第四十話:三人の影
朝露の残る石畳を踏みしめながら、三人はゆっくりと門をくぐった。
振り返れば、トキレイムの街並みがまだ眠るように静まり返っている。
そこに暮らす人々、交わした言葉、すれ違ったままの想い。すべてを後ろに残して、旅が始まる。
風が、街の外れの丘を吹き抜ける。
トキレイムの街並みが少しずつ遠ざかり、代わりに、まだ靄を纏った緑の地平が広がっていく。
誰も口を開かぬまま、しばらく三人で並んで歩いていた。
空は無意識に肩に力が入っていることに気づき、そっと息を吐いた。
隣を歩くシィロは、少し緊張した面持ちで、それでも前をまっすぐに見据えていた。
ふと、シィロが足を止め、二人を見た。
「……このまま、幻影の森を通って、まっすぐ“祭壇”に向かいますか?」
少し不安げな声色に、空が視線を向ける。
レイスは足を止め、少しだけ空を仰いだ。
「二人ともすまない……少し、寄りたいところがあるのだが構わないか?」
「寄りたいところですか?」
空が問い返すと、レイスはゆっくりと頷いた。
「……記憶の祭壇に向かう前に、どうしてもあの人の眠る場所に行く必要がある」
その声は静かだったが、どこか懐かしさと寂しさを滲ませていた。
空はその言葉で、レイスがどこへ向かおうとしているのかに気づいた。
以前、レイスから聞かされた、あの“師匠”の話が脳裏に浮かぶ。
かつて慕い、教えを受けた「師匠」の眠る石碑であると。
「…私の師匠は生前、記憶の祭壇を守っていたのだ。そしてあの石碑には記憶の祭壇に至るために必要な物…その一部があると言っていた。いずれ誰かが必要とするだろうと思ってな」
「…必要な物ですか?」
空は少し眉をひそめた。
言葉の意味は理解できても、それが何を指すのかは想像できなかった。
「ああ、正式な名称は知らないがな…ただ、記憶の祭壇に至るためには、それに“応じる想い”が必要になる」
レイスはふと、懐からひとつの欠けた金属片を取り出した。
それは、以前、師から託された封具の欠片だった。
「……かつて私も、すべてを託されるには至らなかった。師は“全てを持つ者”の存在を前提にはしていなかったのだと思う。ゆえに、あの場所に残したのだ」
封具を見つめながら、師の言葉を思い出すように語る。
「残りは、あの場所にある」
静かにそう言うと、レイスは再び歩き出す。
「……じゃあ、行こう。きっと、寄っていったほうがいい気がする」
シィロは何も言わず、ただ少しだけうなずいた。
空が一歩を踏み出すと、シィロも続く。
風が吹く。
どこか懐かしい匂いが、森の奥から流れてきた。それはまるで、記憶の扉がわずかに軋む音のようだった。
この道の先にあるのは、記憶と、想いと、決意の始まり。
三人の影は、朝陽のなかに静かに伸びていった。
石碑へと続く小道は、少しだけ森の外れを回る。
木々のざわめきが、街の喧騒とは違う、命の声のように響いてくる。
誰もが、これから訪れる場所のことを考えていた。
けれど、この寄り道は——それぞれの“過去”と“現在”をつなぐ、かけがえのない時間だった。
小道に咲く花々が、彼らの足音に揺れた。
小さな命の声が、まるで「忘れるな」と語りかけているようだった。
* * *
森の外れをゆっくりと回る小道を、三人は歩いていた。
木々の隙間からこぼれる朝の光が、足元の草をまだらに照らす。
風はやわらかく、夏の匂いと共に静かな空気が流れていた。
沈黙が続いていたが、ぽつりとシィロが口を開く。
「……レイスさんの師匠って、どんな方だったんですか?」
その問いに、レイスはすこしだけ足を緩めた。
「……そうだな、あの人は…」
苦い顔をしたレイスは少しだけ空を見上げるようにして、静かに語り始める。
「…だらしなくて、適当で、よく寝坊もするし、服もいつも着崩していて…ろくに書類も読まず、煙草の代わりにキセルを吹かして、”面倒臭え…”って言いながら昼間から縁側でごろごろしてるような人だったよ」
「……えぇ……」
思わずシィロが呆れたように目を丸くする。
けれど、レイスの口調には、どこか懐かしさが滲んでいた。
「私が書庫にこもって真面目に勉強してると、平気な顔で『勉強なんて腹が減るだけだ』とか言って、つまみ食いして……師匠としては最悪の部類だったな…」
「でも……嫌いではなかったんですよね?」
シィロの言葉に、レイスはふっと笑った。
「ああ、嫌いにはなれなかった。むしろ……尊敬していたよ。あの、どうしようもない人を。きっと……心のどこかで、憧れてもいたんだろうな」
少しだけ、視線が遠くなる。
「普段はどうしようもないのに、肝心なときは、まるで人が変わったように決めるんだ。敵が襲ってきた時なんて、片手でさばきながら『煙草の火が消えた』って文句言っててな……」
「それ、かっこいいのか微妙なラインですね」
空が笑いながら言うと、レイスも肩をすくめた。
「でも、自分のことはぐちゃぐちゃでも、誰かの過去や痛みにはとても、真摯だったよ…そして誰よりも孤児だった私の事を大切にしてくれた」
言葉のあと、少しの沈黙が落ちる。
そして、空が静かに口を開いた。
「……その人が守ってた記憶の祭壇に、俺たちが向かってるんですね」
「ああ。私だけでは、きっと向かうことはなかった」
レイスの目が、少しだけ揺れた。
「師匠は最期まで、私には全てを語ることはなかった。封具の一部だけを託して、『残りは、必要なときにお前がわかる』と」
その言葉に、シィロが前を見据えたまま小さく頷く。
「その“必要なとき”って、今なんですよね」
「ああ。きっとな」
レイスは答えながら、少しだけ前を向く姿勢を正した。
木漏れ日が、三人の間に小さな円を描くように差し込んでいた。
そして、道は緩やかにカーブしながら続いていた。
もうすぐ、小道の終わり。
その先に小さなあずまやがある。
森のざわめきが、まるで遠い昔の記憶を呼び起こすかのように、揺れていた。
* * *
小道の終わりを抜けると、ぽつりと一軒のあずまやが姿を見せた。
草臥れた屋根と、風雨にさらされた木の柱。
以前、訪れた時と全く同じ雰囲気を纏って、三人を静かに迎え入れた。
三人は屋根の下に身を寄せると、思い思いに腰を下ろす。
「……ふぅ。やっと着きましたね」
シィロが肩のリュックを下ろして、タオルで額をぬぐう。
中から取り出した水筒を空に差し出すと、空は少し遠慮がちにそれを受け取った。
「ありがとう、助かるよ」
「空さん、まったく荷物持ってませんでしたもんね」
「いや……なんか、気づいたら何も持ってなくて」
「旅人失格ですよ、ほんと」
シィロが軽く笑い、空も苦笑いで水を返す。
レイスはというと、柱に背を預けたまま目を閉じていたが、ふいにゆっくりと身を起こした。
「……ここで少し休んでいてくれ。私は、ひとりで向かってくる」
その言葉に、空とシィロが同時に顔を上げる。
「え? レイスさんだけで?」
シィロが眉を寄せる。
「ああ。……石碑に向かい、回収してくるだけだからな。だから、ここで待っていてくれ」
「でも、それって……」
レイスは静かに首を振った。
「ここは私の過去に関わる場所だ。向き合うべきなのは私だよ。……それに、これはきっと“私に与えられた試練”だ。だから……ありがとう。でも、行かせてくれ」
レイスの言葉は落ち着いていたが、どこか――ひとりで行かねば、という気負いのようなものが感じられた。
その口調に、空もシィロもそれ以上は何も言えなかった。
少しの沈黙のあと、シィロが小さくうなずく。
「……わかりました。でも、無理はしないでください」
「ああ。すぐ戻るさ。それに、回収してからが本番だ。力を温存しておいて損はない。私が戻ってきたら、すぐに“祭壇”へ向かおう」
レイスは静かに言い残し、あずまやを後にした。
残された空とシィロは、しばらく無言でその背中を見送っていた。
風が、そっと吹いた。
「……やっぱり、ひとりで行かせるのって少し心配ですね」
ぽつりと呟いたシィロに、空も苦笑する。
「うん。でも……レイスさんにとって大事なことなんだよ」
二人の間に、また静かな風が流れた。
* * *
程なくして、石碑に到着した。
レイスは石碑に礼をすると、懐から金属片を取り出した。
石碑の前に膝を着くと、金属片をそっと置いた。
「…師匠、私たちは今から記憶の祭壇に向かいます…力を貸してください」
レイスは祈るように、手を合わせて瞳を閉じた。
風で木々たちがざわめく。
しばらくの間、そうしていた。
レイスは瞳を開けて、金属片を手に取るが変化は見られない。
(……ダメか…何かが足りないのか…?)
金属片を強く握りしめたレイスは叫ぶ。
「…私ではダメなのですか!師匠!」
レイスがひとりで石碑の前に立ち尽くしていると、足音。
「……レイスさん!」
立ち尽くすレイスにシィロは駆け寄った。
背後からの声に、レイスは二人を振り返って尋ねる。
「…二人とも…どうして来た?」
「やっぱり……一人じゃダメな気がしたんです」
「それに…仲間ですからね!」
空が微笑み、シィロは真っ直ぐと答えた。
「……ありがとう」
レイスの素直な言葉に、空もシィロも何も言わず、ただうなずいた。
風が、木々の葉をそっと揺らす。
その音はまるで、見守る者の吐息のように穏やかだった。
──悪くねえ面、するようになったな。レイス。
何処から聞こえた声。
「…?何か聞こえました?」
「い、今のは師匠?いるんですか?」
三人は周囲を見渡すが、辺りには誰も居ない。
その時、石碑が静かに光を放った。
「なんですか? 石碑が!」
シィロは目を見開いて、石碑を見ている。
やがて光は粒子となって、レイスが持つ金属片へと注がれた。
「これは……」
金属片が宙に浮かび、粒子が絡みつくようにその輪郭をなぞっていく。
まるで誰かが思い描いたかたちを彫り上げるように、光が編まれ、鋭く、しなやかな線を描く。
やがてその姿を現したのは、全長およそ60センチほどの、精緻な彫刻が施された儀式用の短槍だった。
槍身は銀鉄で、穂先には薄く蒼の光を帯びた結晶石が嵌められている。
柄の中央には、かつて師が用いていた“記録の封印”の紋様が浮かび上がっていた。
装飾は抑えめだが、所々に織り込まれた古代語の詠唱文が、記憶の継承者としての意味を静かに物語っている。
「……これが、師匠が残したもの……」
封具の完成形を見つめながら、レイスはそっと手を伸ばす。
触れた瞬間、温かな何かが、指先から胸へと流れ込んできた。
「それが、必要な…封具…」
シィロは口に手を当てて、封具を見つめている。
レイスが封具を掴むと浮力を失った。
「……師匠、ありがとうございます」
レイスは石碑に向けて、礼をした。
「レイスさん、やりましたね!」
「すごい封具になりましたね」
空とシィロは喜びを口にした。
「師匠。これが、私の仲間たちで。私たちは今から記憶の祭壇に行ってきます。何処かで見ていてください」
三人は再び、石碑に一礼すると背中を向けて並んで歩き出した。
去っていくレイスの耳に風のざわめきと共に届く声。
──おう、行ってこい。
今度ははっきりと聞こえた声。
空とシィロには聞こえてはいないようだった。
レイスは最後に石碑に振り返るとにっこりと笑った。
「レイスさん、行きますよー!」
石碑を見ているレイスに気付いたシィロは振り返って声を掛ける。
「ああ、行こう。二人とも」
レイスは安心したように微笑んでから、二人に向かって静かに言った。
* * *
あずまやに戻った三人は荷物を手に、改めて記憶の祭壇へと向かう。
レイスの懐には、今完成した封具の温もりがあった。
過去に託されなかったものが、今、自分の手にある。
「私が全部を託されなかったのは、まだ足りなかったからだ。知識も、覚悟も。それに――歩みを共にする仲間もいなかった」
(……師匠もハンゲツ様も、こうなることを見越していたのだろうな。誰かと歩む未来を)
シィロが足を止めて言った。
「……でも今は、違いますよね?」
レイスはふと立ち止まり、シィロを見る。
「空さんも、私もいます。小さな力かもしれませんけど……レイスさんには沢山の仲間がいますよね?」
「……」
レイスは何も言わず、その瞳をまっすぐに見つめ返した。
「ふふ、そうだな…随分頼りない仲間だがな?」
そう言うとレイスは冗談めかして微笑んだ。
「ひどいですよー!」
シィロが怒ったように笑い、つられて空も笑った。
三人の影が、差し込む光のなかでゆっくりと並ぶ。
今なら、きっと超えてゆける。
風が吹く。新しい旅の始まりを告げるように。
短槍の名前はレムナント=スピア(記憶の残響)が良いです!




