第三話:雨音、ふたりの境界線
放課後。空はひとり、校門を抜けた。
教室を出るとき、伊織に軽く手を振っただけで、特に話す気にもなれなかった。
空は坂道を歩きながら、曇り空を見上げる。
(……さっきの言葉、きつかったな)
昼休みの朝陽の一言が、まだ胸に残っていた。
でも、どこかで彼女の声の奥に、寂しさみたいなものも感じた気がしていた。
(言葉って、むずかしいな……)
頭の中で言い訳みたいな言葉が浮かんでは消える。
ただ「気になってる」って、それだけだったのに。
角を曲がったとき、ふと前方に目を向ける。
(……また)
白いシャツの背中。長い髪が揺れる。
朝陽だった。歩くスピードも同じ。距離は、わずか数メートル。
(やっぱ、近所なんだよな……)
家が近いことは知っていた。
でも、まさかこんなふうに“タイミングよく”また出くわすとは思わなかった。
声をかけようか、迷う。
さっきの言葉がまだ胸に残っていて、足が止まりそうになる。
けれど、彼女の背中が、どこか心細そうに見えた。
空は、少しだけ歩幅を早めた。
「……一人で帰んの?」
声をかけた瞬間、朝陽の背中がほんの少しだけ揺れた。
けれど返事はなかった。空はそのまま、並びかけて歩く。
「朝、悪かった。しつこくしたつもりはなかったんだけど……ごめん」
それでも朝陽は顔を向けない。空は続ける。
「だからさ……無理にとは言わないけど、少しくらい会話しても……」
「……ほんと、こりないんだね」
淡々と返されたその一言に、空は言葉を詰まらせた。
「別に、そんなつもりじゃ……」
「わかってる。あなたは、たぶん悪い人じゃない。でも……そういうの、今は、いらないから」
歩きながら、淡々と告げる声。
それは冷たさよりも、どこか防御のように響いた。
「……いらない、って」
「放っておいてって言ったのに、なんでまだ話しかけるの?」
静かだけど、拒む意志がこもった声だった。
空は何も言い返せず、並んでいた足をわずかに引いた。
そのとき——。
頬に、ひとしずく。冷たい水滴が落ちた。
「……雨?」
空が空を仰ぐ。
いつの間にか雲は低く、重たく垂れ込めていて、さっきまでの明るさは嘘のように掻き消えていた。
ポツリ、ポツリ——そして、突然。
水をこぼしたように空が崩れ、雨粒が激しく地面を叩き始める。
雨に濡れた土の匂いが立ちのぼる。
草の香りと混ざって、夏の匂いがあたりに広がっていく。
空気はひんやりと変わり、肌にまとわりつくような湿気が、世界の輪郭を曖昧にした。
「やばっ……!」
反射的に手を伸ばす。
朝陽の手を、ぎゅっと掴んだ。
「えっ……!?」
驚いた声が背中から聞こえる。
「こっち!」
空はそのまま、朝陽を引いて走り出した。
雨脚が増し、舗装された道に雨粒が跳ねる。
周囲の色がにじみ、足元の世界がぼやけていく。
近くのバス停——古びた木の柱と、小さな屋根だけの雨宿りの場所が見えた。
二人は息を切らしながらそこに飛び込む。
雨は止まない。むしろ激しさを増して、屋根を打ちつけていた。
空は、しばらくその場で呆然と景色を見つめていた。
景色が、まるで水の中に沈んだように、白く滲んで見えた。
その中で、雨音だけが響いていた。
唐突に、静かな声が割り込む。
「……手、放して」
はっとして、空は自分の右手を見た。
まだ、朝陽の手を握っていた。
「あ……ご、ごめん……!」
慌てて手を放す。
何かを掴んでいた感触が、急に消えていく。
でも、その分だけ、指先に残るぬくもりが妙にくっきりとしていた。
(……何してんだ、俺)
ようやく息が整い始めた頃、空はちらりと横を見る。
朝陽は何も言わず、濡れた前髪を耳にかけながら、雨の向こうをじっと見つめていた。
雨が、屋根を叩く音。
濡れたアスファルトにしぶきが広がる音。
そのすべてが、ふたりの間に静かな境界線のように存在していた。
遠くで、濡れた電線がきしむような音がした。
風が強くなり、バス停の屋根を吹き抜けていく。
「……悪かったな。なんか、また勝手に」
空がぽつりと呟く。
けれど朝陽は、それにすぐ応えず、少しの間を置いてから、小さく口を開いた。
「……雷、鳴るかもね」
「え?」
「……あんまり好きじゃないの。音が苦手で、昔から」
その声は、かすかに揺れていた。
さっきまでの拒絶とは違って、どこか素直さが混ざっていた。
(……どうして、この人は、こんなにまっすぐなんだろう)
朝陽はちらりと空を見たあと、すぐに視線を逸らす。
けれどその一瞬のまなざしが、妙に胸に残った。
「……俺も、ちょっと怖い。音が響くとさ、空が割れそうで」
「ふふ……空が割れる、か。名前みたい」
朝陽が、ほんのわずかに笑った。
その表情に、空は思わず息を止めた。
ほんの一瞬――けれど、たしかに笑った。
この町に来てからの彼女の顔の中で、いちばん柔らかい瞬間だった。
雨はまだ降り続いている。
でも、その音は、さっきよりもやさしく響いていた。
湿った風が頬をなで、濡れた土と草の匂いが胸に残る。
空はポケットに手を入れた。
かけらが、そこにある。小さな粒のような、不思議な存在。
ひんやりとしたそのかけらが、まるで今日の出来事を全部見ていたかのように、少しだけ熱を帯びていた。
空は静かにそれを握りしめる。
——静かな雨音が、ふたりのあいだに引かれた境界線を、少しずつ、静かに溶かしていく。
それが“始まり”だったことを、まだ誰も知らない。
第一章完結です。