第三十八話:再起の時
静まり返った夜の回廊を、三人の足音が等間隔に響いていた。
先を行くのは、レイス。
彼女の背はぶれることなく、まっすぐに伸びている。
その後ろを、空とシィロが歩いていた。
中庭での出来事が夢のように感じられるほど、空の心は今、静かだった。
心を覆っていたざらつきは薄れ、歩くたびに“何かを取り戻している”ような感覚があった。
——それが“誰かの助け”によるものだと理解できるだけの、冷静さは戻っていた。
「お前たち、今までどこにいたんだ?何度か部屋に人をよこしたんだが…」
レイスはこちらをちらっと見て、質問した。
「えっと、昼ご飯を食べてから、記録の塔に行っていました」
シィロは少し焦りながら伝える。
「記録の塔か…」
レイスは少し苦い顔をした。
「そこで剪定者が朝陽は制限領域を超えた先——記憶の根の奥にいるかもって…レイスさん、記憶の根の奥への行き方を知りませんか?」
レイスは何かを思い出すように黙り込んで首を横に振った。
「…すまないが、それは私も知らない記録のようだ」
「そうですか…」
「…だが、ハンゲツ様なら何か知っているかもしれないな」
「記録者の最高責任者の方ですよね?」
「ああ…」
空の言葉をレイスが肯定する。
「……ハンゲツ様って、どんな方なんですか?」
続く空の問いに、レイスは足を止めずに答えた。
「お前たちよりも遥かに長く、この世界を見てきた方だ。その知識と洞察は時に神託と呼ばれるが……気まぐれでな」
「……気まぐれ?」
「何を語り、何を黙るか。それを決めるのは、あの方自身だということだ。知りたいことを訊くといい。だが、望んだ答えが貰えるとは限らないがな…」
それは、助言とも忠告ともつかない言い回しだった。
だがその言葉に、空は妙な納得感を覚えた。
——あの中庭の老人も、まさにそんな人物だった。
「……まさか、さっきの?」
小さく漏らした空の言葉に、シィロが不思議そうに振り返った。
「何か言いましたか、空さん」
「ううん、なんでもない。行こう」
しばらく進むと、重厚な扉の前でレイスが立ち止まった。
緩やかな曲線の彫刻が施されたその扉には、かすかに月の紋様が浮かんでいる。
「……ここだ。ハンゲツ様がお待ちだ」
空とシィロがお互いの顔を見て頷く。
「行こう」
「レイスです、空とシィロを連れて参りました」
レイスが告げた瞬間、部屋の扉が歴史を感じさせる音と共に、ゆっくりと開いていく。
その動きと同時に、内部から漂う香のような、淡い空気が流れ出した。
——何かが、始まる予感なのか、ノエリウムが小さく鼓動を刻んだ気がした。
* * *
ハンゲツの部屋。
そこは不思議な空間であった。
本部の中に位置しており、室内であるにも関わらず、天井は存在せず、室内に踏み入れると星たちが上空で瞬いていた。
また、室内はアンティークな家具が配置され、使用方法がわからないような道具が生きているかのように淡い光の鼓動を見せていた。
壁には古文書と思わしき書物が隙間なく全面に収納されていて、部屋の全てが来訪者を見つめ、包み込んでいるようだった。
空とシィロは圧倒されて、扉から数歩のところで立ち止まり、口を開けてその光景に魅入っていた。
「突然呼び出して、すまんのう」
部屋の影から声が届いて、老人が姿を見せた。
三人に声を掛けたのは、やはり先ほど中庭で出会った老人だった。
「先ほどぶりじゃのう、少年よ」
老人は空を見て、イタズラが成功したかのように片目を瞑った。
「あの、えっと…」
空は困って、レイスを見やる。
レイスは頭に手を当てて、首を横に振る。
「…ハンゲツ様、また中庭に居たのですか?」
「まぁ、そう怒るでない。何事も遊びは大切じゃぞ」
「怒りますよ。それに、空を困らせないでください」
「随分と気に掛けているようじゃな、あのレイスがのう…」
「それは…もう良いです、二人をお連れしましたので退室させていただきます」
言葉を発することを諦めたレイスは、ハンゲツに一礼して部屋を後にしようとする。
「レイス、お主もここにいなさい」
ハンゲツが真面目な顔をして告げる。
「…わかりました」
反論する気はないのか、素直に従って、空たちの隣に戻ってきた。
「さて、とりあえずこっちに座りなさい。食事も用意しておる」
ハンゲツはそう言って、部屋の中央にある円卓へと歩いていく。
空たちが座る前には、まだ皿も盃も何も並んでいなかった。
空が不思議そうに周囲を見渡していると——
ハンゲツが、まるで風を払うように手を一振りした。
その瞬間、空気がかすかに揺れる。
何の音もなく、テーブルの上に料理が次々と出現していった。
金の縁取りがなされた陶器の皿に、湯気の立つスープ。
煌めく果実のようなグラッセ、淡い光を宿した魚の蒸し物。
小皿には、月を模した前菜が美しく並び、銀の食器には柔らかな蒸し肉と香草の付け合わせ。
どれも彩り豊かで、現実離れした香りが立ち昇ってくる。
「……すごい……これ、魔法みたいです……」
思わず呟いたシィロに、ハンゲツはにんまりと目を細めた。
「魔法かもしれんし、ただの手品かもしれんぞ。ここは、そういう場所じゃ」
空もまた、その幻想的な食卓に目を奪われながら、無意識に椅子へと腰を下ろした。
料理の温かさが、冷えていた身体にじんわりと染み込んでくるようだった。
「いただくとしようかの。遠慮せず、腹が減っておろう?」
「……はい、いただきます」
空たちはそっとスプーンを手に取り、温かなスープに口をつける。
口の中で広がる優しい味に、身体の芯がほどけていくようだった。
「……美味しい」
心の奥からこぼれた言葉に、ハンゲツが「そうかそうか」と満足げに頷く。
食事の時間は、思ったよりも穏やかで、ゆったりと流れていた。
誰も無理に話そうとせず、けれど沈黙が重くもない、不思議な空間。
「さて、少年」
ある程度、料理が落ち着いたところでハンゲツが、空を見て言った。
「そろそろ“聞きたいこと”を聞いても良い頃じゃろう?」
その声音は、問いかけというよりも、“知っている”という確信に満ちていた。
「その前に、まずは正式に自己紹介しようかのう。ワシの名前はハンゲツじゃ、この記録者本部で責任者をしておる」
「あ…僕の名前は、天音 空です。地球から失くしたくない人を取り戻すために来ました」
空は姿勢を正して、ハンゲツに返した。
「うむ、改めてよろしくのう。して、空よ。お主は記憶の根の奥に行きたいんじゃったな?」
「…そ、そうです。その…ハンゲツ様は行き方を知っているのですか…?」
ハンゲツに尋ねる空の声は震えていた。
「…知っているとも言えるし、知らんとも言えるかのう…」
ハンゲツは髭を撫でながら、古い記憶を辿るように答える。
「お主は、記憶の根をどう理解しておる?そして代償についてもじゃ」
「え…?」
「記憶の根――それはこの世界と魂の記録を繋ぐ“源流”のようなものじゃ」
ハンゲツは、卓上のグラスの水面をじっと見つめながら、言葉を続けた。
「すべての想い、過去、願い、そして失われたもの……その全てが、記憶の根に流れ着く。トキビトが記録を“剪定”し続けるのも、それを整理し、保つためじゃ」
空は息を呑んだ。すべての想いが流れ着く場所——。
「では……そこに朝陽の記憶も?」
「うむ、そうとも言える。だが、問題は“代償”じゃ」
ハンゲツはゆっくりと首を横に振る。
「“ノエリウム”を使うことによって、本来起こるはずだった出来事はひとつ、記録から切り離される。その分だけ、“誰かの記憶”が重さを受け持つんじゃ」
「……誰かの記憶が……?」
「つまり、お主がかけらを使って何かを“選び直した”とき、別の誰かの記録が代償として塗り替えられる。それがお主の想い人の身に起きたことじゃろう」
ハンゲツは少し目を細めた。
「本来であれば、代償で失われた存在も、“記憶の根”に痕跡として残る。だが……お主の想い人は、そこからさえ消えかけておる」
「……どういうことですか?」
「ワシにも、分からぬ…だが、誰かが隠そうとしているように思える。まるで、二度と探し出されぬように」
「……誰が、そんなことを……?」
「今はまだ、それを断言はできぬ。だが一つだけ言えるのは、“強い意思”が働いた形跡があるということじゃ」
ハンゲツの声には、確信に近い重さがあった。
「ハンゲツ様でも分からないのですか?」
ハンゲツの言葉にレイスが尋ねた。
「ワシとて、全てを知るわけではないからのう」
ハンゲツは遠い目をして、しばらく沈黙した。
「……空。お主が“朝陽”を救いたくば、記憶の根の奥に潜る必要がある。潜る方法は確かにあるが、そう簡単にはいかん」
「なぜ……ですか?」
「記憶の根は、魂と想いの絡まった“無数の枝”のようなものじゃ。そして、奥へ行くには——その想いと深く繋がった者でなければならん。つまり、ただ知識や力では届かん場所なのじゃ」
「……“繋がり”……?」
「うむ。朝陽と深く結ばれた“根っこ”に触れられる者が必要じゃ。でなければ、その痕跡はただの迷い霧となって、誰の手にも届かぬ」
「僕では、足りませんか…?」
「…残念ながらのう」
ハンゲツは空を見透かすようにじっと見つめた。
空は俯いて下唇を噛む。
(———だいじょうぶ)
「…え?」
空はバッと顔を上げて部屋を見渡す。
「どうしました?」
シィロは隣に座る空に声を掛ける。
「今、誰かの声が…」
「誰の声も聞こえませんでしたよ?」
シィロも部屋を見渡す。
「…ふむ。空、ノエリウムを見せてくれんか?」
「ノエリウムですか?」
空はポケットからノエリウムを取り出してテーブルの上に置いた。
ハンゲツはそれを手に取り、しばらく眺めた。
すると、ノエリウムが微かに震えた。淡い光が漏れ、まるで語りかけるように部屋の空気が変わる。
「……これは……」
老人の目が、見たことのないほど真剣な色に染まった。
「……やはり、強い“想い”が込められておる。母が娘を守るために遺した、最後の記録かもしれん」
「強い想い…じゃあ……繋がりに…!」
「うむ。希望はある。だがそれを確かめるには、“記憶の祭壇”へ行く必要があるじゃろうな」
「記憶の祭壇…」
その名前を呟いた。
空の中にある記憶が首をもたげた気がした。
“記憶の祭壇”。
ミミと目指した場所。
そして襲われた記憶。
「あの、記憶の祭壇の場所って、あの森を抜けた先、崖の下ですか…?」
「やっぱり、あの時の場所ですか?」
シィロの問いに空は頷く。
「うむ。報告書は読んだが、お主の言う通り、あそこに記憶の祭壇がある」
ハンゲツは髭を撫でながら言った。
「だが、記憶の祭壇に向かうとなると、ひとつ懸念点がある」
ハンゲツは真っ直ぐ空を見据える。
「お主は今、トガビトに侵食されておるようじゃな」
「え!どういうことですか!?」
ハンゲツ以外が飛び上がり、耳を疑った。
「シィロ、お主は空に違和感を感じたことはなかったか?」
ハンゲツの言葉に、空は固まったまま声を出せなかった。
代わりに、シィロが震える声を上げる。
「……違和感、ですか?」
「うむ。言葉にできぬほど微細な、けれど確かに在る“影”のようなものを……お主は感じなかったか?」
問いかけに、シィロはじっと空を見つめた。
そして――思い返す。
「……本部に戻ってきたときから、空さんの雰囲気が、おかしかったんです…たまに、目が合ってるはずなのに、遠くを見てるような…それに、記憶の塔から戻った後も…」
シィロは先ほどのことを思い出したのか口を噤む。
「それこそが“侵食”の兆候じゃ」
ハンゲツはノエリウムをそっとテーブルに戻し、腕を組む。
「侵食はな、徐々に心に“別の声”を混ぜてくる。それは時に本人の思考と区別がつかんほど自然に忍び込む。自覚できぬまま、意志が塗り替えられてゆくのじゃ」
「まさか……」
空の声が震える。
「それって、ミミが……?」
「……恐らく、ミミというトガビトは、お主を取り込むための保険として、種子を埋めたのだろう」
「取り込む、ために…種子を…」
「なら、僕はもう…?」
空は、自分の胸元に手を当てる。
自分の中に、知らぬ誰かの気配が息づいている気がして、ぞっとした。
シィロは空の腕を掴んで、包み込むように握った。
「大丈夫です。まだ“完全に”飲まれてはいません。……違いますか、ハンゲツ様」
その問いに、老人はうなずく。
「そうじゃ。ノエリウムが反応しておるうちは、まだ“空”の心がここに在る証じゃ。そして、それを揺るがす者も、また“想い”であるということじゃ」
ハンゲツは静かに立ち上がった。
「記憶の祭壇は、お主にとって危険な場所となる。だが、そこに“繋がりの鍵”も“答え”もあるじゃろう。お主の想い人の痕跡、そしてお主自身の……」
そして、老人は部屋の奥を記憶の祭壇がある方角を指差した。
「シィロ、レイス。空と共に記憶の祭壇に行きなさい」
「分かりました!」「了解しました!」
シィロとレイスは立ち上がって応える。
「ハンゲツ様、ありがとうございます。それに、シィロとレイスさんも」
空は三人に深く頭を下げた。
「……あの帰り道で、空さんが言ったこと。やっぱりあれ、本当の気持ちじゃなかったんですね」
シィロは小さく笑って、続けた。
「……それが、ちゃんとわかっただけで、私…嬉しいんです!」
「ふふ、私も言っただろう?力に貸すと」
シィロとレイスは笑った。
ハンゲツは三人を静かに見つめながら、再び席についた。
「……じゃが、決して油断するでないぞ。記憶の祭壇は“想い”を映す場所じゃ。強い繋がりは時に、深い痛みも呼び起こす。己を失えば、それこそ——すべてを失うことになるやもしれん」
空はゆっくりとうなずいた。
その目に迷いはなかった。たとえ自分の中に“侵食”の種があったとしても、まだ“空”としての意志はここにある。
「僕は行きます。絶対に、朝陽を見つけて帰ってきます」
そう宣言する少年の姿に、ハンゲツはわずかに口元を緩めた。
「よい返事じゃ。では今宵は、心身を休めることじゃな。明日からが、真の“記録の旅”の始まりじゃからのう……」
ゆっくりと夜が降りていく——その静けさの中、空の胸の奥に、小さく、しかし確かに灯った決意が、静かに燃えていた。
これで七章は完結です。




