第四十五話:君との約束
──空を流れるように、重力のない落下は静かに終わりを迎えた。
ふたりの足が、ゆっくりと地に降り立つ。
そこは、あの孤島だった。
夜と朝のあいだのような、どこにも存在していない空間。
波の音も、風の音もなく、ただ記憶の結晶が淡く揺れている。
「戻ってきた…?」
「朝陽の記憶が…ノエリウムが依代として完成したのね」
「…なら、やっと朝陽を取り戻せる…」
手の中を覗き込むと、静かにノエリウムが光を灯していた。
「空さん、後は願いましょう」
ヒナタもノエリウムを包むように、空の手を覆い、目を閉じた。
それに習うように、同じく目を閉じる。
(朝陽…やっと、この時が来た。
君をこの世界に取り戻せる……
本当はもっと話したかったけど、俺はたぶん側にはいれない…
勝手で傷付けてしまうと思う…
だけど戻ってきてくれ…!
君の笑顔をもう一度見たいんだ…!)
手の中に熱を感じた。
空が目を開くと、まるでノエリウムが自らの意志で動くように、ふわりと宙へと浮かび上がる。
空の手から、すっと離れて。
──そして。
ノエリウムの核から、淡い“空色”が吹き出すように広がりはじめた。
水面に浮かぶ光の粒、
夜明けの空を思わせる青、
赤と橙が重なりながら、旋回するように渦を巻く。
その色たちは、空が見上げたあの日の夕焼け、
朝陽が絵に描いた空、
ヒナタがいつも目を細めて見ていた空──
それらの記憶を、ただ静かに、ゆっくりと紡いでいく。
──次の瞬間。
ノエリウムの光が一際強く瞬き、
世界そのものが“白”に包まれる。
視界が真っ白になるほどの輝き。
時間が止まったような感覚。
心音すら遠のいて、何もかもが、まるで“始まり”に戻るようだった。
やがて、光が静かに引いていく。
空は、ゆっくりと目を開けた。
そこには──まだ浮かんでいたはずのノエリウムが、力を失ったようにゆらりと揺れていた。
──そして。
ぽとり。
まるで重さを取り戻したかのように、ノエリウムが地面に落ちた。
硬質な音も、反響もない。
ただ、小さな石がひとつ、そっと地面に触れたような音だけが響いた。
空は、一歩、歩み寄ってしゃがみ込む。
手に取ったノエリウムは、まだ微かに光ってはいたが、先ほどまでのような脈動はない。
「……どうして……」
かすかに震える声が、空の喉から漏れた。
「…私にもわからない…」
ヒナタはノエリウムを見つめている。
「もう一度…やってみましょう」
二人は視線を合わせると頷いて、先ほどのように祈り、願いを込める。
だが、再構築は──起きなかった。
無情にも、何度試しても同じ結果となった。
すべての記憶が揃ったはずだった。
想いも、祈りも、後悔も、未来への願いも、すべて込めたはずだったのに。
何かが、足りない。
何かが、届いていない。
「もう、一回…!!」
空が何度目かの願いを込めたとき、二人しか存在しない空間に囁くように声が響いた。
『……まだ、“ひとつ”……記憶があります』
空が息を呑む。
聞こえたのは少女の声。
柔らかく、しかしどこか冷たい音色だった。
振り返ると、そこには確かに“誰か”が立っていた。
記憶の霧が晴れるように、その姿が現れていく。
──剪定者。
白銀の髪、琥珀色の瞳、薄い灰色の外套をまとった少女がまるで空気のようにそこにいた。
感情を表さない表情で、ただ、目だけが静かに輝いていた。
「どうして、ここに…?」
空は剪定者に尋ねるとゆっくりと頷いた。
『空が記憶の根の奥から戻ってくることを記憶の塔から見ていました…ほとんど全ての記憶を集め、繋ぎ合わせて、願う姿も。ですが、それだけでは足りません……』
「……どうして、そんなことがわかるんですか?」
そっと背後に隠れたヒナタを横目で見ながら空は尋ねた。
『……空が朝陽の痕跡を求めて、塔に来た日…私はある断片的な記憶を見たのです。あの時に見た記憶が、空に無関係とはどうしても思えないのです…それに、あの女性…』
剪定者は空の背後に隠れているヒナタの顔をじっと見た。
『やはり、貴女に似ている…そして私は貴女を知っている…気がします…』
彼女は何かを思い出そうとしているようにも見えた。
「剪定者は彼女を知っているんですか…?」
空はヒナタを隠すようにして立ち位置を変えた。
『……それは、わかりません、私には過去の記憶や記録が残っていませんから…』
「過去の記憶…?」
『剪定者は永い時の記憶を剪定し管理する必要があります。それには、感情や記憶などは必要ない、と言うことです』
その言葉にヒナタが少し震えた気がした。
『貴女の名前は何と言うのですか?』
「……ヒナタ」
ヒナタは呟くように答えた。
『ヒナタ……ヒナタ…とても懐かしい響きです…』
剪定者の琥珀の瞳から、ひとすじ、涙がこぼれ落ちた。
まるで、自分でもそれに気づいていないかのように。
驚いたようにその頬を指でなぞり、剪定者は小さく呟いた。
『……おかしいですね。涙も、感情も……もう私には、必要ないはずなのに』
ヒナタの胸の奥がきゅうっと締めつけられる。
言葉を選ぶように、ヒナタは静かに言った。
「……その涙は、たぶん……忘れてはいけなかったものです」
『……ヒナタ……』
「私と貴女は……知り合いでした。
でも……私は、逃げました。貴女を置いて。
“あの日”──剪定者を選ぶ儀式の日に、私は恐くなって……感情も記憶も、何もかも捨ててしまう未来が……」
ヒナタは声を震わせながら続ける。
「──それが“正しい”ってわかっていても……私は、誰かのための歯車にはなれなかった」
空が息を呑んでふたりのやりとりを見つめる。
剪定者の目が、少しずつ揺れていく。感情という波が、静かに彼女を満たしていくように。
『……私は……それでも、選ばれた……貴女がいなかったから……』
「──ごめんなさい」
ヒナタは深く頭を下げた。
「……ごめんなさい。
あのとき、逃げ出して……貴女を、妹を……置いていったことを、ずっと……」
剪定者は、ヒナタの言葉を受け止めるようにまっすぐ彼女を見つめた。
『──私は、“妹”だったのですね……』
言葉に宿る“実感”。
それは剪定者という機械のような存在の殻に、確かな“人間”を戻す一歩となった。
そして──
『……貴女が、逃げ出してくれてよかったと思います。
そのおかげで……私は、ここで涙を流せています。
貴女の願いが、この“記憶”を見つけさせたのだと思います』
剪定者は、そっと手を開く。
その掌の上には──
揺らぐひとつの記憶の結晶が、ふわりと浮かんでいた。
他のどれとも違う、不安定に脈動する淡い光。
空色とも、桜色とも、名付けようのないやわらかい記憶の光。
『この記憶は、剪定も記録もされず、ただ時の中に取り残された“感情の残り香”だったもの。本来であれば意味をなさない忘れられて、残された記憶です』
その声は、もう少女のようだった。
『……でも、今ならこの記憶の全てが、そしてそれがなぜ残っていたのか、わかる気がします』
結晶が淡く光ると同時に、空を包むように風が吹いた。
それは現実ではなく、記憶の中の風だった。
まるで深い水の底に沈むように、ふたりの意識がゆっくりと、柔らかな暗がりへと引き込まれていく。
* * *
──視界が開けた。
そこは、空がよく知る神社だった。
夏祭り。夕焼けに染まる空の下。
『うわぁーん!!お母さん、どこー!』
神社の御神木の側で、浴衣を着た男の子がひとり、涙をこぼしながら地面に座り込んでいた。
偶然、近くを通った親子が男の子を見つける。
『ママ!あそこで泣いてる子がいるよ』
可愛い浴衣を着た女の子が、言葉を放つと同時に駆け寄って、男の子の隣にしゃがんだ。
『ねぇ、どこか痛いの?おまじないする?』
女の子は話しかけても、泣き止まない男の子の頭を優しく撫でた。
少し遅れて、女の子の母親も同じように男の子の前にしゃがんだ。
『どうして、泣いてるの?』
女性が男の子に問いかけると、少し泣き止んだ。
『……わかんない。気が付いたら、お父さんもお母さんもいなくなってて……』
説明をすることで現状を思い出して、再び嗚咽を漏らす。
『大丈夫。寂しくないよ。私が側にいてあげるから!だから、ひとりじゃないよ!』
女の子が、男の子の手を取ってにっこりと笑う。
その笑顔につられたように、男の子も少し微笑んだ。
『…ありがとう』
そして、恥ずかしそうに感謝を伝える男の子。
二人を見て、女性が優しく微笑む。
『三人で手を繋いで、キミのお父さんとお母さんを探しに行こっか!』
女性は二人に手を伸ばした。
すぐに手を伸ばす女の子。
恐る恐る手を伸ばす男の子。
だが、手に伝わる熱が安心感を与える。
* * *
『あ、お母さんがいた!』
男の子は女性の顔を見上げて嬉しそうに言った。
『良かったね!見つかって!』
女性も女の子も嬉しそうに笑う。
三人は男の子の母親の元に向かった。
『お母さん!』
『どこ行ってたの、探したのよ』
母親に抱きつく男の子。
怒ったような口調ではあるが、優しく頭を撫でる母親。
『この子と一緒にいてくださって、ありがとうございます』
母親は親子に感謝を伝える。
『いえいえ、見つかって良かったです。それでは私たちはこれで』
『またね!』
立ち去ろうとする女の子に、男の子は声をかける。
『あの…ありがとう!一緒に探してくれて…えっと…君の名前は…?』
男の子の顔は夕焼けのせいなのか、赤くなっていた。
『朝陽だよ!あなたは?』
『僕は空。空だよ』
朝陽と名乗る女の子は名前を聞くと飛び上がるように喜んだ。
『空!良い名前だね!』
『あ、ありがとう…ねぇ、また、会えるかな?』
『うん!わたしたちは、空でつながってるから、会えるよ!』
朝陽がサッと空の手を取り、小指を繋いで手を揺らす。
『これで……約束!また会ったら──そのときは、もっといっぱい、お話しようね!忘れないでね、空!』
『うん!わかったよ、朝陽!』
離れる二人の小さな手と手。
そして、その言葉と共に、視界が淡く溶けていく。
淡い記憶の光が、空の胸元を通して、ノエリウムの中に静かに染み込んでいく。
空は自分の胸元を強く押さえる。
「……これが、最後のピース……」
『私も全てを見ることはなかった記憶……やはり、とても大切な記憶だったようですね』
剪定者が、確かな感情を込めてそう言った。




