第三十五話:記録の塔
少し調整しました。
空はゆっくりと部屋の中央に戻り、備え付けのベッドに腰を下ろす。
ふかふかというよりは、硬めのマットレスだったけれど、それが逆に心地よい。
ポケットに手を入れ、シィロから受け取ったスマートフォンを取り出した。
電源は入る。
けれど、画面の右上には、やはり「圏外」の文字。
「……まあ、そうだよな」
思わずひとりごちて、画面を消す。
誰かと繋がるための道具なのに、ここではまるでただの鏡のようだ。
黒く反射するその表面に、ふと、自分の顔が映る。
目の下にはうっすらと影が落ちていた。
(疲れた顔してるな…)
手にしたスマートフォンをサイドテーブルに置いてベッドで横になる。
空はシィロを待つ間、少しだけ休むことにした。
纏まらない思考を誤魔化すように瞳を閉じて、心を無にする。
10分もしないうちに意識は沈んでいった。
——空は夢を見た。
薄暗く、ただ広い空間。
目の前で誰かが泣いている。
声を掛けようと進もうとするが足が動かない。
見下ろすと、足には靄が纏わりついていた。
特に痛みはないが、空は怖くなってしまい、手で靄を払おうとした。
しかし、靄は消えることはなく、払おうとした手にも移った。
そうして、じわじわと靄は全身に拡がっていく。
目が覆われる瞬間、空は目の前を見たが泣いていた誰かはいつの間にか、消えてしまっていた。
それを確認したところで、靄は空の全身に達した。
———ゴォーン、ゴォーン…
「…はっ!」
施設全体を揺らすような大きな音により、空はベッドから飛び起きた。
夢の余韻はまだ、空の背中に残っていた。冷たい汗が、現実の感触を連れ戻していく。
「この音は…? …あの、エクシウスの音、か」
大きな鐘のような音は、未だに鳴り響いていた。
無関係だと思いながらも、先ほど見た悪夢を遮ってくれたような気がしてならなかった。
空はテーブルの上の水差しに手を伸ばし、震える指でコップを持ち上げた。ひと口飲むと、冷たい水が喉を通って、わずかに現実に戻った気がした。
そして、同じくスマホを手に取って、時間を確認した。
(30分くらい…経ってる)
スマホを戻して、もう一度水を飲むと部屋の扉がノックされた。
「空さん、報告も終わりましたので、ご飯を食べに行きましょう!」
「ああ、ちょっと準備するよ」
空は横になったことで乱れた服を手早く直した。
扉を開けて外に出る。
空を見たシィロは怪訝な顔をした。
「あれ?空さん、何かありました?」
「いや…ちょっと寝てて、嫌な夢を見ただけだよ」
「色々ありましたからね…もう少し休まれますか?」
心配そうな顔に変わるシィロ。
「いや、行こう。相談、したいしね」
「…わかりました。疲れたら言ってくださいね」
シィロは頷いて、食堂への道を進む。
* * *
部屋を出た頃には鐘の音は止んでいた。
空はシィロの後について、静かな廊下を歩いていく。
宿泊施設の内部は、外からの印象よりもずっと広く、入り組んでいる。だが、シィロは慣れた足取りで迷う様子もなく先を行く。
歩きながらも、空はまださっきの夢のことが頭から離れなかった。
泣いていた人影。靄に包まれて、最後には何も見えなくなった自分。
あのまま、あの鐘の音で起こされなかったらどうにかなってしまったのではないかと考えてしまう。
(…馬鹿みたいな話だな)
ただ、胸の奥に鈍い違和感が残っていた。
「空さん、大丈夫ですか?」
シィロが立ち止まって、心配そうに振り返る。
「あ、うん。ちょっと考え事してただけ」
「顔、少しこわばってますよ。……無理はしないでくださいね」
空は笑ってうなずいたけれど、シィロの気遣いがほんの少しだけ、心に沁みた。
やがて、廊下の突き当たりに重そうな扉が現れた。
シィロが手をかけて開くと、ふわりとした匂いが空の鼻をくすぐる。
「ここが食堂です」
扉の向こうには、円形の広い空間が広がっていた。
壁は半透明の素材でできていて、淡い光がぼんやりと内部を照らしている。
テーブルと椅子がいくつも並び、数人の記録者たちが賑やかに食事をしていた。
彼らは空たちに気づくと、誰かが何かを呟いて、すぐに会話をやめて食事を黙々と食べ始めた。
まるで、空たちを避けるような雰囲気に少し嫌な気分になった。
「こちらにどうぞ。まだあまりお腹が空いていないなら、スープやパンだけでもありますよ」
シィロは気にすることなく、空をカウンターの方に案内すると、慣れた手つきで食事を選び始めた。
空もスープとパンをもらって、窓際のテーブルに腰を下ろす。
スープをひと口すすり、ようやく落ち着いた気がした。
「……なんか静かだな」
ふとこぼした空の言葉に、シィロは小さくうなずいた。
「…いつもはもっと賑やかだと思いますよ」
何処か他人事のように言って、食事を口に運ぶシィロ。
「どういうこと?」
「あ、いえ。私が食事に来る時間は皆さんとずれているので、いつも静かなんです…ですので、人が多ければ賑やかなはず、と言うことですよ」
シィロは誤魔化すように笑った。
「そうなんだ…ちょっと寂しい気もするな」
「最初は、私もそう思ってました。でも……静かな時間って、時には落ち着くんですよ」
その言葉を聞いて、空はふと、昔、朝陽と一緒に過ごした昼休みのことを思い出した。
屋上で、ふたりで並んで座って、何も話さずに空を見上げていた時間。
(そうだ。……あのときも、何も言わなくても、なんだか安心してた)
スープをひと口飲むと、体の芯までじんわりと温かさが染みていった。
「……ありがと、シィロ」
「え?」
「ちょっとだけ、落ち着いた。ほんとに、ちょっとだけだけど」
シィロは少し照れたように笑って、「よかったです」と小さく言った。
「あ、でも、空さんの家、天音家の…あの賑やかな感じ。私は結構好きですよ」
「なんだかもう、恋しいよね」
そして二人は懐かしそうに更に笑った。
* * *
周囲の記録者は食事を終えるとすぐに去っていき、食堂に残っているのは空とシィロだけとなった。
空は最後のパンを口に運びながら、窓の外をぼんやりと見つめていた。
淡い光に包まれた空間は、静かで、どこか遠い世界のようだった。
シィロもスープを飲み終えると、カップを両手で包み込むように持ちながら、黙って空の隣に座っていた。
「……シィロ」
空が口を開いた。声は小さいが、はっきりとした意志がこもっていた。
「朝陽を取り戻す方法なんだけどさ、今のままじゃ……何をしたらいいかも分からないよな」
シィロはしばらく黙っていた。
やがて、小さく首を傾げるように言う。
「そうですね…私も探してはいますが、有用そうなものはまだ見つかってはいません。ですが、記録に、何か痕跡が残っていれば、辿れるかもしれません。でも……」
「でも?」
「おそらく、朝陽さんの存在そのものが、“世界の記録”から消されているんだと思います。だから、他の人の記憶にも残っていない」
空は目を伏せた。
それは、彼が一番恐れていたことだった。
「じゃあ……もう、どうしようもないってことなのか……?」
「いえ。少なくとも、空さんの記憶は消えていません。だから…諦めたくありません」
シィロははっきりとそう言った。
その瞳には、微かに揺れる光が宿っていた。
「“記録”としては消されていても、何かしらの“痕跡”が、どこかに残っている可能性があります。完全に消された記録であっても、その“名残”が深層に沈んでいることが、稀にあるんです」
「深層?」
「そうです。空さんも“記憶の塔”に行きましたよね。あそこは、完全ではありませんが、記録の奥にある“存在の根”に触れるような場所なんです。そこでは、世界が忘れたはずの“誰かの記憶の残り香”を感じ取れることがあると、古い文献にありました」
「それって……記録じゃなくて、“記憶”の層ってこと?」
「はい。ただ……正直に言えば、それも可能性の一つにすぎません。確かな保証はないんです」
空は目を閉じた。
瞼の裏には、あの夢に現れた泣いていた誰かの姿が浮かぶ。
(あれが、朝陽だったとしたら……)
空はしばらく黙っていたが、やがてゆっくりと息を吐くと、真っ直ぐにシィロを見た。
「でも、行ってみる価値はあるよね」
「……はい。私もそう思います」
「ありがとう、シィロ。……案内してもらえる?」
「もちろんです!準備が整い次第、行きましょう。“記憶の塔”へ」
シィロは即座に答えた。
外を見ると食堂の窓から差し込む光が、だんだんと柔らかく、夕暮れ色に染まり始めていた。
* * *
食堂を出た二人は、薄く暮れ始めた光の中を進んでいた。
施設から出た後、本部の中、塔へと続く通路は以前と同じはずなのに、空にはどこか違って見えた。
重たく沈んだ空気の中に、ただ一つの希望を探しに行く——そんな気持ちが、足取りをゆっくりと重くさせる。
シィロはその隣で、無言のまま寄り添うように歩いていた。
「…前に来たときは、何もわからなくて、ただ圧倒されてただけだったけど……今は違う。怖いけど、それでも確かめたいんだ」
「空さんの中に、朝陽さんの痕跡がある限り、きっと辿れると信じています」
シィロの言葉に、空は小さく頷いた。
やがて、昇降機の扉が、音もなく横に開く。
そこは、見覚えのあるはずの巨大な回廊なのに、どこか違って見えた。
高い天井、星空のような光がきらめく壁面。
幾重にも積み上がる“記録の書”たちが、深い静寂のなかでかすかに揺れていた。
そして、その中央に——
蒼い光を帯びて、ひときわ高く伸びる塔が、再び空の前に姿を現した。
記録の塔。
(戻ってきた…)
前回とは違う。
今回は、自分の“記憶”を手がかりに、朝陽を探すために。
「……やっぱり、すごい場所だな」
空の呟きに、シィロが小さく笑った。
「きっと、記憶の中の“真実”はここに眠ってます。……行きましょう、空さん」
「うん」
扉の前で、空は深く息を吸い込んだ。
——朝陽を思い出すために。
——存在の痕跡を、確かに手繰り寄せるために。
空は小さく頷いて、静かにその扉をくぐった。
* * *
石造りの回廊に足を踏み出すと、足音が吸い込まれるように消えていく。
ただ空気だけが微かに震えていた。
以前に増して壁にある光の文字列が、それぞれ微かに瞬いていた。
「何処から探したらいいと思う?」
空が尋ねると、シィロは少し考えてから答えた。
「このフロアは願いと代償の記録が主になっています。今回、私たちが探しているのは記憶の奥、深層ですので、内部のフロアに向かうほうが良いと思います」
「わかった、そうしよう」
頷いて塔の入り口へと歩き出そうとした。
『——そこから先へは、行けません』
突然、声だけが響いて、空間が凍りついたように静まり返った。
次の瞬間、淡い光の中に、白銀の髪、琥珀色の目を持つ少女——剪定者。記録するべき“記憶の残響”を識別し、選択、そして剪定する者。が現れた。
「……貴女は……」
「剪定者……?」
二人はその姿を見て、わずかに息を呑む。
彼女は二人の頭上に浮かび、微動だにせずこちらを見下ろしていた。
『深層に繋がる領域は、記憶と時間が錯綜しています。私や記録者なら別ですが、ただの人間である、空が記憶に触れると、精神的に影響が出ます』
「そ、そんなことが…」
シィロは目を見開いて慌てている。
「…俺はそれでも、構いません。このままだと朝陽を取り戻すこともできない」
『そうであれば、尚更、慎重になるべきでは?』
剪定者は感情の篭らない表情で続ける。
『あなたが成し遂げたい先にはあなたは不要なのですか?』
「!…それは」
『シィロ。貴女もです。見習いだとしても深層の危険性を知ることはできたのでは?』
剪定者はシィロに目線を移すと切るように話した。
「…ごめんなさい」
『わかっていただけたなら良いです』
剪定者は良いと言いながらも、そこに感情は感じなかった。
「…なら、深層は、朝陽は諦めろって言うんですか!」
空が剪定者を睨むように言った。
『違います。私が行きましょう、空の代わりに”アーカイブに接続する”、それも私の仕事です』
剪定者の表情は全く変わることなく、ただ当たり前の事を言うようにそう告げた。
「…いいんですか?」
『何が“いい”のですか?——私の目的は、空の願いではありません。“記録の最適化”です。それだけです』
それでは、と言い、剪定者は塔の内部に入っていった。
二人はその機械的な行動を呆然と見送った。
「…空さん、ごめんなさい、そんなに危険だとは…」
「い、いや…うん、俺もごめん。少し考えなしになってたかも…」
「剪定者が戻ったら、謝らないとですね」
「…うん」
二人は頷き合うと、剪定者の帰りを待つことにした。




