第四十八話: “想い”の終着点
空が闇に飲み込まれた。
そのとき、ぽたり、と地面に何かが落ちた。
それは、空を見送っていたシィロの涙だった。
「……あぁ……空さん……」
その名を呼ぶ声は、震え、喉の奥でかすれていく。
──けれど返事は、もう、なかった。
辺りに満ちていた闇が、静かに、ゆっくりと収束していく。
空がいた場所には、もう彼の姿はなかった。
そこに立っていたのは、ミミだけだった。
「…うぅ…グスッ…」
長い金髪を揺らしながら、彼女はうっとりと目を閉じて──まるで、誰かに抱きしめられているように、自分の胸元に手を当てていた。
「……ねえ、記録者」
泣き崩れるシィロに、ぽつり、とミミが言った。
その声は楽しげで、けれど何かが壊れているように感じられた。
「ねぇ、そんなに悲しいなら──ソラの記憶、消してあげるよ?」
「……な、にを……」
シィロは震える声で呟いた。
ひとつの鼓動の間を置いて、彼女はミミに詰め寄る。
「何を言ってるんですか!? そんなこと、そんなことできるはず──!」
「できるの。たぶん、ううん、きっとね!」
ミミは両手をくるりと広げて、くるくると舞うように回った。
その髪が宙にふわりと舞い、彼女の笑みが不安定に歪む。
「だって……ソラは強い“想い”を持ってたから。そういうのって、世界に残っちゃうでしょ? だから……“取り戻そう”とされるの、ワタシはイヤなの!」
「やめて……!」
「でもね、ワタシ、今ならわかるの。“ノエリウム”みたいには時間を戻せないけど、ソラを“存在ごと消す”ことなら、できる気がするの」
「存在、を……?」
ミミの口から紡がれた言葉に、シィロの理解は追いつかなかった。
「そう。過去も、記憶も、思い出も──ぜんぶ消しちゃえば、誰もソラを取り戻そうなんて思わなくなる。ワタシの中だけにソラが残るの。……ふふっ、それって、すっごく特別じゃない?」
ミミは楽しげに言い放つ。
その目が、狂気と寂しさで混ざりあっていた。
「やめてください……! 空さんを、消さないでください!そんなこと、空さんは望んでいません!」
シィロが叫ぶ。
しかし──ミミの周囲に、黒い風が再び吹き始めていた。
ぞわぞわと空間が軋むような音が広がり、石柱が震え、空気が揺れる。
「──うるさいなぁ……」
ミミは口を尖らせると、両手を掲げ、闇を凝縮させはじめた。
「ワタシの邪魔、しないでくれる?」
「……!」
「だって、ワタシ、幸せなんだよ? やっと、誰かと“ひとつ”になれたの。だから──これからワタシの世界を綺麗にしていくの。ワタシだけの、“ソラのいる世界”をね……!」
ミミが凝縮された闇が地を穿つ。
目に見えない衝撃波が走り、石柱が砕け、地面がひび割れる。
シィロに迫る破壊の波を──レイスが即座に氷で押し返す。
「……くっ!」
「シィロ…!下がって、その子を守れ!」
「…ですが!空さんが消されてしまうんですよ!?」
「……私だって、それを止めたい! でも今、お前たちが巻き込まれれば、空の想いは無駄になる!」
「でも……!」
「空に朝陽を頼まれただろう!?これは、少年の意志だ。ならば──今は、それを守るのが、私たちの使命だろう!」
レイスの目は真剣で、怒りではなく、覚悟の炎が宿っていた。
「……っ!」
シィロは唇を噛んだ。拳を握りしめ、震える手で朝陽を抱きあげる。
「……わかりました……でも、絶対、レイスさんも……!」
「ああ。私もすぐに向かう。あのトガビトに一泡吹かせてからな…!」
わずかに笑って、レイスは杖を構える。
「さあ、行け! 今は、生き残ることが、彼の願いだ!」
朝陽を抱えながらゆっくりと来た方向へと進む。
後ろではミミの笑い声と何かがぶつかり合う音が響いた。
「……空さん、レイスさん…!」
シィロは不甲斐なさを感じながらも振り返ることなく記憶の祭壇を後にした。
* * *
狂気の咆哮が響く中、レイスは杖を構えたまま、闇の中心に立つミミを睨んだ。
視界の端では、シィロが朝陽を抱えて祭壇から遠ざかっていくのが見えた。
その小さな背を見送りながら、レイスはぽつりと呟く。
「……守れよ、シィロ。あの子は、空の希望だ」
視線を戻すと、ミミは濁った黒のエネルギーを両手に宿らせながら笑っていた。
その瞳は焦点を結ばず、まるで何かに取り憑かれたようだった。
「アハハハハッ!すごいすごい……!
熱くて、ザワザワして、胸の奥が……ああッ!止まらないよッ!」
闇が跳ね、地面が抉れる。空気が軋むような圧が広がる。
「……完全に理性を失っているな……」
レイスは歯を食いしばり、宙に氷の盾を展開して飛来する闇を受け流す。
その上で一歩、静かに前へと踏み出した。
「──トガビト。貴様の好きにはさせん」
その一言に、ミミの笑いがピタリと止まった。
ゆっくりと顔をこちらへ向ける。
「……あれ? 今、何か言った?」
「貴様の勝手な理屈で、空の存在を消させはしないと言った」
レイスの長杖が光を纏い、淡い氷の刃が周囲に浮かぶ。
その刃先すら、まるで彼女の信念を象るかのように震えていた。
「空は、“誰かの中に生きる”存在だ。
誰かの記憶に、想いに、確かに息づいている……それを、貴様の都合で消させるわけにはいかない!」
言葉に宿った熱に、ミミは目を細め──そして、くすりと笑った。
「ふふ……怒ってるんだ。やきもち、かな?」
その場でくるりと一回転し、スカートの裾を揺らしながら言葉を続ける。
「でもね、もう遅いんだよ?だってソラは、ワタシの中にいる。ひとつになったの。心も、記憶も、想いも──ぜーんぶ、ワタシのもの!」
胸元に手を当てて、ミミは陶酔したようにうっとりと笑う。
「誰にも見せたくないの。触れてほしくない。だから、皆から“消してあげる”の。記憶も、過去も、つながりも──“ワタシのソラ”だけが残ればいいのよ」
その声には喜びと狂気と、そしてほんの微かな寂しさが滲んでいた。
「……それが、貴様の“願い”か」
レイスは低く、吐き捨てるように言った。
「ううん、どうなんだろう?ただ、初めてだったの。こんなに心が熱くなるのは……誰かを取り込んで、ひとつになるのは……だから、ねぇ……邪魔しないで?」
ミミの声が甘くなる。
だがその甘さは、毒を含んだ鎖のように、耳に絡みついた。
「……拒む理由なら、いくらでもある」
レイスは杖を地面に軽く突いた。氷の音が鳴る。
「理由? そんなの関係あるの?ねえ、記録者。お前は“自分の中の大切な記憶”、世界中に見せびらかせる?」
ミミは小首を傾げ、ひとつ瞬きをする。
「できないよね? 自分だけの大切なものって、誰にも渡したくないもん。だったら、お前もワタシと同じ。ね、だったら……もう、邪魔しないでよ」
「……確かに、すべてを晒せるほど、私は強くない」
レイスは一拍置き、そして静かに目を閉じた。
だがすぐに、鋭い光をその双眸に宿して開く。
「それでも、私は止めたいと思っている。空の想いを──信じているからだ」
言葉と共に、浮かぶ氷刃の輝きが強まる。
「空は、“他者と想いを交わすこと”を選んだ。だからこそ、あの少年は私たちに希望を残した。そしてその希望は──誰かの中に生き続ける。それこそが、生きた証だ」
レイスの声は、次第に熱を帯びていた。
「お前の“独りよがりな所有”では、想いは守れない。歪んだ願いで縛るな。私は、奪い返す。どんな手を使ってでも。空は“記録されるべき存在”だ!」
その言葉に、ミミの目が見開かれる。
しばらくの沈黙ののち、口元がじわりと裂けるように笑みを作る。
「──じゃあ、壊してあげる。ソラの記憶も、つながりも、その“想い”さえも──全部!」
次の瞬間、ミミの足元から闇が爆ぜた。
狂気と悲しみの叫びが、記憶の祭壇を包み込む。
空間がうねり、地面が震え、空気が悲鳴を上げる。
だが──レイスの足は、一歩も退かなかった。
「──全力でいかせてもらうぞ!」
レイスの長杖に氷の刃が生まれ、霧のような冷気が足元から這い出す。
一気に距離を詰め、横一閃──!
氷刃がミミの腕を裂く。
「……ッッ!? な、に……これ……!?」
初めての“痛み”に、ミミは呻き声を上げた。
その目が、苦痛と混乱で見開かれる。
「……やはりな。貴様は空を取り込んで、“人”を知った。もう以前のように、痛みも感情も無視してはいられまい……!」
「アハッ……あっ、あははははァッ!!なにこれ!? わかんない!わかんないけど──たのしいッ!!」
ミミの顔が歓喜と狂気で引きつる。
祭壇を囲む石柱は砂と化し、空間が軋みを上げて歪み始める。
「……この空間が持たない……!」
レイスは飛来する闇を回避しつつ、杖を高く掲げる。
「〈冥府の縛鎖〉──起動」
その言葉と同時に、空中に魔法陣が幾重にも展開される。
淡く輝くそれらは徐々に鎖へと変わり、ミミの周囲を囲む。
ミミが困惑の表情を浮かべる間にも、鎖は空間を貫いて大地に突き刺さってゆく。
彼女の身体を中心に、青白い光が絡みつくように拘束を強めていく。
「がっ……あああああああああッ!!」
ミミの悲鳴が響き、レイスは杖を構えたまま慎重に様子を見る。
「……やったか……」
だが、封印が完了しきるその寸前──
ミミの目が闇の光を帯び、結界の内部から黒い波動が逆流する。
「うわああああああああ!!やだやだやだァァァ!!!!!」
「っ……!?」
反動の闇が封印陣を貫き、レイスは咄嗟に跳び退る。
まるで発作のように、ミミの体から大量の闇が吹き上がる。
「いや……こわいッ、いたい……ッ!消えろォォッ!!全部ッッ!!」
悲鳴にも似た叫びとともに、祭壇の足元が崩れ始める。
空間が“崩壊”し始めていた。
「……くっ、このままでは……この場所ごと、すべてが飲まれる……!」
レイスは奥歯を噛みしめる。
「だが……」
「きえろきえろきえろッ!……ソラはワタシのもの……誰にも渡さないッ……!!」
闇を纏ったミミの手が、胸の前で閉じられた。
その瞬間、空気がピンと張りつめた。
特大の違和感……そして、世界の“何か”がぷつりと音を立てて消えた──。
それはレイスの中でも同様に起こっていた。
(…胸の奥が、空洞のように冷たい…)
更に違和感は続いた。
(…私は何故、このトガビトと闘っている…?)
まるで、何かを失ったような感覚があった。
(”何か”を取り戻そうと…?だが、何を……誰かを、忘れてはいけない気がするのに──思い出せない……)
「い、いやあああああああッッ!!!」
違和感によって生まれた隙。
ミミの絶叫とともに、闇の爆発がレイスごと、辺りを包み込む。
闇から飛び出した影がひとつ。
レイスは離れた位置に着地すると膝を着いた。
爆風が去った後、ミミの姿は── 黒い蝶の羽根のように、空間の裂け目の中へ、ふわりと消えた。
「……逃げた…か…」
レイスは薄れゆく景色の中、闇の残滓を見つめていた。




