第二十六話:境界を超えて
——空とシィロが扉に飛び込んだその一歩は、まるで世界の境界線を踏み抜いたかのようだった。
目前の風景が一瞬でぶれていく。
途端に浮遊感。
足元が消えたような錯覚。
まばたきの間に、空は重力を失っていた。
「な、なんだこれ!?落ちて……いや、これ、上!?上に向かって吸い込まれてる……?」
視界の中、青白い光の粒子が空たちと同じ方向へと流れている。
粒子が向かう先、その中心にぽっかりと、空に空いた“歪んだ渦”——アズールヘヴンの“入り口”があった。
「……これ、どんどん加速してないか……!」
「どうして、こんな状態で…!って言うか、まずいですー!このままだと——!」
空もシィロも、制御できず空間を高速で落ちていく状態。まさに“逆さまの落下”。
アズールヘヴンへの入り口もあっという間に通り抜けて、今度は天地が逆転した。
そこで見えたのは広大な大地、更に遠くに幾つかの大陸が浮遊していた。
空は一瞬、この光景に目を奪われたが
、進行形で落ちていることには変わりなく、どんどん地面が視界に広がっていく
「……ッ!!」
風を切る音。耳が痛い。
限界が近づいてきて、もうぶつかると思った。
——そのとき。
「——危ない!」
鋭く、けれどどこか透明感のある声が、空間に響いた。
次の瞬間、二人の身体にふわりと浮かぶ感覚が走る。
落下の加速度が急に緩やかになる。
「……え?」
「これは…」
光の粒子が流れる渦の中、二人の目の前にふわりと浮かぶ“紫の装束を纏った人影”が現れる。
年齢は不明。白髪。瞳は淡く赤色に光っている。背中には“紙の羽”のようなものが揺れていた。
「君は一体、誰?…どうやってここに入ってきたの?地上からの正規な転送経路じゃない……ゲートが逆転してたなんて、危険すぎるよ!」
二人を地上の拓けた場所に降ろしたであろう、謎の人物が激しい剣幕で空の方に詰め寄る。
「……あ、あなたは……?」
思わず空は後ろに下がった。
「記録者、識別番号D-0426。通称“フラウ”。このセクターの記録管理と安全管理を担当してる」
その人物は、一瞬だけシィロを見ると、やれやれと言わんばかりにため息をついた。
「シィロ……またルールを守らないで騒ぎを起こすつもり?そんなことだからいつまで経っても見習いなんだよ…」
「ちょっ、ちょっと待ってください!これは緊急事態なんですっ!」
シィロは慌ててフラウに事情を話そうとしたが、言い止まった。
(…別世界の人間を、連れてきたとバレたら色々、面倒なことに…)
「彼は…えっと…私の従兄弟で、一緒に鍵でサボりに…それがバレそうになりまして、慌てて…」
「ふうん…シィロに従兄弟がいた、なんて、初耳だけど?」
「と、遠くの方に住んでいて!本当10年ぶりくらいにあったんですよ!だから一緒に何処か行きたくて…」
フラウはシィロの話を聞いて、しばらく考えていた。
「それなら余計、気を付けなよ…こんな異常を上が知ったら、僕だって怒られるんだからさ…」
「…すみませんでした」
「今回のことは、上には内緒にしておいてあげるから、また何か奢ってよね?」
フラウがシィロにウインクして笑いながら去って行った。シィロは深々と頭を下げている。
「…あんな嘘をついて、大丈夫なのか?」
空がシィロに先ほどのやりとりについて尋ねた。
「…外の人間がアズールヘヴンにいることがバレる方がマズイですから」
「そうだったな…」
「とりあえず姿を隠しましょう、私も勝手に戻ってきていることも知られないほうが良いですし」
「…?シィロは別に問題ないんじゃないのか?」
シィロはゆっくり首を横に振った。
「私は今、空さんの世界で任務をしていると思われています。それなのに、アズールヘヴンにいるなんて…知れたら…」
「…怒られる?」
「怒られるどころじゃないですよ!いえ、どんな恐ろしいことになるか想像もつきません!」
シィロは小刻みに震え始めた。
「ほら、空さん!ここは目立ちますので、行きますよ!」
「…わ、わかった」
先に進むシィロを追いかけて、空も歩を進める。
「これからどこに向かうんだ?」
「ここはフラウが管理しているセクターです…あちらの方に町があったと思います」
シィロは浮遊する大陸を見渡して、行く先を指で示した。
「…よく場所がわかるな」
「あそこに浮遊する大陸を見れば、大まかな場所はわかりますよ。さぁ、急ぎましょう。空さんの服はこの辺りでは目立ちます。町で調達します」
シィロが言う方角に二人は歩いていく。
「シィロ、あの浮かんでる大陸の群れは何なんだ?」
「アズールヘヴンとはですね、幾つかの大陸が重なり合って成り立つ、ひとつの大きな世界の総称なんです」
「…国と県…みたいなことか…」
「簡単に言えば、そうですね。そして各々の大陸は一定の距離を保っているので位置を見れば、大まかな場所がわかる、と言うことです」
「そういうことか…」
「あ、町が見えたしたよ、空さん」
シィロが前方を指差した。
「あれが私たちの目指していた、リゼムという名前の町です」
近づくにつれて、風に乗って薬草のような香りが漂ってくる。遠くからは鐘のような音が響き、どこかゆったりとした時間が流れていた。
「…何かすごい、雰囲気のある町だな」
リゼムと言われた町は、建物に所々、蔦や苔が這っており、建物自身もとても歴史を感じさせる作りとなっていた。
「町は少し古めかしいですが、売っているものは他の町と変わりませんよ」
そして、二人は近くの服屋のような店に入った。
* * *
「いらっしゃいませー」
定員さんがレジから声を掛けてきて、興味深そうに空を見ていた。
「早めに、服を選びましょう…これとか、どうですか?」
シィロは近くにある、背中に羽根が付いた服を取り出した。
「羽根付いてるけど!俺、さっきのフラウさんみたいに飛べないよ!」
「空さんも頑張れば、もしかしたら…」
「いや、無理だから!しっかり地に足つけて生きたいタイプだから!」
「…冗談はさておき、これくらいでいいと思います」
咳払いを一つして、シィロはマントを取り出した。
「このマントは地味に見えるかもしれませんが、内側に特殊な繊維が織り込まれています。少しだけ、衝撃に対して耐性があります」
「…衝撃、耐性?」
「…言っていませんでしたね、アズールヘヴンにはトガビトなど、危険な生物が存在しています、なので、衝撃耐性があるような服が売っているのです」
「そうなのか…ってトガビト!?…大丈夫なのか、それ」
空はトガビトの姿を思い出して身震いした。
「トガビトは、一般の人には危険な存在ですが、本来、記録者であれば、撃退も可能なんです。ただ、こちらに人型のトガビトは存在しませんでしたが…」
「撃退…記録者って、すごかったんだな…」
空はシィロを、見直したような目で見た。
「い、以前も言いましたが、私は無理ですよ?…見習いですので…」
シィロがマントの代金を払い、二人は店を出た。
「聞いてなかったけど、記録者ってなんなんだ?後、見習いってのは…?」
「記録者はアズールヘヴンの組織で、名前の通り、主に記録を生業としています」
「でも、シィロはノエリウムの…あ、記録か…」
「そういうことです。そして、記録者には階級があります。大まかに上級、中級、初級、見習いとなっています」
「階級で何が違うんだ?」
「記録の閲覧や行使できる権利などに違いがありますが、初級以上はトガビトなどと戦うための力を、それぞれ所持しています」
「力…記録者って戦うの!?」
「はい、その功績や力の強さによって階級も決まります…そして見習いは…戦う力を持っていない記録者のことです…」
そう言ったシィロの声は、少しだけ震えていた。
「だから威嚇程度って言っていたのか…」
「…頼りにならず申し訳ありません…」
シィロは小さくなって俯いた。
その言葉は、どこかで何度も呟いてきたような響きを持っていた。
「…戦う力なんてなくても、シィロにはシィロにしか出来ないことがあるだろう?」
「え…?」
「シィロは俺や朝陽、あかりにも寄り添って、支えてくれてるじゃん。それだけで力になるし、頼りにならないなんてことはないよ」
「…ありがとうございます」
再び、顔を伏せてしまったが、嬉しそうに目元が緩んでいた。
* * *
空はシィロに選んでもらったマントを纏って、次の方針を決めるためにシィロと相談した。
「シィロ……朝陽を、どうすれば取り戻せるんだろう……少しでも、何か手がかりがあるなら、知りたい」
「私たちには今情報が足りません…ですので情報を集める必要があると思います。」
「なら…聞き込みとかして地道に行くしかないってことか…」
「これから、記録者の本部がある町に向かいましょう、他の記録者に見つかるわけには行きませんが、人も多く、何か情報が集まるかもしれません」
「そうだな…わかった、そうしよう」
空は少しの間、考えてから頷いた。
「私は、本部に侵入して、見習いでは見れない情報を探ってみます。」
「大丈夫なのか…?」
「…大丈夫、かは自信がないですが、本部が何か隠している可能性はありますので」
シィロの顔には決意が満ちている。
「…無茶させてごめんな…」
空が目を伏せると、シィロはふわりと笑った。
「謝らないでください。私が好きでやっていることですから」
シィロはとても優しい表情をしていた。
「私は空さんと朝陽さんが再び、会えるのを心から願っています。だから頑張りましょう」
シィロは照れたように笑った。
———そのとき、一瞬の静寂。
風が止まり、空気が重たく変化、したような気がした。
「……識別番号X-0643、シィロ」
背後から、低く冷たい声が響いた。
まるで、風が時間を凍らせたかのようだった。
「貴様、ここで何をしている?地球での任務を言い渡していたはずだが」
声の主を理解したシィロの肩がピクリと震え、振り返ったその瞳には、恐怖とも言える色が浮かんでいた。




