第四十九話:薄れ日
湿った苔の匂いと、しんと静まり返った気配。
シィロは重たい足取りで、ゆっくりと山道を下っていた。
崩れかけた古道は雨に濡れ、ところどころぬかるんでいた。
背にはぐったりとした朝陽の身体。軽いはずの少女の重みが、今は鉛のようにのしかかってくる。
時折、レイスが追いついてきていないか振り返る。
姿がないことを確認すると、また前を向いて歩き出す。
崖上からロープで降下した地点に到達した。
「…流石に登れませんよね…」
垂れ下がるロープを見つめ、背中の朝陽を見やる。
すぐさま、考え直して、別のルートを模索することにした。
「こっちの道しか…ありませんね…」
山道の登り道。
行きとは違う道のため、何処に続いているかは不明だった。
それでも、空に頼まれた朝陽を連れて帰るという使命感があった。
「…よし、行きましょう…」
気合いを入れるように呟いたシィロは、朝陽を背負い直して、登り道へと足を向ける。
その時、空気が張りつめて、音を立てて切れたような感覚がした。
「………?」
嫌な胸騒ぎがして、来た道を振り返る。
しばらく見つめていたが変化はなかった。
「…なんだったんでしょうか…」
シィロは首を傾げながら、再び前を向いた。
そして、山道を歩き始めた。
* * *
山道は想像以上に険しかった。
倒木や崩れかけた段差を避けながら、シィロは何度も立ち止まり、足元のぬかるみを確認しながら歩いた。
朝陽は眠ったままだ。
時折、小さく息をする音だけが、確かに命を繋いでいることを教えてくれる。
「……朝陽さんを、守らないと……」
誰かにそう頼まれた──ような気がした。
その“誰か”の顔を思い出そうとする。
けれど、霧のように思考がぼやけて、焦点が定まらない。
疲れと寒さで指先の感覚が鈍くなる。
ふらつく足取りで、朽ちた倒木に腰を下ろした。
「……あの人は……?」
口をついて出た言葉。
自分でも、誰のことを言っているのかわからない。
けれど──胸が妙にざわついて、泣きたくなるような喪失感がこみ上げてくる。
しかし、次第に喪失感も薄れていく。
何かを書き換えられていくような感覚に少し目眩を覚える。
「……誰か……いた気が……」
違う。
「いた」ではない。
「いなければならない」のだ──そんな、根拠のない確信だけが胸に残っていた。
けれど、記憶が遠ざかるのは止められなかった。
まるで、朝起きてすぐに夢を忘れていくように。
思考を追いかけようとしても、すぐに流れていってしまった。
シィロは、立ち上がった。
背の朝陽を支え直し、再び、静かな山道を歩き始める。
(……帰らないと。朝陽さんを……無事に……)
今や、それだけを頼りに、霧の中のような意識で、ただ前へと進んだ。
一歩進むごとに何かを失いながら。
* * *
なんとか地上まで到達して、休憩を幾度と挟みながらもトキレイムへと進む。
陽はもうとっくに山を越え、薄闇が世界を支配していた。
遠くでフクロウが鳴く。
肩にかけたマントの内で、朝陽は目覚めることなく微かに息をしていた。
長い道のりの果てに──木々の向こうに、やっとトキレイムの明かりが見えた。
シィロは小さく息を吐く。
(……よかった。……帰ってこれた)
いつの間にか、心を満たしていた焦燥や悲しみは薄れていた。
代わりに、ぽっかりと穴の空いたような静けさだけが、胸の奥に残っていた。
トキレイムの門を抜けて、記録者の宿泊施設へと向かう。
遅い時間になってしまっていたようで、誰ともすれ違う気配はない。
シィロはそのことに、少しだけ安心した。
宿泊施設の扉を開けて、中に入る。
誰もいないロビーで、石像とエクシウスだけがシィロたちを出迎える。
「……疲れました…」
シィロは小さくつぶやいた。
(朝陽さんをベッドに寝かせてあげないと…)
ふと思いつくままに、医務室ではなく、静かな部屋へと足を向けた。
誰かが使っていた──ような気がする部屋。
ロビーを抜けて一階の奥の部屋に到着した。
他の部屋の住人を起こさないように、そっと扉を開いて、部屋に入る。
中に入るとサイドテーブルが目に入った。
そこには、水差しやコップ、そして、誰かのスマホが乗っていた。
(…あれ…ここは空き部屋だった…はず…?)
誰かの痕跡に、首を傾げるシィロ。
(…たぶん、誰かの落とし物ですね)
そう考えて、シィロは朝陽をベッドに横たえると、大きく息を吐いて、体をほぐした。
そして、サイドテーブルのことなど忘れたように朝陽に掛け布団をした。
ベッドで眠る朝陽を見つめる。
傷ひとつない、地球で見たときの姿のままであった。
シィロはそっと、朝陽の頭を撫でる。
少女を見ていると、地球での日々が懐かしく感じた。
朝陽と過ごした日々。
朝陽と笑った帰り道。
朝陽に必要とされたこと。
全てがシィロに力を与えてくれていた。
今までの自分であったなら、到底やり遂げることが出来なかったと考えて、朝陽の存在に深く感謝した。
「……おやすみなさい」
そう囁いたあと、もう一度撫でて、部屋を後にする。
そして、ゆっくりと扉を閉めようとした瞬間──
「……あ」
一瞬の戸惑いが胸をよぎる。
このまま扉を閉めたら、何かを後悔する。
だが扉は静かに閉まった。
それと同時に、その思考も霧のようにかき消えた。
記録者の少女はただ、静かに廊下を歩き去った。
短めですが…。
これで、八章は終わりです。




