第三十一話:記憶は、名を呼ぶ。
静寂の森の奥。
誰の目にも触れない場所で、一人の少年が立ち止まっていた。
———。
白い光が、風に溶けるように漂っており、その光はどこか懐かしく、優しい残響を持っていた。
「…どうしたの?ソラ」
「……誰かに呼ばれた気がしたんだ」
空は呟くように言った。
手のひらに握られたノエリウムは、静かに脈動する。
「…アサヒかもね?」
ミミは笑いながら空を見る。
少し前に感じた違和感はもう見当たらない。
「そうだったらいいな……なぁ、後どれくらいで着きそうなんだ?」
「んー……あ!見て見て、出口!森を抜けたら、きっともうすぐだよっ」
ミミが前方、森の終わりを指差した。
「行こう!ソラ」
空の方を振り返って手を握って走り出した。
* * *
幻影の森を抜けた先。
突然、目の前が開けた。
そこには、剥き出しの岩肌が広かった無音の岩場が広がり、その中央に、ぽっかりと巨大な“穴”が空いていた。
穴の縁に立った空は、思わず息を呑む。
光は、底へ届いていない。
黒一色の深淵。
吸い込まれるような暗黒が、まるで生き物のようにうごめいている錯覚すら覚える。
「…この下……ここが“記憶の祭壇”。アズールヘヴンの、いちばん奥だよ!」
「……ここ、が…?」
空が、かすれた声で呟いた。
ノエリウムが手の中で微かに震え、何かを訴えるように脈動する。
「この下にどうやって……降りるんだ?」
足元が吸い込まれそうな錯覚に襲われてしまい、視線を落とすことすら恐ろしくなる。
「うーん……飛び込んでみる……?」
ミミは空に笑い掛ける。
その声は、冗談のように響く。
だが、空気は凍るように冷たい。
「…バカ言うなよ…自殺行為だ」
「そうだね…とりあえず、降りるにしても、深さを見てみないとだよね!」
ミミがそう言うと、突然、空の横で何かを引きずるような音がした。
何の前触れもなく、そこに“人間の身体”が二つ、地面に転がっていた。
着衣は記録者の制服。血は出ていないが、意識はないように見える。
「!!!」
空は絶句した。まるで、それが最初からそこにあったかのように——現れた。
思考が停止して、空は固まってしまう。
「どうしたの、ソラ?びっくりしちゃった?」
「そ、その人たちは…?」
「ああ…これは本部にいた記録者だよ!ソラを捕まえていた悪い人たち!」
「……どうして、ここに?」
「……どうしてだったかな…?」
ミミは、まるで子どものように笑った。
「…もしかして、殺したのか…?」
ミミはきょとんとした顔をして、地面に転がった記録者を見る。
「………?この人たちがいなくなると、ソラは困るの?」
ミミが記録者を蹴飛ばすと、少しだけ動いた後、苦しそうにうめいた。
「たぶん、生きてるよ。良かったよね?」
「………その人たちをどうする気だ、ミミ…」
「んー…悪い人だからここから落としてみようと思ったけど…ソラはどうしたいの?」
ミミは無邪気に近くの記録者を踏み付けながら、空に尋ねる。
「…ミミと同じ記録者だろ…仲間を傷付け「どうして?」
ミミは首を傾げながらも踏み続ける。
「…え?」
「ねぇソラ、人間って“悪いことをしたら罰せられる”って言うよね? この人たちは、ソラに悪いことをした。じゃあ、罰せられるべきじゃないの?」
ミミの瞳はいつもと同じ形をしているのに、どこか別のものが映っている気がした。
「…でも、だからって傷つけたり殺したりしていいわけじゃない」
「じゃあ、どうするの?傷つけるって何?殺すって?痛いの?怖いの?ねぇ、ソラ、教えてよ。どこまでが良くて、どこからがダメなの?」
一瞬、何を問われているのか理解できなかった。
空にとっては当たり前のことであったが、目の前の少女には理解ができないようであった。
少女はただ無垢に、知識を求めるように見えるが、その足元では記録者の身体が踏まれている。
「ねぇソラ、知ってる?記録者は観測者。でも、記録するだけじゃ何も変わらない。変えるには、行動しないといけないと思うんだ」
ミミは足元にいる記録者を一瞥した。
「ソラの想いの力はとても強いの、だから、ワタシ欲しくなっちゃったんだ」
鼓動が速くなる。
目の前の少女が“本当に誰なのか”、空は一瞬わからなくなった。
「……」
ミミは微笑んだまま、空の目をまっすぐに見つめていた。
「ねぇ、ソラ。ワタシね、最初はただ見ているだけだったんだよ」
その声は、確かにミミの声だった。
けれど……どこか、音の端が揺れていた。
まるで別の何者かが、口の裏側から囁いているように。
「見てるだけって、つまんないよね。記録するだけって、意味ないよね。だから、ボク、思ったんだ。——壊してしまえば、全部ボクのものになるって」
ゆっくりと、まるで人形が糸を引かれるように、ミミの首が傾く。
その角度は、明らかにおかしかった。
肩まで届く髪が首筋に貼りついたまま、少女は微笑んでいた。
「……ミミ?」
空の声が震える。
それでもミミは笑っていた。
ひどく楽しそうに、まるでこれから素敵な遊びを始める子供のように。
空は後ずさった。
目の前の少女は、笑っている。
それは「ミミ」の顔をしていた。でも——あれは、ミミじゃない。
「ねぇ、ソラ。さっき“殺す”って言ってたよね。あれ、どんな意味?」
少女の声が、ゆっくりと、掠れるように低く変わっていく。
ミミはしゃがみ込んで、足元に転がっている記録者の手首に手を伸ばした。
バキィッ——鈍い、骨の砕ける音がした。
掴まれた記録者の腕は不自然にひしゃげていた。
肘から下が、逆関節に折れ曲がっている。
「ああああ!!!」
意識を失っていた記録者が痛みで意識を取り戻した。
「……っ!」
空が息を飲むと、ミミはそれに気づいたように、もう一度笑った。
その笑顔は、先ほどまでの無邪気なものではなかった。
「いたいって、こういうのかな……?」
ギチギチと音を立てながら、ミミは曲がった手首をぶらぶらと振った。
記録者の腕を離して、今度は髪をわしづかみにする。
「…や、やめ…」
髪を掴まれた記録者が声を上げて、身を捩る。
「——人間の身体、なかなか面白いよ。人間って、こうやって壊れるんだねぇ」
少女の声は、どこか愉しげだった。
けれどその目には、何の光もない。ただ、冷たい闇だけが渦巻いている。
「ミミ……お前、誰だ……?」
空の問いに、少女は一瞬、首を傾げる。
「だれ……? うーん……そういえば、そうだよね。名乗ってなかった」
にぃ、と裂けるような笑みを浮かべて、ミミは口を開いた。
「ワタシは《トガビト》、ソラが地球から連れてきてくれたトガビトだよ。あのときは名前も形も、もちろん自我もなかったけど、欲しかったんだ。誰かの記憶に残る、意味が——存在の証が。だからね、作ったんだよ。“ミミ”っていう子を。かわいくて、素直で……ソラのそばにいられるような存在を。」
ふと、空はミミの足元に“影”が伸びているのに気づいた。
それは太陽とは逆の方向に、不自然に。
地面に吸い込まれていくように、靄のような黒が滲んでいた。
見る間にその黒は、ミミの身体から染み出すようにじわりと広がっていく。
そして、ミミ――トガビトはふわりと立ち上がった。
「…ああ、そうだった。さっき質問だけど…見張りは、持て余したから、持ってきちゃった。でも頑張ったんだよ?誰にも邪魔されないように、ちゃんと“黙ってもらった”んだ!
だって、ソラにバレたら困るでしょ?ワタシがミミじゃないって」
ミミは思い出したように、そして嬉しそうに話をする。
空の脳裏に、あの夜の出来事がフラッシュバックする。
真夜中、ひっそりと牢に来た理由——あれは空を「助けるため」じゃなかった。
すべて、“ソラを連れ出して、取り込む”ためだったのだ。
「ソラ。ワタシはずっと探してた気がするんだ。“想い”の強い人を。
その力を、自分のものにしたくて……ずっと、ずっと——」
そのとき、ミミの身体から一際大きく、黒い靄が溢れた。
靄は空気を歪めるほどに濃くなる。
まるで、感情に呼応するように。
やがて、その中で、少女の輪郭は少しずつ溶けていくように揺らめいていた。 それは“現実”の皮膚を脱ぎ捨て、本来の姿に還ろうとしているかのように見えた。
「——ねぇ、ソラ。一緒になろ?全部壊そ?ワタシと。ね?
他のノイズなんて、もう要らないよね……?」
トガビトが、歩み寄ってくる。
足元には、ぐったりとした記録者たちの体が、影のように横たわっている。
空の心臓が、恐怖に軋んだ。




