
山と畑に囲まれた、小さな田舎町。
県の端っこにあって、電車は一時間に一本、コンビニより自販機の方が多い。
人口は一万に満たないらしい。
娯楽施設なんてほとんどないけど、夏になると空はどこまでも青くて、蝉の声が空気の隙間を埋めるみたいに鳴いている。
退屈だけど、悪くはない。
そんな、町。
「天音!」
不意に担任の加納先生に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「ぼーっとしてないで、問題解け」
「あ、はいっ……すみません……」
教室の空気が、ざわっと揺れる。後ろの席の誰かがクスクスと笑い、前の席の誰かが振り返った。
やってしまった…と思いながら、私は黒板に目を向けた。
そこで、ふと我に帰る。
(どうして私は、ここにいるんだっけ…?)
教室を見る。
数日前に転校してきた学校。
まだ慣れるには早いが、嫌いではないクラスメイト達。
でも、何かひとつだけ足りない気がした。
私の席の斜め前。
その席には誰も座っていなかったが、何故だか、気になってしまった。
* * *
放課後。
蝉の声が響く帰り道。
何かのきっかけで仲良くなった、波瀬 伊織と歩いていた。
「結局、誰も肝試し行ってくれなくてさぁ…」
先ほどから波瀬くんが楽しそうに話している。
だけど、その声が、どこか少しだけ遠く感じられた。
波瀬くんの後ろ姿を見ながら、私は考える。
(……どうして私は、波瀬くんとこんなに仲良かったんだっけ?)
いつから一緒に帰るようになったのか、思い出せなかった。
「天音さん、どうしたの?何か上の空じゃん」
「あ、ごめんね、波瀬くん。なんでもないよ」
私は慌てて手を振って誤魔化した。
「…そっか、まぁ…なんかあったら相談してくれよー」
波瀬くんの言葉に見透かされているような気がして少し動揺する。
「…う、うん。そのときは頼りにさせてもらう」
「伊織さんは意外と頼りになる男だからな」
波瀬くんが力瘤を作って得意気に笑った。
「あ、じゃあ、俺こっちだから。また明日ー」
「うん。また、明日」
別れ道に到着すると波瀬くんは手を振ってから、自宅に向けて歩いていく。
後ろ姿を見送った後、私も帰路に着いた。
* * *
家に帰りつくと、玄関の鍵はかかっていた。
靴を脱ぎながら「ただいま」と呟くが、返事はない。
(……そっか。誰もいないんだった)
いつも通りの静けさ。
リビングに入って、母の仏壇に手を合わせる。
「ただいま、お母さん」
私が小さいときに亡くなった母。
亡くなった当初はまだ母の死が理解出来ていなかった、ただ、無邪気に母がまた帰ってくると思っていた気がする。
死を理解してからは、毎日が暗く、濁って見えてしまい、よくひとりで泣いていた。
その度に父は優しく抱きしめて、頭を撫でてくれた。
父子家庭。
言葉にすると簡単だった。
今はあまり寂しいとは思わない。
けれど、たまに胸の奥がきゅっとなる時がある。
しばらく手を合わせた後、立ち上がり自分の部屋に向かった。
制服を抜いで、私服に着替える。
再び、リビングに戻って、冷蔵庫から牛乳を取り出して少し飲んだ。
冷たい。外の蝉の声がより、暑さを感じさせる。
リモコンの電源を入れて、椅子に座って、ぼんやりと牛乳を眺める。
ちびちびと牛乳を飲みながら、今日感じたことを振り返った。
(教室の席…あそこは誰かの席だったと思うんだけど…)
転校当日に、あそこの誰かを目印に私の席を教えられたような気がした。
(それに…波瀬くんと仲良くなったのも、何がきっかけだったかな…)
思い出そうとしても、答えに辿り着けない感覚。
気のせいだと思いたいが、心の何処かが煮え切らなかった。
(…明日、波瀬くんにも聞いてみようかな)
私が覚えていなくても、波瀬くんなら覚えているかもしれない。
そう思って、今日は考えることは辞めることにした。
コップを流しに置くと、シャワーを浴びに脱衣所に向かう。
シャワーを済まして、パジャマに着替えた。
スマホを手に取ると、父から連絡が入っていた。
『ごめん。遅くなるから、先に夕食を食べてて。おやすみ』
「わかった。無理しないでね、おやすみ」と返信を返して、スマホの画面を消した。
夕食は冷蔵庫にあった残り物を温めて済ませる。
テレビをつけてみたが、特に見る気になれなかったため、早めにベッドに潜り込むことにした。
(……なんだろう、今日は)
歯車がひとつ噛み合ってないような感覚。
でも、それが何かはわからない。
(……誰かが、いた気がするんだけどな)
そう思った瞬間、胸がちくりと痛んだ。
* * *
翌朝。
昨日と同じように耳にまとわりついてくる蝉の声が私を夢から覚醒させた。
顔を洗って、制服に着替える。
リビングに行くとエプロンを着た父がコーヒーを飲みながら、朝食を作ってくれていた。
「おはよう、お父さん」
「ああ、おはよう。朝陽。昨日は済まなかったね」
私の声に気付いたのか父が申し訳なさそうな顔をしながらこちらを見る。
「大丈夫、気にしないで」
「そう言ってくれると助かるよ。もうすぐ朝食が出来るから座って待ってて」
「あ、手伝うよ」
「いいから、いいから」
優しく笑う父。
母が亡くなってから、父はキッチンによく立つようになった。
幼かった私のために一生懸命、美味しいご飯を作ってくれた父には感謝しかない。
でも、エプロン姿は今でも少ししっくりこなかった。
椅子に座って待っていると、ほどなくして炊きたてのお米と焼き鮭、ほうれん草のお浸しに野菜たっぷりのお味噌汁が出てきた。
「…美味しそう……いただきます」
お腹が鳴った気がして、すぐに箸を取って朝食を摂った。
向かいの席に父が座って、ニコニコと笑っている。
急に父の視線に恥ずかしくなり、話をして視線を逸らそうとした。
「お仕事、大変なの?」
「…いや、大丈夫だよ。転勤してきたばかりでバタついてるだけ」
笑顔で疲れた顔を隠そうとしているがバレバレだった。
「…あまり無理しないでね。片付けとか、料理とか私がやっておくから」
「ありがとう、朝陽。助かるよ…そうだ、学校は慣れそう?」
学校、という単語にドキッとした。
私は社交的ではない上に、昨日抱いた違和感のせいだ。
「……うん、大丈夫だと思う。話をする友達?も出来たしね…でも…ううん。なんでもない」
そんな内心を隠すように私は笑う。
「…そうか、友達もできたんだね。良かったね、朝陽。あー、でも何か困ったことがあったら相談するんだよ」
「ふふ…その友達にも昨日同じこと言われた。私、そんなにわかりやすいかな…?」
「ううん…まぁ、ちょっとね」
冗談めかして笑う父に、私も釣られて笑った。
会話をしているうちに、朝食を食べ終える。
「ごちそうさま。とても美味しかった」
食器を洗い場に運んで洗う。
「お父さん、コーヒーカップも洗うよ」
そう言うと父はコーヒーを一気に飲み干して、カップを運んできた。
「ありがとう…さて、仕事に行ってくるよ」
父はソファに置いてあった鞄を手に持った。
「行ってらっしゃい。気を付けてね」
「ああ、朝陽もね」
そして、仏壇に手を合わせて仕事に向かって行った。
私も洗い物を済ませると登校することにした。
* * *
学校までの道を歩いていると、途中で眠たそうに歩く波瀬くんの姿を見つけた。
「おはよう、波瀬くん」
「あ、おはよー天音さん」
「…波瀬くん、眠たそうだね」
「そうなんだよー。昨日夜中に、心霊!朝までホラーショー!って番組があってさぁ…」
波瀬くんは目の下にクマを作りながら笑っていた。
「見てたんだね…」
「俺、怖い番組、好き」
ゾンビのふりをしながら歩く波瀬くん。
しばらく歩きながら、軽く雑談が続ける。
「そういえば、肝試しの話って誰に断られたの?」
「あー、クラスの男子ほぼ全員と、あと女子にも何人か。怖がりばっかなんだよなー。俺が一番ビビリだったらどうしよう」
「それは……うん、想像できるかも」
「えー!? ヒドっ」
そんな会話に小さく笑いながら、でも私はずっとタイミングを見計らっていた。
そして、ようやく口を開く。
「ねえ、ちょっと真面目な話していい?」
「……おう、いいよ」
「……私の席、斜め前にあるけど、あそこって……最初から誰も座ってなかったっけ?」
「……え?」
波瀬くんは一瞬止まって、少し考えるように空を見上げた。
「んー……たしかに空いてたと思うけど。天音さんが来る前から、ずっと」
「……そう、なんだ」
でも、やっぱり引っかかった。
私が初めて教室に案内された日。
あの席に座っていた誰かに、目線を合わせるように自分の席を見つけたような気がする。
「なんか、いたような気がしたんだよね。誰かが」
「へえ……なんだろうね、夢で見たとか?」
「ううん、そういうのじゃなくて……なんか、現実の記憶みたいな感じ」
「うーん……それ、もしかして──」
一拍おいて、少し怯えたように言った。
「お化けとかじゃないよね…」
私は笑ってみせるけれど、どうしても笑いきれなかった。
何かが、本当に足りない気がしていた。
そして、それは朝陽の中で決定的な“ズレ”を感じさせた。
(……そんなはず、ない気がする)
歩き出した伊織の背中をぼんやり見つめながら、胸の奥がざわついていた。
ふと、視界の隅で白いものが動いた。
(……猫?)
振り返ると、細い路地の先に、白い猫が立っていた。
真っ直ぐにこちらを見ていた。
どこかで見たような、懐かしいような気がした。
猫は小さく「ニャア」と鳴くと、くるりと向きを変えて歩き出す。
「……待って」
自分でも理由はわからなかった。
ただ、放ってはいけない気がして、猫のあとを追いかける。
「波瀬くん、ごめん。先に学校、行っておいて」
「…え?あ、天音さん、何処に──」
驚く波瀬くんを置いて、私はひとりで細い路地に足を踏み入れる。
「…待って」
先を行く白猫は、私が着いてきているかを確認するように時折、振り返ってペースを合わせているようだった。
私と白猫は一定の距離でしばらく歩いていく。
気付けば、通学路を外れ、青岐町にある神社の鳥居の前に辿り着いていた。
白猫は鳥居を抜けて、境内へと続く石段に座っていた。
私も白猫を追って鳥居をくぐると、風が吹いた。
蝉の声も途切れたかのように静かになった。
(この場所……なんで、こんなに懐かしいんだろう)
白猫は一気に石段を駆け上がって、姿が見えなくなった。
「…あ、待って!」
急いで、石段を登ると境内に到着した。
白猫は境内の奥、社の前に座って、私を待っていた。
「あなたはどこの子…?何か知ってるの…?」
猫が知るわけないと思いながらも話しかけていた。
白猫はじっと、こちらを見ていたが、私が近づくと何も言わずに更に奥に入っていってしまった。
「……あ」
冷静になったら、猫が何かを知っているわけがない。
そう思うと、声を出して話しかけていた自分が恥ずかしくなった。
そのとき、異常なほど強い風が神社の中を通り抜けた。
そして、何処かで、誰かが泣いている声が聞こえた。
声の主を探して、辺りを見渡した。
右前方、一際、目を引く巨大な御神木の下。
そこで、誰かが泣いている姿が見えた。
声のほうへと歩を進める。
足取りは泥濘の中を歩くように、ひどく緩慢な動きであった。
ゆっくりと前進して、御神木の下に到達する。
声の主に目をやると、御神木のほうを向いて泣いているようだった。
その子は、真っ黒に塗り潰されたような、影のような存在だった。
だが、どういう理屈か、その影が小さな男の子であることが分かった。
不思議と、恐怖はなかった。
「──」
泣いている影に声を放とうとするが、声にならなかった。
「──」
再び、声を放つ。
声が届いたわけではないが、その影がゆっくりと振り返る。
影の少年と目があった──気がした。
『……ごめんなさい』
影の少年が言った。
「……どうして謝るの?」
自分の意思とは反して、ことばが落ちる。
しかし、返答はなく、少年はただ俯いていた。
再び、少年が何かを言おうとした、そのとき。
──周囲の景色が、渦を巻くように崩れはじめた。
神社も、木々も、空さえも、音もなく何かに飲み込まれていく。
目の前の少年も同様に、風に攫われるように引きずられていく。
何かを伝えようとしていた。
だが、声は届かない。
まるで、予定調和のように。
「……まって──!」
手を伸ばす。
届かない。
それでも、声を張り上げる。
「待って! 行かないで──!」
足は鉛のように動かず、視界はひどく滲んでいく。
目の前から、すべてが消えていった。
* * *
「──待って…!!」
朝陽は手を伸ばしたまま跳ね起きた。
額には汗がにじみ、心臓が喉元でうるさく鳴っている。
「……夢…だったの…?」
部屋には、静寂だけが広がっていた。
だけど──何かが足りない。
目覚めても、胸の奥に、どうしようもない空白だけが残っていた。
「…ここは、どこだろう…?」
朝陽の記憶にはない部屋。
白を基調にした壁に、柔らかい照明。
幾つかの家具に、シンプルな木製の机。
簡素ではあるが、静かで落ち着いた雰囲気の部屋だった。
部屋の中を見渡していると、突然扉が開いた。
朝陽が入ってくる人物を見ていると、その人物と目が合った。
「…朝陽さん!?目が覚めたんですか?」
白を基調とした服、長めの袖。
くせっ毛気味の白髪が肩でふわりと揺れ、灰色と青色が混じったような瞳が、こちらをまっすぐに見つめていた。
白い少女は部屋に入ってくると、勢いよく朝陽のそばに寄ってきた。
「朝陽さん…私が、わかりますか!?」
そう言って朝陽の顔を覗き込んだ。
「あなたは誰…?」
「私を覚えてないんですか…いえ、覚えていなくてもしょうがないです…」
ショックを受けたように、耳の形のような癖っ毛がしゅんとした気がした。
「私はシィロ。記録者のシィロです。朝陽さんは長い間、眠っていたんです」
シィロと名乗る少女は気を取り直したように、朝陽にそう告げた。




