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そらのかけら  作者: 夜と雨
第八章:存在の交差点
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第四十三話:記憶の根と想いの旅

 ──目を開けると、そこは黎明に染まる世界だった。


 音はない。耳の奥が圧迫されるような、沈黙の底。

 周囲には、淡い光を放つ無数の“結晶”がゆるやかに漂っていた。


 結晶は時折、ふわりと瞬きながら、その内に記憶のような映像を映し出す。

 誰かの笑顔。声にならない叫び。失われた約束。

 再生されては、溶けるように消えていく。


 そのひとつひとつが、星のように瞬き、流れるような尾を引いて漂っていく。

 それは触れれば壊れてしまいそうなほど繊細で、美しくて、哀しかった。


 結晶に目を奪われていたことで、浮遊しているような感覚に襲われて自分の足元を確認した。

 それは空を閉じ込めたような半透明の地。

 水面のようにかすかに揺らぎ、踏みしめた感覚はどこか心許なく、浮遊感を感じたようだった。

 それでも、冷静になると、確かに「立っている」とわかる不思議な感触があった。


 見渡す限り、空も地もない。

 上下の区別すら曖昧で、まるで世界そのものがどこにも属さないかのような場所。

 ただ、その世界の中心に少年は立っていた。


 そして、その景色の中に、空はひとつの影を見つけた。


 孤島の縁、足をぶら下げるように腰掛けて、背中を向けて座る一人の少女。

 長く艶やかな黒髪が結晶の光に照らされて、さらさらと風に揺れていた。


「……あの」


 空は思わず声をかけていた。


 すると、少女は静かに振り向いて立ち上がる。

 振り向いたその顔には、どこか懐かしさがあった。


「……ようやく、来てくれたんだね」


 その瞳はやさしく、けれど何かを待ちわびた者のように──ほんの少し、潤んでいた。


「君は…誰?」


「私は…ヒナタって言うんだ」


 少女は自分の名前を告げる。


「ヒナタ?」


「そう…よく覚えていないのだけど、ここで君を待っていた気がするの…何かとても大切なもののために」


 ヒナタと名乗る少女は、空から視線を外すと何処か大人びた表情で遠くを眺めた。

 その姿に少しノイズが走ったような気がした。


(…気のせい、か…?)


 空が目を擦り、もう一度少女を見るが変化はなかった。


「俺を待ってたの…?」


「たぶんね…キミを見たときにそういう風に感じたんだ」


 少女は少しだけ空の方を見て視線を戻す。


「ずっと、ここにいるの?」


「…それもよく覚えていない…」


「…ここは何処かわかるかな?俺、”記憶の根”に行かないとダメなんだ」


 空も少女から目を外して辺りを見渡す。


「”記憶の根”…そっか…それなら、わかるよ。でも何のためなの?キミの求めるものは何なの?」


 少女は何かを確かめるように尋ねる。


「……俺がここに来たのは、ある人を“取り戻す”ためなんだ。忘れられてしまいそうで、でも、忘れたくなくて……」


 空はあの日、握った右手を見つめる。

 彼の言葉に、ヒナタはゆっくりと頷いた。


「大切な人、なんだね……その人の名前は?」


「朝陽。俺にとって……たぶん、一番、大切な人」


 空は大切なものを手放さないように手を力強く握った。


「それは…その子は幸せだね」


 顔をあげると、少女はこちらを向いて微笑んでいた。

 まるで空と朝陽を心から祝福するような聖母の笑みだった。


「あなたは…」


 空は何かを尋ねようと声を上げた。


「……記憶の根、案内するよ。と言っても、もうこの場所がキミが探している場所だけどね」


 ヒナタはゆっくりと歩きながら、結晶のひとつに目をやった。


「ここにはね……忘れたくない想いが、集まってくるの。

 どうしても消えなかった、誰かの記憶。誰かを想う心。

 そういうものだけが、ここに残っていくんだと思う」


 ヒナタは結晶の中に何を見たのか目を細める。


「……でも、それが誰のものかは、私にもわからないの。たぶん私も、その“誰か”の一人なんだろうけど」


 その瞳に少しだけ、歯痒さの色が灯っていた。


「私がキミを助けるよ。キミが朝陽って子を助けるように」


 そう言ってヒナタは空に手を伸ばす。


「手を取って、見つけに行こう」


「……ありがとう、ございます」


 ほんの一瞬、触れた手のぬくもりが伝わる。

 けれど次の瞬間、足元の孤島が音もなく崩れ──そして”記憶を辿る旅”が始まった。


 * * *

 

 地面が、すべての重力が消えたように、下へと引きずり込まれていく。


「──えっ、ちょ、落ち──!」


 慌てて手足をばたつかせるが、支えはどこにもない。ただ、黎明の染まる世界を音もなく落ちていく。


「だいじょうぶ。心配しないで」


 隣にいたヒナタの声が、風に乗るように届いた。彼女も同じように落ちているはずなのに、不思議とその声は穏やかで──浮かぶような微笑をたたえていた。


 その瞬間、目の前に現れたのは──無数の、記憶の“結晶”。


 光を宿したそれらは、まるで意思を持つかのように迫ってくる。

 一つ、空の目の前に。

 ぶつかる──そう思った瞬間、思わず目を閉じた。


 そして──


『……オギャアァ……』


 どこかで、産声が上がった。


 そっと目を開ける。視界は一変していた。


 病院の、白く静かな廊下。

 分娩室の前の長椅子に、一人の男性が座っている。


 何度も手を組み直し、立ち上がっては座りなおす。

 心ここにあらずというような不安げな表情で、時計をちらちらと見上げている。


 その耳に、届いたのは──


『オギャア……!』


 高く、小さな、けれど確かな命の産声だった。


 男性ははっと顔を上げ、長椅子から跳ねるように立ち上がる。

 何かを言おうとして声にならず──それでも、目に光が宿っていた。

 小さく、呟くように──


『……産まれた……』


 その手は少し震えていたが、まるで世界中の奇跡がそこに集まったかのような、そんな瞳だった。


 空は、廊下の壁際に立っていた。


 自分の隣に、ヒナタもいた。

 ふたりの姿は、男性には見えていない。


「……あの人は……それに、ここは……?」


 空が、そっと尋ねる。


「彼は朝陽の父、優輔さん……まだ、“お父さん”って呼ばれることにも慣れてない頃。あの人は、普段はすごく飄々としてるのに……いちばん大事な瞬間になると、落ち着きがなくなっちゃうんだよ」


 少女がどこか懐かしげに微笑む。


「……じゃあ、あの中にいるのは……」


「うん……朝陽だよ」


 空は黙って頷いた。

 その産声は、記憶なのに不思議と“今”を感じさせるほどに強く、温かかった。


 まるで、誰かがこの瞬間をどうしても忘れたくないと願ったかのように──


「多くの愛情や希望に包まれて、祝福されて、朝陽が生まれた日……ここからあの子の全てが始まったの」


 そう溢した、少女の瞳は少し潤んでいた。


「全て…」


「そう、全て…あの子はこれから喜びも悲しみも、多くの世界に出会う。そしてキミにも」


「これが……はじまりなんだ……」


 空がそう呟いたとき、ひときわ強く輝いた結晶が、ゆっくりと空とヒナタの前に浮かび上がった。


 光の粒がこぼれるように揺れ、ヒナタはそっと手を伸ばす。


 指先が触れた瞬間──

 結晶はやさしいきらめきを残しながら、静かに“溶けるように”消えた。


 その光は、小さな流星のように軌道を描き、ヒナタへと流れ込む。


 そして──そこにあった、ひび割れたノエリウムがかすかに揺れ、淡い光を宿した。


「今のは……」


 ヒナタが優しく頷く。


「“朝陽を取り戻すための記憶”。ノエリウムは、想いを集めて形にする器だから…」


 ヒナタは手のひらのノエリウムを空にそっと手渡した。

 彼はノエリウムを胸元に寄せて、光の温度を感じ取ろうとする。

 そこには確かに、いまの記憶が“在る”感覚があった。


 ヒナタは空を見て、再び手を差し出す。


「さぁ、旅を続けよう」


 空は頷いて、手に触れる。

 温もりが、ふたたび落下の風とともに揺らぎ──白い廊下の景色が、薄い霧のようにほどけていく。


 * * *


「──はっ!」


 また落ちていた。終わりの見えない空へ──いや、記憶の底へ。


「これが“記憶を辿る旅”……朝陽を、もう一度取り戻すための旅だよ」


 隣を漂うヒナタの声は、静かに優しく響く。


「朝陽は、いま忘れられつつある。でも……誰かが強く“想い続けている”限り、その子の“存在のかたち”は、きっと取り戻せる…ノエリウムを依代にして…」


「…ノエリウムを」


 空は右手の中のノエリウムを握る。


「……行こう!次の想いに!」


(……忘れない。絶対に)


 その想いに呼応するように、また一つ──記憶の結晶が現れる。


 * * *


 ……また、景色が変わった。


 今度は、午後の日差しが差し込む小さなリビング。


 ベビーベッドの中で、赤ちゃんの泣き声が響いていた。


『ふぇぇぇえ……っ、ああぁあ……!』


 若い女性が駆け寄ってきて、慣れた手つきで朝陽を抱き上げる。


『朝陽、どうしたの……お腹も空いてないし、おむつも替えたばかりなのに……』


 彼女の隣には、眠そうな顔でタオルを持ってくる男性の姿。優輔だ。


『はいこれ……あ、ミルク足りなかった?』


『ううん、たぶん違う……この子、さっきからずっと、泣き止まないの』


 彼女は、少し困ったように笑って、でもその表情はどこか愛しさに満ちていた。


『こんな日もあるよね……うん、仕方ない』


 そう言って、朝陽を胸に抱き、何度も背中を優しくさすってあやす。


 ──それでも、泣き止まない。


 声を詰まらせながら、なおも泣き続ける赤ちゃん。


 けれど──


 朝陽がふと、何かに気づいたように宙を見上げた。


 何もない空間に、小さな目が吸い寄せられるように動く。


 ……その先には、空とヒナタが立っていた。


「……え……」


 空が驚いたように声を漏らす。


 朝陽が、小さな口をきゅっと閉じる。


 ……そして。


 ──笑った。


 涙で濡れたままの顔が、ふにゃりとほころんだ。


『……いま……笑った……?』


 若い女性は、ぽつりと呟く。


 その声には、安堵とも、感動ともつかない、

 ただただ“母”としての全てが溶け込んでいた。


『ありがとう……朝陽……』


 彼女はそっと頬を寄せる。


 優輔が、くしゃくしゃの顔でそっと見つめていた。


 ──空は、その光景を胸に焼きつけた。


 結晶の光が流星の軌跡を描いて、ノエリウムへと吸い込まれていく。


「今の記憶……すごく、あたたかかった」


 空がぽつりと漏らす。


「うん……あの子は、本当によく泣く子だったの。夜中でも、何をしてても関係なくて……それでも、いつかは笑ってくれるって、信じてた」


 ヒナタの声は、どこか懐かしさに満ちていた。


 空は、少しだけ彼女を見つめる。


「……それって……やっぱり」


 ヒナタが、ふっと微笑む。


「思い出したの。私が……“ヒナタ”だってこと」


 淡く、けれど確かな名乗り。


 その言葉に、空は静かに頷いた。


 ──リビングの記憶が淡く消えていく。


 再び、重力のない世界を落ちるように漂う空とヒナタ。


 そして、ノエリウムが輝き出して、引き込まれていき、結晶の記憶が拡がっていく。


 * * *


 世界が、優しい光に満ちた“部屋”に変わった。


 窓から差し込む午後の陽ざし。床に広がるプレイマットと、散らばる絵本や積み木。


 その中央に、小さな女の子が座っていた。


『んー……ま、ま……』


 まだ拙い発音で、言葉にならない音を繰り返す。

 頬をぷくっと膨らませ、真剣な顔。


 その姿を、ヒナタはキッチンの方から見守っていた。

 エプロン姿のまま、手を拭きながらそっと近づき、しゃがみ込む。


『どうしたの、朝陽?』


『……ま……ま、まぁ……』


 もどかしそうに口を動かす朝陽。


 そして──


『……まま』


 はっきりと、短く、その言葉が発された。


 空気が、静かになった。


 ヒナタは驚いたように目を見開いた。


『……いま……』


 朝陽はヒナタのほうを見て、小さく、もう一度口にした。


『ママ』


 その目が、嬉しそうに細められる。


 ヒナタは両手を口元にあてて、震えた声で笑った。


『……うそ……初めて、呼んでくれた……』


 そのまま朝陽をやさしく抱きしめる。


『ありがとう、朝陽……ママ、うれしいよ……』


 涙がぽろぽろと落ちていく。

 けれどそれは、優しさと愛しさで溢れた、温かい涙だった。


 ──空は少し離れたところで、その光景を見ていた。


「……これは…朝陽が初めて…呼んでくれた記憶…?」


「うん……たぶん、私の中でも、いちばん“母になれた”って強く想った日」


 ヒナタ──そう、いまや記憶の奥からその名を取り戻した彼女が、そっと語る。


「朝陽に呼ばれて、必要とされて、はじめて、私の存在が意味を持ったような気がしたの」


 彼女の声には、微かな震えと、誇りのようなものが混ざっていた。


 そして、少しだけ目を細めて、キッチンの方を見やる。


「……でもね、私ひとりじゃ、きっとここまで来れなかったよ。夜泣きに疲れた日も、泣きながら笑った日も……全部、優輔さんがそばにいてくれたから」


 ヒナタの表情が、ふっと緩んだ。


「この瞬間を、あの人にも見せてあげたかったな……“パパだよ”って、朝陽が呼ぶ日もきっと……すごく喜ぶと思う」


 空はそっと頷いた。

 その言葉からは、ヒナタが”家族”のことを本当に愛していたんだと確かに伝わってきた。


 ──結晶が再び、淡く光る。


 空が手を伸ばすと、またひとつ、記憶の欠片がノエリウムへと吸い込まれていく。


 今度の光は、どこかあたたかくて、胸の奥にそっと灯をともすようなやさしさを含んでいた。


 ふと見ると、ノエリウムの奥に、かすかに笑う“幼い朝陽”の影が浮かんだ気がした。


 そして──また、落下が始まった。


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