第四十六話:揺り籠
空の胸元から、あの日の夕空のように優しく、温かく、どこか懐かしい光が溢れ出した。
それは、小さなノエリウムへと静かに流れ込み、淡く脈動しはじめる。
「…そうか、あのときの…全部思い出した…」
──空と朝陽が交わした、最初の約束。
その記憶が、ノエリウムの奥深くに染み渡っていく。音もなく、けれど確かな“祈り”として。
ノエリウムに刻まれたひびも傷を癒すかのように消えていく。
ひびが完全に消えた瞬間、ノエリウムが淡く震えた。
掌に乗るほどのその結晶は、まるで息を吹き返したように波打ち、淡い光を空間に広げていく。
草花の咲き始めた根の大地に、風が吹いた。
半透明だった孤島に、まるで命が通いはじめたように色が戻っていく。
「これは……」
「…すごい」
空とヒナタが、周囲を見て息を呑んだまま呟く。
『このような事は、記録にはありませんでした…まるで世界に祝福されているようですね…』
剪定者も初めて見る光景に驚きを隠せないようだった。
「ノエリウムに力を感じる気がします…」
『…ノエリウムが本当に依代となったのでしょう……さあ、空。祈りを。』
剪定者の声に、空は手の中のノエリウムを握って強くうなずく。
(ノエリウム……朝陽に、もう一度会わせてくれ──)
空は瞳を閉じ、静かに祈る。
静寂が世界を包む。
しかし、次の瞬間だった。
ノエリウムが、ひときわ強く輝くと──
まるで解けるように、様々な色彩が織りなす光の粒が天へと舞い上がっていく。
「ノエリウムが消えていく…」
「あの子の代わりになってくれるのね…」
光の粒は空間の中央に集まり、ゆっくりと、ひとりの少女の輪郭を形づくっていった。
肩まで伸びた黒い髪。優しい顔立ち。閉じられたまつげ。
それは、確かに──
「……朝陽」
空の声が震える。
──朝陽が、そこにいた。
いつかの日と同じように制服姿であったが、確かに朝陽の姿であった。
目を閉じ、静かに眠るように浮かぶその姿を、ノエリウムの光がやさしく包んでいる。
『どうやら再構築は……完了したようですね』
剪定者が、静かに告げる。
空は言葉を失いながら、光に包まれた朝陽の手にそっと触れた。
そこには確かな体温があった。
そしてノエリウムが光と共に天に登って消えていくのと同時に、朝陽はゆっくりと浮力を失った。
「わっ…」
空は思わず、朝陽の体を抱き止めた。
「……朝陽、おかえり」
震える声で告げると、とても大事なものを扱うように朝陽をおろした。
「ヒナタさん…朝陽が戻ってきました…!」
空はヒナタを振り向いて声をかける。
「ええ…見ているわ…」
ヒナタも微笑んで、小さく頷いた。
そして、ゆっくりと朝陽の側に歩いてきた。
「…大きくなったわね…それに、こんなに素敵に…」
ヒナタの瞳からは次々と涙が溢れ出した。
「いっぱい寂しい思いをさせてごめんね…朝陽……」
「ヒナタさん…」
朝陽の頬に触れたヒナタの手が、そっと震えた。
けれど──朝陽は、目を開けなかった。
その胸には確かな鼓動がある。
けれどまぶたは閉じられたまま、静かな眠りに落ちているようだった。
空もそっと顔を近づけて呼びかける。
「……朝陽。起きて。もう大丈夫だよ、全部……終わったから」
けれど、返事はない。
空の声が少しだけかすれた。
「……そうだよな。すぐにってわけには、いかないか……」
剪定者が、静かに告げる。
『再構築は完了しましたが……記憶と魂の安定には、まだ時間が必要なのかもしれません』
「……でも、ちゃんと戻ってきた。朝陽は、生きてる」
空の手が、朝陽の手をしっかりと握る。
「──だったら、いくらでも待とう。ね?ヒナタさん」
その言葉に、ヒナタはそっと微笑んだ。
「……ありがとう、空くん」
彼女は立ち上がり、もう一度、朝陽の顔を見つめた。
「大丈夫。きっと目を覚ますわ……あなたの声が、ちゃんと届いてるから」
そして、ふと空の方に振り返る。
その瞳に、どこか懐かしい光が宿っていた。
「空くん……これから先、彼女をお願いね」
ヒナタの足元が、かすかに光を帯びる。
──その姿が、淡く透けはじめていた。
空がはっと顔を上げる。
「えっ……ヒナタさん……?」
「…そろそろ、時間みたい」
ヒナタは自身の透けていく体を見つめる。
「……私はノエリウムに込めた想い…ノエリウムが依代になった今、私の役目も、もう終わりみたい…」
ヒナタは柔らかく笑って言った。
「……でも、大丈夫。朝陽には、あなたがいるもの」
ヒナタの瞳に、どこか安心した光が浮かぶ。
一方で空の顔には、言葉にできない悔しさと寂しさが滲んでいた。
「そんな…俺、ヒナタさんが消えてしまうなんて…」
空は、まるで何かを止めようとするように一歩踏み出した。
「……俺、朝陽を取り戻すって決めて……でも、ヒナタさんまでいなくなるなんて、そんなの……」
空の声が震える。
ヒナタはその言葉を、静かに、優しく遮る。
「いいのよ、空くんが責任を感じる必要はないのよ。これは、神様が与えてくれた猶予だから…」
そっと朝陽の頬を撫でながら、ヒナタは続ける。
「……最後に、大きくなったあの子を、もう一度撫でてあげることができた……それだけで、私は十分」
その手が、ふっとすり抜けるように透けていく。
空は、剪定者を振り返る。
「剪定者……何か、方法は……! 彼女を、このまま……!」
だが、剪定者はただ、まっすぐ空を見つめた。
『……それが“ヒナタ”という存在の選んだ帰結です。私にも、それを覆す力はありません』
静かで、しかし揺るがない声だった。
ヒナタはそれを聞いて、安心したように微笑んだ。
「剪定者……いいえ、カナタ。……勝手な姉で、ごめんね」
『それは私の名前ですか…?』
「ええ、私の自慢の妹の名前よ」
『……私の名前…カナタ…』
ヒナタの言葉に剪定者が震えた。
『……また会えて嬉しかったよ、お姉ちゃん』
一瞬、剪定者の琥珀色の瞳にわずかな揺らぎが走る。
それは──光の反射でも、データの処理でもない。
まるで、閉じられていたはずの感情の記憶に、ひと雫が落ちたような揺れだった。
『……私は今、なにを……?』
一瞬の揺らぎは消えて、普段の色に戻った。
剪定者が自分の声に戸惑ったように、胸元をそっと押さえる。
そこには存在しないはずの“痛み”があった。
空とヒナタの視線が交わる。
──剪定者に、いま確かに「何か」が戻った。
「剪定者…?」
「ふふ、それじゃあ……空くん、朝陽を、お願いね」
そして──ヒナタは、朝陽にもう一度だけ微笑みかけた。
「……おかえりなさい、朝陽。
……どうか、幸せになってね……あなたが“空”に出会えたこと、本当によかった……」
その姿が、光に溶けるように、静かに、静かに消えていく。
風が一度だけ吹いた。
まるで、ヒナタの最後の祈りが、空と朝陽に触れていったかのように。
──そしてその場には、沈黙だけが残った。
* * *
『……いってしまいましたね……』
剪定者が、かすかな声で告げる。
「うん……」
空は静かにうなずいた。
目を閉じて、ヒナタの残した気配を胸の奥で確かめるように。
「……不思議だね。消えてしまったのに、まだここにいる気がするよ。あの人の声も、ぬくもりも」
剪定者は少しの間、沈黙した。
『……それが、“想い”の力なのでしょうか』
「そうかもしれないね…」
『私も、胸に違和感があります…』
剪定者が胸に手を当てて、首を傾げる。
それを見た空は微笑んだような、泣きそうなような顔をして、小さく息をついた。
「朝陽を……連れて帰るよ」
空はそっと朝陽の体を抱き上げた。
まるで壊れ物を扱うように、丁寧に、優しく。
閉じられたままの彼女のまぶたを見つめながら、ぽつりとつぶやく。
「……目を覚まさなくてもいい、なんて思ってないよ。けど、今は……こうして隣にいてくれるだけで、もう十分だ」
かすかに風が吹き、ノエリウムの残滓が彼らのまわりに光の砂のように舞った。
「……帰ろう。朝陽と一緒に」
その言葉に、剪定者が小さくうなずく。
『それでは、祭壇まで、私が導きます。……今の空は、道を歩ける光を持っているから』
空は頷いた。
剪定者が虚空を見つめて、何かを小さく呟く。
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、空間が静かに、しかし確かに揺れた。
空気が水面のように波紋を描き、そこに光の粒が集まりはじめる。
やがて──
その中心が音もなく割れ、やわらかな光に縁取られた“扉”のようなものが現れた。
まるで夜空に浮かぶ星の道。
風に溶けてゆく祈りの糸を束ねたような、淡く、幻想的な光の門だった。
『ここを通れば、記憶の祭壇まで戻れます。空、どうぞ行ってください』
カナタの声が、静かに響いた。
「一緒に行かないの…?」
『私は記憶の塔からアクセスしているので、そちらに帰ります』
「そっか…ありがとう、剪定者……」
空がそう言いかけたとき──
『……カナタです』
「えっ……?」
『私のことは、そう呼んでください。……できれば、もう一度』
「……ありがとう、カナタさん」
カナタはゆっくりと頷いた。
空は朝陽の体を抱き直すと、足元に広がる“光の扉”へと歩み寄った。
その向こうに広がっていたのは、かつて彼らが辿り着いた記憶の祭壇──しかし、どこか景色が変わっていた。
彼らが交わした祈りと代償が、この世界すら少しだけ変えてしまったのだろう。
──新たな祈りを胸に、朝陽とともに。
空は、一歩、門の中へと踏み出した。




