第四十四話:記憶の流星、キミの声
記憶の結晶の流星群。
ひとつ、またひとつと意思を持っているかのようにノエリウムに向かってくるそれらは、朝陽という名前の存在を“この世界に繋ぎとめる”ための、小さな祈りのようだった。
ノエリウムの奥で、まだ触れていない無数の結晶が、淡く輝きながら静かに回っていた。
それらもまた、朝陽という存在を構成している“記憶”。
今はただ、空が触れるそのときを静かに待っているかのように──
次の瞬間、目の前に広がったのは──陽の光がやさしく降り注ぐ、小さな公園だった。
緑の芝生、色とりどりの遊具。遠くで聞こえる子どもたちの声。
その一角で、朝陽が無邪気に笑いながら走り回っていた。
『パパ、見てー! わたし、こんなに早く走れるんだよ!』
肩にかかる黒い髪を風になびかせて、元気いっぱいに走る幼い朝陽。
その様子を、少し離れたベンチで見守っているふたりの姿があった。
ヒナタはゆるくまとめた髪に麦わら帽子をかぶり、手に絵本を持っている。
その隣で優輔がコーヒーの紙カップを持ち、どこか照れたように娘を見ていた。
『ふふ、ほんとに速くなったね』
『それより、転ばないようにしないとな』
『もう、お父さんみたいな心配性になっちゃったらどうするの?』
『ん? だってさ、……ほら』
優輔の言葉に、ふとヒナタが前を向く。
──ちょうどそのときだった。
『あっ』
つんのめったように転んだ朝陽の身体が、芝生の上に倒れ込む。
『……っ、えっ、……うぅ、えぇ……!』
小さな泣き声が、徐々に大きくなる。
足を擦りむいてしまったらしい。膝から薄く血がにじんでいた。
『あさひ!』
駆け寄るふたり。
同時にしゃがみ込み、ヒナタと優輔、それぞれの手が、朝陽の前に差し出された。
『大丈夫、朝陽?』
『おまじないしてあげるからね』
朝陽は涙を溜めたまま、ふたりの手を見比べる。
そして、両方の手をぎゅっと握った。
『痛いの、痛いの、飛んでいけ』
ヒナタは繋いでないほうの手を朝陽の頭に添えると撫でながら唱えた。
『それ、なぁに…?』
『痛いのが飛んでいくおまじないだよ。痛いのはどうかな?』
朝陽に優しく答える。
『……ん、痛いのいなくなった…』
ふたつの大きな手に包まれて、小さな手が震えを止めていく。
そして、朝陽の顔には笑顔が戻った。
──それから、三人はゆっくりと歩き出す。
小さな歩幅にあわせて、両親が優しく寄り添う。
繋いだ両手が、歩くたびにほんの少しだけ、揺れる。
『朝陽ね、お空が色んな色に変わるの好きなんだー』
朝陽が空を眺めながら二人に言った。
『お絵描きでもいつも空を綺麗に描いてるよね』
ヒナタは朝陽の顔を見て笑う。
『うん!』
褒められて嬉しかったのか満面の笑みを浮かべた。
『……あとね』
ぽつりと、朝陽が呟いた。
『ママと、パパ……だいすき……』
その言葉に、ヒナタは驚いたように目を見開く。
すぐそばで優輔が笑った。
そして、ヒナタが優輔のほうを見て──ふわりと、微笑んだ。
なにも言葉はいらなかった。
ただ、その一瞬に、すべてが詰まっていた。
──空とヒナタは、遠くからその記憶を見守っていた。
「……すごい幸せな顔してるね」
空がそっと呟く。
ヒナタは微笑みながら、でも少しだけ俯いていた。
「うん……こういう日々が、いちばん幸せだった。けど……ね、幸せな記憶って、意外と……壊れやすいのかもしれない」
幼い朝陽を撫でていたほうの手を見つめていた、彼女の声に、少しだけ影が差す。
「でも、今の記憶……確かにあったよ。笑顔も泣き顔も、壊れたりなんかしてなかった……」
その言葉に、ヒナタは静かに頷いた。
そしてまた──結晶がまたひとつ、優しい光を放ち、ノエリウムに吸い込まれていく。
……いつもなら、この後に訪れるのは、重力のない落下だった。
けれど、その瞬間。
キィィィィ……
耳鳴りのようなノイズが走り、視界が淡くブレた。
ふたりの身体は落ちない。
空は一瞬、ヒナタの方を見た──。
その顔に、痛みのような色が滲んでいるのを、見逃さなかった。
「ヒナタさん……?」
「……ううん、何でもない。……でも、たぶん──」
彼女はそっと微笑む。
「もうすぐ、“見せなきゃいけない記憶”が来るの」
その微笑みは儚くみえた。
* * *
──また、世界が切り替わった。
今度の世界は、病室だった。
夕暮れがカーテンの隙間から差し込み、空気がやけに静かすぎる。
心電図の電子音が、一定のリズムで部屋に刻まれていた。
ベッドの上、ヒナタが横たわっている。
病衣の袖から覗く腕は細く、色も浅い。頬もこけて、あの日の笑顔が少し遠い。
傍らに座る優輔が、手を握っていた。
『……ねぇ、わたし……あの子に、ちゃんと“ママ”って言ってもらえたよね……?』
かすれた声だった。けれど、それでも笑っていた。
『あぁ。忘れるわけないだろ』
優輔が応える。その声には震えがあった。
『そっか……よかった』
ヒナタは、そっと目を閉じる。
『……ほんとはね、あの子の、七五三の着物姿も……小学校の入学式も……中学の制服姿も……見たかったな……』
ぽつぽつと、切れ切れに紡がれていく言葉。
それを止めることは、誰にもできなかった。
『でも……仕方ないよね。……”ママ”は、きっとここまでだったんだ……』
握られた指先が、わずかに力を失いかける。
『……嫌だよ…!もっと、一緒にいたかった……優輔さんとも、朝陽とも……!』
閉じた目から透明な涙が落ちる。
優輔の手に力が入る。
『……ごめんね…皆を置いていってしまう…』
『……!君が謝る必要はない!僕のほうこそ…ごめん…君を助けてあげれなくて…』
『…優輔さんはたくさん、助けてくれたよ…あそこから連れ出してくれて…私に家族もくれた……ありがとう…』
ヒナタの声が徐々に小さくなっていく。
『…ヒナタ…』
──その瞬間、病室の扉が勢いよく開いた。
『ママ!』
幼い朝陽が、両手に抱えた絵を振りかざして駆け込んできた。
『見て見て、今日描いたやつ! ママと、パパと、わたし!』
朝陽が絵を二人の前で広げて見せる。
ヒナタが目を見開いた。
苦しげに息を吸い込みながら、起き上がろうとして──優輔に支えられる。
『……ほんとに……上手だね……』
朝陽は満面の笑みで頷く。
『ママ、これ、だいすき?』
ヒナタは震える手を伸ばして、朝陽の頭を撫でた。
『……だいすきだよ……』
涙が一筋、頬を伝った。
『だって………ふたりは…わたしの、宝物だから……』
──そして。
ヒナタの手が力を失くした。
心電図の音が、ひときわ長く、まっすぐに伸びる。
病室の中で、何かが、ふっと止まった気がした。
優輔の顔が、ゆっくりと俯く。
朝陽は何もわかっていないように、それでも笑っていた。
『ママ……? ママ、ねぇ……ママ……?』
『……う…うぅ…』
優輔が静かに嗚咽を溢した。
『ねぇ、パパ……ママ、寝ちゃったのかな…?』
朝陽は優輔の方を見た。
『…パパ、どうしたの?何処か痛いの?おまじないする?』
優輔の頭に手を伸ばして、おまじないをする朝陽。
その行動に、ついに堪えることができずに、涙が溢れた。
『…朝陽……ママはね、ちょっと……長い旅に出るんだ』
朝陽のことを強く抱きしめて言った。
『どこに行くの?』
腕の中の朝陽は不思議そうに父に尋ねる。
『……だから、しばらく……会えないかもしれない』
『そうなんだ…でも帰ってきたら、またママとパパと朝陽で公園に行けるよね?』
朝陽の手は、まだ絵を握っていた。
その中には、色鮮やかな空の下で、手を繋いで笑う三人が、しっかりと描かれていた。
* * *
心電図の音が消えてから、世界はゆっくりと薄れていった。
代わりに現れたのは、あの“重力のない空”だった。
冷たい雨のような記憶が、ノエリウムに吸い込まれていく。
それはまるで、彼女の最後の涙が、時を越えて還っていくようだった。
気がつけば、空の頬にも静かに涙が伝っていた。
「……こんな…辛すぎる……」
頬に流れる涙を拭った。
「……きっと、わたしは“ここ”の空気に、ずっと馴染めなかったんだと思う。
……朝陽のためならって、そう思っていたけど……」
独白のような言葉が溢れる。
「……」
ヒナタの言葉に何も返せずにいた。
「どうにか出来るな私だって、したかったよ…でもアズールヘヴンから逃げ出した私には…どうすることも出来なかった…」
瞳には深い悲しみが宿る。
「それでもね、優輔さんと出会って、家族になれて……朝陽を育てられて、幸せだったよ」
「…そう、ですね…」
「…ほんとはずっと、側にいたかった。もっと手を握って、もっと笑い合って……やりたいこともたくさんあった…」
隣にいるヒナタは涙の流れるまま、呟くように言った。
ヒナタの最後の言葉が、光となり、ノエリウムへと溶けていった。
それと同時に、またひとつ記憶の結晶が静かに光を灯し、ノエリウムの中へと吸い込まれていく。
やわらかな光が、空の足元を照らす。
──そして。
また、ひとつの世界が開かれる。
* * *
最初に映ったのは、小さな食卓だった。
お椀に入れられたインスタントのお味噌汁。少し焦げて、崩れている卵焼き。彩りがどこか寂しい弁当箱。
台所の奥、エプロンをつけた優輔が、無言でおにぎりを握っている。
その後ろ姿は、不器用で、どこかぎこちない。
食卓の椅子で、まだ幼い表情の朝陽がスプーンでカチャカチャと音を立てて食事をしていた。
二人に言葉はなかった。
お互いの表情には寂しさと不安。
『朝陽、もうすぐでお弁当できるから』
『ありがとう。お父さん』
優輔が声を掛けて、朝陽が応える。
ありふれた風景だったが、そこには今までの笑顔が足りなかった。
ノイズが走って、景色が変化する。
次の場面では、朝陽が一人で本を読んでいた。
周囲には、小学校の遠足らしい風景。賑やかな子どもたちの笑い声。お菓子を交換し合う姿。
でも、その輪の外、少し離れた木の陰に座っている朝陽だけは、誰とも話さず、じっとページをめくっていた。
──場面がまた変わる。
『今日の絵の時間は、グループにわかれてテーマを決めて描きましょう』
教室で先生が生徒に伝えて、前もって決まっていたグループになる。
『朝陽ちゃん!何か描きたいものある?』
グループの一人が朝陽に尋ねる。
『…私はなんでもいいよ、皆が好きなもので』
朝陽は笑顔を浮かべることなく──けれど、ほんの少しだけ首を振った。
『うーん…なら好きなものにしようよ!』
『いいね!そうしよ!』
グループの皆は笑いながら、それぞれに絵を描いていく。
朝陽は色鉛筆を握っては置いてを繰り返していた。
『朝陽ちゃん、描かないの?』
『好きなものとか楽勝なのになー!』
描き始めない朝陽にクラスメイトは口々に話しかける。
(何を描いたらいいか、わかんないよ…)
心の声が空やヒナタに届く。
ようやく朝陽が描いたものは、三人の絵の時のような空の絵だけだった。
空が、記憶の中の少女を見つめながら呟く。
「……朝陽……ずっと、がんばってたんだね……」
またノイズが走り、別の記憶が繋がる。
──季節は少し流れ、中学生になった朝陽。
登校の坂道、後ろから声をかけるクラスメイトに、彼女は口を開くことはなく、軽く頭を下げて先を歩く。
その背中には、苛立ちと寂しさが共存していた。
教室でも小説を見ているふりをして、本当は見ていない朝陽。
声をかける生徒もおらず、ただただ窓の外を見ていた。
そこには、青く澄んだ空があった。
──そして、その記憶がやがて“運命の再接続点”にたどり着く。
世界を叩く雨音が、二人の時を繋いでいた。
途切れてしまいそうな二人。
交じることのない視線。
遠雷が轟く。
だけど、繋いだ手から伝わる熱。
朝陽の止まっていた時間にも小さな熱を灯した瞬間。
それが、彼らの“始まり”だった。
場面がゆっくりとフェードアウトしていく。
再び、景色が拓ける──
* * *
静かな空間に、ふたりの吐息だけが漂っていた。
ノエリウムの青い光が、足元でかすかに揺れている。
そして空が言葉を落とす。
「……ちゃんと見たよ、ヒナタさん」
「うん…」
「朝陽の喜び、悲しみ。それに家族の繋がり…全てではないけど…」
「…私は朝陽を守りたかった。だからノエリウムに想いを残したの…」
空が、ゆっくりと口を開く。
「……だけど、僕がノエリウムを使ったから、朝陽は少しずつ消えていった…」
その言葉を絞り出すように呟くと、両の拳がかすかに震えていた。
唇を噛んで、うつむいたまま、続ける。
「知らなかった、なんて……言い訳はできない。どれだけ後悔しても、巻き戻せないってことくらい……今は痛いほどわかってる」
吐き出すようなその声には、懺悔と痛み、そして自分への怒りが滲んでいた。
けれど、顔を上げたその瞳には、かすかな光が宿っていた。
「それでも──もう一度、笑ってほしかった。僕のせいで笑えなくなった子に」
視線の先にある、まだ見ぬ未来に向かって言葉を投げかけるように。
「……勝手だけど、今度こそ、朝陽の“願い”になりたかったんだ」
空の声はかすかに震えていたが、その言葉は真っ直ぐだった。
少しの間、ヒナタは何も言わず、ただ空を見つめていた。
そして──そっとまぶたを閉じると、ひとつ息を吐いてから言った。
「そうだね……確かに、君がノエリウムを使ったせいで、朝陽はいなくなってしまった」
その言葉は痛みとともに発せられたが、責める響きではなかった。
「……でも、君がどれほどあの子を想ってくれたか、私はちゃんと見てたよ。……一番近い場所で」
ヒナタは微笑んでいた──涙を浮かべながら。
空はその表情に、ほんのわずか肩を震わせた。
「許してくれなんて……言わない。だからこそ、僕は……僕の存在をかけてでも、朝陽を取り戻したい」
その言葉には決意があった。覚悟があった。
何より、自分自身への赦しを求めない覚悟があった。
ヒナタは小さく首を振り、視線を遠くに向けた。
ノエリウムの光がその瞳に映って揺れている。
「……君に出会わなければ、あの子はもう一度笑うことなんて、きっとなかった」
その声音には、過去を振り返るような懐かしさと、どこか寂しさが混ざっていた。
「だから──すべてが終わったそのとき、お願いね。……あの子のそばにいてあげて」
その言葉に、空は深く頷いた。
「……そのときは、僕が、朝陽の“空”になります」
その瞬間だけ、空の頬にひとすじの涙が伝った。
──そして。
最後の記憶の結晶が、ゆっくりとノエリウムへと吸い込まれていった。
まるで空とヒナタの想いを、静かに受け取るように──淡く光りながら、消えていく。




