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そらのかけら  作者: 夜と雨
第七章
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第三十七話:羽化

 半ばシィロに連れられるように、記録の塔を出た空は、本部を出るまで一言も発さなかった。


 夕日に染まっていた空は、もう夜の色をまとい始めていた。

 長い時間を塔の中で過ごしたはずなのに、外に出ても現実感が希薄で、どこか景色が歪んで見える。


 風が頬をなぞり、空はふと足を止める。

 目の端にちらついた光が幻か何かのように揺れて、気づけばふらついていた。


「……空さん」


 すぐにシィロが支える。その手には、ほんの少し震えがあった。


「大丈夫では、ないですよね…顔色も、少し……」


「……ううん、だいじょうぶ。ちょっと、疲れただけだから」


 空は笑った。

 けれどその笑みは、まるで作られたように乾いていて、声のトーンもどこか平板だった。


 目の奥から感じるものが、いつもの空とは明らかに違っていた。

 シィロは胸の奥に、冷たいものが入り込むのを感じた。


「もう…無理なのかな……」


 ぽつりと、空が呟いた。

 その言葉はあまりに突然で、シィロは思わず歩みを止めた。


「…何を言うんですか! 空さんは朝陽さんを取り戻すためにここまで——!」


「……そうだよ。でも、結局何も変わらなかった」


 空は俯いたまま、硬くこわばった声で言う。


「アズールヘヴンまで来たけど、記憶の塔でも何も手に入らなかった。…無意味だった」


「……それでも、まだ——」


「関係ないだろ?」


 その瞬間、声の質が変わった。

 空の言葉は低く、淡々としていて、そこに“温度”がなかった。


「別に朝陽が戻らなくても、シィロには関係ない。そうだろ?」


「……っ、それは——」


「もういい。シィロも、こんな奴と一緒にいるの、疲れるだろ?」


「そんな、私は……!」


「……どっか行ってくれよ。シィロが居たら、“頑張らなきゃ”って思っちゃうから、しんどいんだよ」


 その言葉は、鋭く、重かった。


 シィロは肩を震わせた。

 込み上げる涙を堪えきれず、唇を噛みしめて立ち尽くす。


 空はその表情を一瞥しただけで、足早に背を向ける。


 すれ違う影。離れていく足音。


「……私は、諦めませんよ」


 シィロは小さく呟いた。まるで、自分に言い聞かせるように。


「私は……絶対に、諦めませんから!」


 空に届くことのない声だけが、夜の帳に溶けていった。


 * * *


 あの後、どうやって戻ったのか、どれほど時間が経過したのか曖昧だった。

 一人、部屋に戻った空は、重たい足取りでベッドに腰を下ろした。

 

 頭の中がぼんやりしている。

 何かひどい言葉を言った気がする。

 誰かを傷つけた気がする。

 けれどそれが、夢だったのか現実だったのか、はっきりとしない。


 喉がひりつく。

 胸の奥がざらついて、気づけば、手のひらにうっすらと汗をかいていた。


 水を飲もうと、伸ばした手が水差しを倒した。

 水は音もなく溢れ、床へと広がっていく。

 滴る音が、自分の心から零れ落ちた何かのように思えた。

 

「あ…」


 空はサイドテーブルから落ちていく水を見つめた。


「……なんで……」


 小さく、誰に問うでもなく呟く。

 あのとき、自分が何を言ったのか——はっきりと思い出せない。

 けれど、“違う”という確かな拒絶だけが心にこびりついている。


 ——違う、そんなことが言いたかったわけじゃない。


 そう思えば思うほど、シィロの泣きそうな顔が焼き付いて離れなかった。


「……シィロ……探さなきゃ」


 けれど、体がうまく動かない。

 意識が深く沈み、眠気とも違う重たい靄が脳を覆っていた。

 自分の心が、自分のものでないような感覚だけが、静かに残っていた。


 窓の外に目をやると、夜の帳が世界を淡く包んでいた。

 ふと、脳裏に浮かぶ。


——外に行けば、少しだけでも、自分に戻れるかもしれない。


 空はゆっくりと立ち上がり、そっと扉を開けて、夜の静けさの中に足を踏み出した。


 * * *


 部屋の扉を静かに閉めたとき、廊下には誰の気配もなかった。


 昼間の喧騒が嘘のように、アズールヘヴンの夜はひどく静かだった。

 等間隔に灯る柔らかな明かりだけが、廊下の先をほのかに照らしている。


 空は足音をなるべく立てないように、ゆっくりと歩き出した。


 ——シィロは、もうどこかに戻ってるだろうか。

 ——自分のせいで、泣かせてしまった。


 思考はまっすぐに定まらず、霧の中をさまようようだった。

 けれどそれでも、心の奥にほんのわずかな「焦燥」の熱が残っていた。

 それは、まだ自分が人としての輪郭を保とうとしている証のようにも思えた。


 定まらない思考を抱えたまま、気がつくと空は中庭の前に立っていた。


 中庭は幾つもの樹木が規則正しく並んでおり、川のせせらぎも聞こえてきた。 この場所に至っては施設の中とは思えない様相であった。


 中庭へとつながるガラス扉をそっと押すと、夜の風が肌に触れる。

 ひんやりとして、それでいてどこか優しい空気が草の匂いを運んでくる。


 空はそのまま、植え込みの間を抜けて、木々に囲まれたベンチに向かう。

 そこは中庭で唯一、灯りの影に隠れており、まるで世界から切り離されたような、静謐な空間だった。

 空はベンチに座って、月をただ見ていた。


 ここには、誰もいないと思っていた。


 ——はずだった。


「一人、夜風に当たりたくなったのかのう?少年よ」


 その声は、空の背後から聞こえた。


 振り返ると、そこにはひとりの老人がいた。

 白髪の長い髪と髭。

 茶色の衣装を身に纏い、歳月を刻んだその容貌には不思議な威厳と柔和さが同居していた。

 見覚えはないはずなのに、なぜか“知っている気がする”という違和感が、空の胸をかすめた。


「……貴方は、誰、ですか?」


 自然と出た問いかけに、老人は小さく笑った。


「名前など、どうでもよかろう。お前さんも、そういう気分ではなかろう?」


「……たしかに。今は、そういう気分ではないです」


 少しだけ肩の力を抜いた空の隣に、老人は腰を下ろす。

 空も、その行動を特に何も言わずに受け入れた。


「何か、悩み事があるようじゃのう」


 老人は夜空を見上げながら続けた。


「ここは静かでいい。声を張り上げる者も、せわしない知らせもない。

 ……ひとりになりたい時には、ちょうどいい場所じゃ」


 空はその言葉に応じるように、小さく頷いた。


「俺…取り戻したい人が居るんです…」


 空は、ぽつりと言葉を溢した。


「そのために、アズールヘヴンまで来たのに、何の手掛かりも手に入らなくて、皆にも迷惑かけてばかりで…」


 一度、溢れ出した言葉は止まることがなかった。


「それに……俺、さっき人を傷つけました。何も言わずに、ずっと助けてくれていたのに…」


 空は最後に搾り出すように言った。


「…ふむ。そうか」


 老人はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、夜空を見上げながら、まるで自分の心を空に映すように、静かに座っていた。


「どうして、あんなことを言ったのか、自分でもよくわからないんです。

 あの時は、まるで霧の中にいるみたいで。なのに、はっきり覚えてて……心が、ざらざらして…」


 空の手が、無意識に胸元を掴む。

 その仕草を、老人はちらと横目で見て、再び夜空へ目を戻した。


「なるほど。お前さん、少しばかり“厄介な物”に魅入られているようじゃな」


「……?」


 空が顔を上げると、老人は懐から小さな石のようなものを取り出して見せた。

 それは月光に鈍く光る、複雑な文様が刻まれた護符のようなものだった。


「これは…そうじゃな、おまじないみたいなものじゃ。すまんが、完全に封じることは、どうやら出来そうにないからのう…ただ、”遅らせる”ことは可能じゃろう。そして、今は少年の心の声を守るために、少しだけ、静かにさせておくとしよう」


「……どういうことですか?」


 言葉の意味はよくわからなかった。

 けれど、老人がそれを空の胸にかざすと、不思議と呼吸が深くなったような感覚があった。


 胸を覆っていた霧が、ほんの少しだけ晴れていく。


「……ありがとう、ございます」


「礼などいらん。どうせまた、会うことになるじゃろうて」


 空が顔を上げたとき、老人はすでに立ち上がっていた。


「もう、行かれるんですか?」


「うむ。……月が見えなくなる前にの」


 それだけ言い残して、老人は月明かりの奥へと歩いていった。

 その姿はまるで、風に溶けるように、音もなく消えていった。


 空はしばらくその場に佇んでいた。

 さっきまでの心のざわつきが、嘘のように静かになっている。


 まるで自分の心が、ようやく輪郭を取り戻したような感覚だった。


「……シィロに、謝らなきゃ……」


 ぽつりと、呟いたその声に反応するように——


「空さん!」


 振り返ると、そこには心配そうな顔をしたシィロが立っていた。


「さっきは……酷いこと言ってごめん、シィロにはずっと、助けてもらってるのに…」


 空の言葉に、シィロはぱちくりと瞬きをしてから、ふっと笑った。


「…空さん、何か……ありましたか?先ほどまでとは顔色が、少しだけよくなったような……」


「うん、ちょっと変な……変わった人に、会った」


「変わった人……?」


「うまく言えないけど、なんだか、前より“自分のこと”がわかる気がするっていうか……」


 空の言葉に、シィロは納得するように小さく頷いた。


「それなら、よかったです。……空さん、少しだけ、戻ってきた気がしましたから」


 静かに笑うその目に、かすかな涙の跡がにじんでいた。

 それを隠すためか、シィロは中庭の入り口を指差した。


「晩御飯食べましょう!私、お腹空きましたよ」


 傷付いているはずなのに、そう言って笑ってくれるシィロに深く感謝をした。


「ああ…そうだな、俺も…」


 その時ちょうど、空とシィロのお腹が鳴った。

 タイミングの良さに二人は顔を見合わせて笑った。


「では、行きましょう」


 シィロは「何を食べましょうかねー」と言いながら、中庭の入り口に向かう。


 そのとき、中庭の向こうから足音が響いた。

 そして、姿を見せたのは、レイスだった。


「……ここにいたか、空、シィロ。すまないが、着いてきてくれ」


「……どうかしたんですか?」


「シィロが伝えてあるだろう?ハンゲツ様が空と話たいそうだ」


 その言葉に、空とシィロは視線を交わした。


「レイスさん、非常に言いにくいのですが……先にご飯を食べてもいいですか?」


 空の発言にシィロは耳を疑った。

 そして、レイスの周囲の温度が一瞬低下した。


「……ハンゲツ様との席に、食事も用意させる、行くぞ」


 レイスの声は、決して有無を言わせぬ凄みがあった。


 こうして空は、再び歩き出すことになる。

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