第三十二話:闇との攻防
少女は歩み寄る。
ゆっくりと、けれど確実に。
ノエリウムが熱を帯び、まるで何かから守ろうとするように震え続ける。
「ソラの“想い”は特別。誰よりも、強くて、透明で、綺麗だった」
《トガビト》の声は囁きのようで、それでいて耳にこびりつくような異質な響きを持っていた。
「だから、お願い、ソラ——ワタシに、なってよ」
《トガビト》はふわりと笑った。
それは、ミミの姿をしたままの、禍々しくもどこか哀しげな微笑みだった。
「…に、げ」
倒れている記録者が小さく呟いた。
「ソラの想い、記憶、願い、全部ぜんぶ……ワタシの中に溶けて、ひとつになれば、きっと、もっと綺麗な世界が作れると思うんだ。壊れてもいいよ。変わってもいい。全部、意味のあることになるから」
「それは……」
空の声がかすれる。
足はすくみ、視線を外すこともできない。
「それは……違うだろ……!」
叫んだ。
自分でも驚くほどの声量だった。
けれど、それだけが、唯一の抵抗だった。
「想いってのは、誰かに奪われるもんじゃない!
記憶は……感情は……誰かのためにあるもんじゃない……!
自分の中で、大切にするものなんだ!」
叫びに反応するように、ノエリウムの光が強くなる。
《トガビト》の瞳に、初めて明確な「怒り」が宿った。
「——なら、証明してよ。抗ってよ。ソラ。その想いが、本当にワタシより強いってことを!」
《トガビト》の足元から闇が爆ぜる。
地面を這っていた黒が一気に膨れ上がり、無数の手のようなものが空に向かって伸びてくる。
「やめろ!!」
空が少女に叫んだ瞬間——
凄まじい音や風と共に、眩い光が弾けた。
黒い手が触れる直前で、閃光に焼かれて霧散する。
「…?…ノエリウムが守ってくれたのか…?」
空は今の光景が信じられず、手にしたノエリウムを覗き込む。
《トガビト》は目を細めて、興味深そうに呟いた。
「……やっぱり、すごいな。ソラのノエリウム。とっても、綺麗」
だが、すぐにその顔に、ねじれた笑みが浮かぶ。
「だからこそ……壊す価値があると思わない?」
再び、闇が渦を巻く。
地面に空いた巨大な穴の奥——深淵が、不気味に唸ったような気がした。
空は、ノエリウムを握り直す。
選ばなければならない。
進むのか、逃げるのか。
想いを守るのか、奪わせるのか。
その答えが、この瞬間に問われている。
* * *
「レイスさん!ありました!こちらです!」
手掛かりを見つけた二人であったが、ノエリウムの痕跡は今にも消滅してしまいそうなほど、微かなものであったため、追跡も慎重にならざる得なかった。
もう少し、と言うところまで来ているのに、思うように進めないことに焦りを抱く。
「レイスさん、急ぎましょう!」
「…わかっているが、焦るな、シィロ」
「ですがっ!」
「恐らく、この行き先にはトガビトがいる。しかも危険なトガビトが…少年が心配なのはわかるが、焦りで道を違えるわけにもいかないだろう?」
レイスの言葉を歯噛みするシィロ。
焦ることの危険と間に合わなかったらという考えの板挟みになっていた。
だが、一人先行したとしても、最良の結果にはならない可能性が高いことも理解しているため、強く出ることもできない。
そのとき、目指す先で空間が軋むような音がした。
異変の中心から、強烈な“光”が一閃、天を衝いたのだ。
風が逆巻き、木々が悲鳴のようにざわめく。
——これは、ノエリウムの光。けれど、自然なものじゃない。
シィロの脳裏に、ふと最悪の光景がよぎる。
(もしも空さんが、もう……)
思考をかき消すように、光が発生した方向に、地面を強く蹴った。
「…空さん!」
「待て、シィロ!」
後ろからレイスの声が届くが速度を緩めることはなかった。
シィロの靴音が乾いた地面を叩く。
細い枝が顔にかすり、砂煙が視界を霞ませるが、それでも構わなかった。
彼女の中にあるのは、ただひとつ——間に合え、という願いだけだった。
(空さん……っ、どうか……!)
やがて、森の終わりが見えてきたため、シィロは更に速度を上げた。
身体が追いつかなくても、想いだけは先に——そう信じて。
そして、次の瞬間——
「空さん!!」
幻影の森の先。
その開けた場所で彼女は見た。
黒い闇に呑まれかけた少年と、禍々しい影を纏う《トガビト》。
ノエリウムの光が、今にも消えそうなほど揺らいでいる。
「下がって!!」
シィロは懐から対トガビト用の護符を取り出し、迷いなく放つ。
それが触れるや否や、《トガビト》の周囲の闇が一瞬、弾けるように後退した。
「……へぇ…」
ミミの姿をした《トガビト》がこちらを向く。
人の顔をしていた。
けれど、その双眸には人の温度がなかった。
まるで「玩具を見つけた子ども」のように、それはシィロを見ていた。
「間に合って……よかったです……」
シィロは空のもとへ駆け寄ると、彼を庇うように、ナイフを真っ直ぐ構えて立った。
「後は…任せてください」
その声は震えながらも、決して屈しないという気持ちが込められていた。
シィロの後ろ姿に、かすかな安堵が浮かぶ。
そのとき、背後からもう一つの声が届いた。
「その通りだ。少年下がっていろ」
——レイスが、空気を裂くように現れた。
その手には、深い青に光る長杖のような“封具”が握られていた。
空気が凍てつく。霜が地面を這い、レイスの周囲から世界が凍りついていくようだった。
「ここから先は、我々の役目だ」
深く静かに、しかし確かな怒りと覚悟を込めた声。
風が吹き抜ける。
空が、ふとノエリウムを見下ろした。
それは、役目を果たしたかのように、静かに佇んでいた。
(……ありがとう)
誰にともなく、心の中で呟いた。
——どういたしまして。
何処からか、声が聞こえたような気がした。
* * *
空を庇うように立ち塞がるシィロと、その隣に現れたレイス。
対峙するミミの姿を纏った《トガビト》は興味深そうな瞳で二人を眺める。
その場には、奇妙な静寂が流れていた。
「……ふふ、間に合って、よかったね、ソラ」
ミミの口元が緩む。けれど、それは笑みではなかった。
人の形をしていながら、そこにあるのは“人”の感情とは違う何か。
「あなたたちは、ソラを守るの?」
「当然です」
シィロが応じる。ナイフの切っ先を真っ直ぐミミに向けた。
「…それにうちの記録者もな」
レイスが長杖を振り翳すと、地面に倒れたままの記録者たちとミミの間に氷で出来た厚い壁が生成された。
「そっちも…?そっか。でも邪魔するなら、壊してもいいよね?」
——瞬間。
ミミの身体が、黒い残像と共に宙を跳ねた。
すさまじい速さ。視界を歪ませる闇の軌道。
シィロが紙一重でかわし、ナイフで追撃を切り払う。
「っ、この動き……!」
「無軌道。読みづらい。感情のままに動いているな」
レイスが冷静に分析する。
「そっちからは来ないのかな?」
ミミの身体がブレると、再び残像と共に攻撃。
今度は奇跡的にシィロのナイフがミミの顔に掠った。
「……!」
ミミは大袈裟に顔を手で多いしゃがむ。
「…当たりました!」
「喜ぶな…致命傷には程遠い…」
レイスは警戒を続ける。
「…酷いよ、しろ…どうして、こんなことするの?」
「…あかり…?」
ミミのほうから発せられる声に後ろにいる空が耳を疑う。
「ねえ、どうしてそんな顔するの?」
ミミが、空の方を見る。
その瞬間、空は目を見開いた。
聞き慣れた声。
それは妹の声だった。
けれど、そんなはずはない。
目の前にいるのはミミだ。
ミミが模倣する。
空の中にある記憶を、感情を、まるで玩具をなぞるように。
「空さん、ダメです!見ないで!」
シィロが駆け寄り、空の前に立ち塞がる。
「これは“感情の毒”だ。意識を奪って取り込もうとしている…間に合うか…!?」
レイスがすぐさま封具を地面に突き刺す。
その瞬間、青白い光の結界が展開され、空を中心に結界が広がった。
「お兄ちゃん…しろがいじめるよ…皆がいじめるよ…」
ミミの身体が闇に覆われて、あかりの姿となって現れる。
「お兄ちゃん…助けてよ…」
ミミがあかりの姿で涙を流す。
「…あかり!大丈夫か!」
空があかりの方へ進もうとする。
「ダメです!空さん!それはあかりさんではありません!」
「少年!気をしっかりと保て!」
やがて、結界の壁にまで到達した。
目の前の壁に阻まれた空は、レイスを睨む。
「これを消せ!あかりが泣いてる!」
レイスやシィロを睨みながら叫ぶ。
「空さん!辞めてください!」
ミミはあかりの姿を保ったまま、空に近づいていく。
「…許せ!少年!」
レイスは封具を空の方へ向けて、空の周囲を急激に冷やす。
冷気により、強制的に空の意識を落とした。
「…あれれ?つまんないの…」
ミミは不満そうにあかりの模倣をやめた。
「あなたは何がしたいんですか!」
シィロはミミに対して声を荒げる。
「何だと思う…?いいか、ワタシはソラと一つになるの!ソラになって、全部壊して、また作るんだ!良いでしょ?」
「…ふ、ふざけないでください!空さんなるなんてさせません!」
「…どうだろうね?ふふ」
「どういう意味だ…?我々がここにいる今、簡単には事は運ばないぞ?」
レイスは慎重に言葉を紡ぐ。
「さあね!なんだろうね!当ててみてよ!」
ミミは楽しそうに、闇を使って周囲を手当たり次第攻撃する。
レイスが作った結界にも当たり、弾かれる。
「このままじゃ、地面が崩れそうです……!」
闇が地面にも侵食。
大地が震え、重々しい音が響く。
それでも、ミミは笑っていた。
「まだだよ!これからなの。もっと光が、もっと想いが……!」
「シィロ!距離を取れ。包囲して動きを封じる」
「わかりました!」
レイスは舌打ちして、封具を構え、大気の流れを掌握するように周囲を結界で覆っていく。
二人は呼吸を合わせるように動く。
ミミは闇を爪の形にして突進してきた。シィロが護符で牽制、レイスが氷の鎖を繰り出す。
「あはははは!無駄だよ!!」
だが、その言葉は風に消える。
レイスが静かに呟いた。
「——封印・弐式、冷界の結び」
封具から放たれた鎖が、空間を断ち切るように飛ぶ。
ミミの身体は縛られて、ミミを中心に大地に亀裂を走らせた。
「……あれ?何をしたの?」
ミミが身動きが出来ない身体を見て不思議そうに首を傾げる。
「やりましたね…レイスさん…」
「ああ…やつの口を封じれないのが悔しいがな…」
ミミは、氷の鎖に縛られたまま、目を瞬かせた。
「……ふうん。こういうのも、悪くないかもね」
ふと、微笑んだ。
さっきまでの狂気とは少し違う、それはまるで、別れを惜しむような、ほんの一瞬だけ“少女の顔”だった。
「でも、ここまでにしておくね。まだ、終わらせたくないから」
鎖を引きずったまま、足元の地面を見下ろす。
「また、会えるでしょ?ソラ。……次は、もっと近くで」
そう言って、ミミは自ら一歩、踏み出した。
地面が崩れる。深い奈落へと、その小さな身体が飲まれていく。
最後に響いたのは、どこまでも無邪気で、どこまでも禍々しい声。
「——またね!ソラ!」
その瞬間、あたりを包んでいた闇がふっと引いた。
まるで最初から、そこに何もなかったかのように。
あたりに、異様な静けさが広がった。
誰も、しばらく口を開かなかった。
そして、
「……空さん、しっかりしてください!」
シィロが駆け寄る。レイスが結界を解き、氷の残滓が宙に舞った。
空がゆっくりと目を開ける。
「……あれ……」
視界の先。崩れた地面の縁で、何かがこちらを見ていたような気がした。
——気のせいかもしれない。
でも確かに、あの「またね」という声だけは、耳の奥に、深く、深く残っていた。
レイスが封具を背に回し、空のそばに膝をつく。
「少年、大丈夫か?」
空はゆっくりと頷く。その瞳に映るのは、まだ揺らぐ光。
「…とりあえず、何とかなりましたね…」
シィロも空のそばに膝をついて、安堵の表情を浮かべる。
「…ありがとう、シィロ。レイスさんも…」
レイスは静かに息を吸い、目を伏せた。
その瞳に、わずかな安堵の色が浮かぶ。
だが次の瞬間、声を荒げた。
「愚か者!少年が勝手な行動をしたことで、どれだけ周りに迷惑をかけたと思っている!どうしてこんなことをした!」
「…う…ごめんなさい、レイスさん…」
「私に謝ってどうする!お前が本当に謝るべき相手が、目の前にいるだろう」
「…ごめんなさい、シィロ」
「……ほんとですよ。しんぱいしたんです、ずっと……」
声が震え、次の言葉が続かなかった。
シィロの目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
「無事でよがっだぁああ」
シィロは空に抱きついて泣き始めた。
「ごめんな…シィロ」
空は躊躇いがちにシィロの頭を撫でた。
「で?どうして脱走したんだ?」
レイスは立ち上がり、腕を組みながら空に尋ねる。
「……ミミ、いえ、あのトガビトが言ってたんです。夜中に牢に来て……“記憶の祭壇”という場所で、朝陽の残響を見たって。崩れていってるって、記録者が話してたって……」
「…少年はそれを信じたのか…?」
「はい…それで居ても立っても居られなくなってしまって…」
「はぁ…それだけ大切な存在だということか…まぁ、わからんことはないがな…」
レイスは呆れながらも、理解を示した。
「だがな、少年。我々がその少女の情報を得て、少年に話さないわけがないだろう、程度はあるが記録者は記憶や想いを大切にしている。みくびってくれるなよ?」
「はい…ごめんなさい…今後は決してないように気を付けます…」
「わかれば良い…さて、帰るぞ、シィロも良い加減、泣き止め」
まだグスグスと泣いているシィロにレイスは叱咤する。
「…はいぃ」
シィロは空の服で、涙を吹いて、鼻を噛むと立ち上がった。
涙や鼻水に塗れた服を見下ろして、空は固まった。
その一幕を見て、レイスは小さく笑った。




