第三十九話: その手を離さぬように
昨夜、ハンゲツとの長い話を終えたあと、空たちはそれぞれの部屋へと戻り、静かに夜を迎えた。
その夜は、不思議なほど音がなかった。
風も、虫の声も、まるで世界が息をひそめているようだった。
そして——朝が来る。
鳥のさえずりが、まだ淡い空気のなかに溶けて、静かに広がっていく。
まるで、新しい世界の始まりを告げる合図のように。
空は、薄く目を開けた。
いつもより早く、そしてどこか冴えた意識で。
夢と現実のあわいで、誰かの声を聞いた気がした。
——“だいじょうぶ”。
それはたしかに聞こえた。
胸の奥へ、まっすぐに届いた温もりのある声。
まるで朝の光のように、冷えた心をそっと包み込んでいく。
空は静かに息を吸い込み、ゆっくりと身を起こした。
カーテンの隙間から、やわらかな光が差し込んでいた。
その先には、どこまでも青く澄んだ空が広がっている。まるで何かを試すように。
昨日の夜に灯した決意は、まだ胸の中に、静かに、けれど確かに燃えていた。
それが、朝という名の“はじまり”に背中を押してくれる。
空はベッドを離れ、机の上に置かれていたノエリウムに目をやる。
ノエリウムは、ほんのわずかに淡く光を放っていた。
呼ばれている。そんな予感がした。
彼は、ノエリウムをそっと手に取り、部屋を後にする。
* * *
昨日別れるときに、食堂で待ち合わせることを約束していたため、部屋を出た後は真っ直ぐ食堂に向かった。
食堂では数人の記録者が談笑しながら朝食を摂っていた。
そのなかで、隅のテーブルに一人、俯きがちな姿が見える。
シィロだった。
焦げたトーストを手に、固まったように動かない。
「あ、おはようございます、空さん」
シィロは食堂に現れた空に気がつくと、焦げたトーストを置いて挨拶をした。
「おはよう、シィロ。」
空はシィロに挨拶して、シィロの隣に座る。
「空さんもトースト食べますか?」
「え、あ、うん」
「頼みに行ってきますね」
空が話し出す前に、シィロが朝食をカウンターに頼みに向かった。
「おはよう。早いな、空」
「あ、レイスさん。おはようございます」
遅れて、食堂に入ってきたレイスは空を見つけるとテーブルに近づいて声をかける。
レイスが食堂に現れたことで記録者たちは少し静かになったが、レイスはその変化を無視した。
「よく眠れたか?」
「いえ、もう少し寝たかったんですけど、なんだか意識が昂ってしまって…」
空は頬を掻きながら答える。
「実は、私もだよ」
そう言ってレイスは微笑んだ。
「む…シィロももう居るのか?」
空の隣に置かれたトーストを見て、レイスは呟いた。
「俺より先に来てましたよ。今は俺の分を取りに行ってくれてますけど…」
「そのトースト…焦げているな…」
レイスはため息を吐く。
「……まだこんな愚かな真似をしている者がいるのか」
「どういうことですか?」
レイスは黙った後、空に言った。
「シィロには色々あってな…詳しくは伏せるが、少なからずシィロのことを不快に思う者もいるのだ。だからこう言った嫌がらせを受けることがあるようだ」
「シィロに?…それは止められないんですか」
「見つけては何度も言ってはいるが、人は自分の理解できないもの、違うものに拒否反応を示す、本当に馬鹿げた話だかな…」
レイスの瞳に様々な色が見える。
「それに、シィロはまだ、周囲の自身への扱いが私にはバレていないと思っているようだしな」
「お二人で、なんの話ですか?」
シィロが空の朝食をトレイに乗せて戻ってきた。
「あっ、お、おかえり、シィロ」
空が少し気まずそうに笑うと、シィロは不思議そうな顔をした。
「あ、レイスさん、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「空さん。はい!これ、よかったら…!」
シィロがそっと空の前にトレイを置く。
そこには、手作りのトーストが二種。半分にカットされたそれぞれに、卵サラダとチーズがたっぷりと盛られ、上からは控えめなケチャップが線を描いていた。
「これって…あかりの、特製トースト…?」
「…キッチンが、今忙しくて手が空かないみたいなので自分で作ってみました。あかりさんが作ってるのも見ていましたし…」
「へぇ、すごいな。美味しそうだ。」
空が感謝を伝えてにっこりと笑うと、シィロは嬉しそうに目を細めた。
「これから大変だと思いますし、元気、出るといいなって思って……」
そう呟いたその声に、ほんの少しだけ寂しさのようなものが滲んでいた。
それに気づいたのか、レイスが何も言わずに椅子を引き、向かい側に腰を下ろす。
「ふん……悪くはない匂いだな」
「えっ、あ、レイスさんも……?」
「味見ぐらいはしてやろう」
レイスはそう言って、シィロが自分用に置いてあった焦げたトーストを手に取った。
シィロが少し慌てたが、レイスは構わずかじりつく。
「……ん。焦げているな」
「うっ……す、すみませんっ」
「シィロが謝ることはないだろう?…だが、シィロの朝食を取ってしまったからな…私が代わりに朝食を取ってきてやろう」
「あっ…!」
そう言って、次はレイスが返事を待つことなく、颯爽とカウンターに向かっていった。
そして、言葉なくレイスを見送ったシィロは小さく笑った。
何でもない、静かな朝のひととき。
けれど、そこにある優しさが、言葉よりも深く胸に残る。
この日、彼らは「記憶の祭壇」へ向かう。
忘れられた記憶の奥へ。取り戻したい願いと小さくない不安を胸に抱いて。
だからこそ、今はほんのわずかでも、こんな時間があってよかったと思えた。
レイスが戻った後は、三人の間に静かで穏やかな会話が続く。
時々軽口も交じるが、これからのことを考えると、どこか緊張したような空気にじわじわと変化していった。
やがて、施設全体を揺らすような大きな音が鳴り響いた。
「エクシウスの音、か…そろそろ出発するとしよう」
レイスが紅茶の入っているカップをテーブルに置いた。
食器を片付けると、三人は肩を並べて立ち上がる。
静かな朝を後にして、これから訪れる運命の地への道を歩き出した。
* * *
「二人とも。出発の前に一度、ハンゲツ様のところに行くぞ」
「それには及ばんよ」
施設から出てすぐに、レイスが二人に方針を告げると背後から声がした。
「わっ!……ハンゲツ様。いい加減、私も怒りますよ…?」
二人に振り向いたレイス。
その後ろにハンゲツは立っていた。
「ほほ、すまんすまん」
レイスの怒りに対して、飄々とした顔をして答えるハンゲツ。
怒りと共に冷気を向けていたレイスは、大袈裟なため息と共に冷気を消した。
「さて、お主たち。どうやら準備は出来ているようじゃのう?」
「はい…!」
ハンゲツの言葉に、それぞれは強く頷いた。
「では、旅行く若者に、このおいぼれから、ささなかな祈りを捧げようかのう」
ハンゲツは、何処からか白銀に光る雷を模した長杖を取り出した。
ゆっくりと掲げると、静かに輝き始める。
杖の先からほとばしる光は、まるで星の雫のように、粒子となって三人の上に降り注いだ。
——音が、消える。
世界から一瞬だけ音が抜け落ち、空は無音の中で、自分の鼓動と、そばにいる仲間たちの気配だけを感じていた。
ハンゲツの唇がゆっくりと動き出す。
それは言葉というより、“響き”だった。意味よりも先に、心の奥へと染み込んでいく。
『いにしえの空を渡りし風よ——』
『地の記憶と星の導きのもと——』
『旅立つ者に、灯りを。還る者に、安らぎを』
『忘るるなかれ。想いこそが、道となり、盾となり、帰る場所を照らす灯火となることを——』
声と共に、降りそそぐ光が三人の輪郭を照らし、ふわりと宙に浮かぶような錯覚を与える。
やがてその光は空へと昇り、静かに弾けるように消えていった。
時間がふたたび流れ出す。
「…よし、これで良かろう。気を付けてな」
「……行ってまいります」
空が一礼し、隣の二人もそれに続いた。
それぞれの目には、決意と、わずかな不安と、それでも前を向こうとする光があった。
見送るハンゲツは微笑を浮かべながら、少し寂しげに頷いた。
「よい旅を。……その手を、決して離すでないぞ」
ハンゲツの元を去って、旅行く彼らの背中には、まだ微かに光の粒が舞っていた。
それはまるで、見守る者の祈りが、風になって残っているかのように——。




