第二十五話:アズールヘヴンへの扉
翌朝、時刻はまだ五時だった。
空はベッドから出て、大きく伸びをした。
ベッドに転がっているスマホを手に取り、メッセージアプリを確認した。
鍵が完成した後、伊織に連絡しておいたため、アプリには伊織から簡潔に「了解!」と返信があった。
パーカーとズボンに着替え、ノエリウムの鍵をポケットにしまった。
自室を後にし、ドアをそっと閉じる。
階下に降り、顔を洗い、リビングに入った。
(…まだ、母さんも起きてないや)
空はリビングを見回したが、静寂だけがあった。
(何か、食べておこう)
台所に向かい、食パンを一つ手に取る。
トースターで焼いた後、バターを付けて伸ばした。
『おはようございます』
リビングのドアから声。
空は少しビクッとして、振り返ると猫の姿をしたシィロがいた。
『食べたら、行きますか?』
「うん…そうしよう」
『…私も、何かください』
催促するシィロに、少し笑ってしまう。
「ちょっと待ってて」
空は台所にペット用のご飯を取りに行って、シィロの皿に入れてあげた。
「シィロって人間の姿にもなれるのに、ペット用のご飯でいいのか?」
『姿に引っ張られる、というやつです。とても美味しく感じていますよ』
「…そんなもんか」
『そんなものですよ』
二人はそれぞれの朝食を摂って、家を出る準備をした。
* * *
リビングを出て、玄関に向かう。
空は走りやすいスニーカーを選ぶと座って靴紐を結ぶ。
「…お兄ちゃん…」
その時、2階の階段からあかりの声が届いた。
「…何処行くの?こんな時間に…」
空はギクリとして、ゆっくりあかりへと向き直る。
「おはよう、あかり…ちょっと早く目が覚めたから、近所を散歩してくるよ」
「…嘘だよ。昨日、お父さんと話してた。ねぇ、お兄ちゃん、何処かに行っちゃうの?」
あかりは泣きそうな顔で空を見つめる。
「大丈夫だよ、ちゃんと帰ってくるから」
空は優しい顔で、あかりの髪を優しく撫でる。
「…じゃあ、行ってくるよ」
「あっ…」
髪から手を放し、玄関を出る。
玄関の外には悲しそうに耳を伏せたシィロが座って待っていた。
『…行きましょう…』
二人は伊織との待ち合わせ場所の方向に歩く。
空は最後に振り返り、家族のいる天音家に礼をした。
(…必ず、帰るから…)
そしてシィロを追いかける空。
その背中には、たくさんの想いが──全部が確かに残っていた。
* * *
朝の空は、夜との狭間に揺れていた。 群青と茜がゆっくりと混ざり合い、まるで見えない筆で空に描かれているようだった。
世界がまだ目を覚ましきれていない、そんな“静けさの中の始まり”。
どこか遠くで、ひときわ高く蝉の声が鳴いた。
待ち合わせ場所には伊織がすでにいた。
街の音がまだぼんやりしているなかで、彼の姿だけが輪郭を持って浮かんでいた。
スマホを見ながらしゃがんでいた伊織は、空とシィロの気配に気づいて立ち上がる。
「よっ、早かったな」
「待たせたかな」
「んにゃ、今来たとこ」
スマホをポケットにしまい、伊織はいつもの調子で笑った。
『伊織さん、おはようございます』
「お、シィロ。おはようさん」
『早速ですが、アズールヘヴンの扉がある神社に向かいましょう、少し嫌な予感がします』
シィロは尻尾を小さく揺らしながら、少し落ち着かない様子で周囲を見渡す。
「…そうだな」
「ああ、行こう」
朝の空気を切るように、シィロが先に歩き出す。
その後を、空と伊織が並んで歩く。
「…家族に話せたか?」
「父さんには話したよ。信じてくれた。……でも、母さんやあかりには、言わなかった」
伊織は横目で空を見た。
「……良かったのか?」
「……必ず、朝陽を取り戻して、みんなで帰る。そう決めたから」
「……そっか。ま、確かに“戻れない”なんて、決まったわけじゃないしな」
前を歩くシィロは、ふたりの会話を聞きながら、ひとつ小さく息を吐いた。
(この世界の人間がアズールヘヴンから“戻った”という記録は、私の知るかぎりでは存在しませんが……)
(……けれど、私はまだ見習い。全記録にアクセスできるわけでもありません)
(空さんたちが戻れる可能性があるなら……私が必ず、探します)
* * *
神社へ続く坂道に、差し掛かると、朝の光が差し込んでいた。
だがその空気は、どこか…張り詰めていた。
シィロの尻尾が、ぴたりと止まる。
『……二人とも、止まってください』
シィロの尻尾が膨らんでいる。
その一言に、空も伊織も立ち止まる。
「どうした?」
『……います。近くに、“トガビト”が』
その直後、空気が冷たくなる。
遠くで蝉の声が止んだ。
「……またかよ……!」
『こちらに!』
シィロが神社の裏手の細道に走っていく。
三人が駆け出したその瞬間、背後の空間が歪み、トガビトが音もなく現れる。
複数の黒い影、そして、一つだけ黒い人の形をしたトガビトも存在した。
「黒い…人間!?前と違うぞ!」
『急いでください!』
シィロが二人を急かす。
『ノエリ⬛︎ムをォオ…渡せェ』
トガビトが、空に手を伸ばす。
「危ねぇ!」
伊織が空を突き飛ばした。
「伊織!?」
トガビトの靄が微かに、伊織に掠った。
伊織の呻き声が届く。
「…良いから!早く行け!」
「でも——!」
「こいつら、俺が引き留めておく!お前は朝陽を、取り戻すって決めただろ!」
「伊織……!」
伊織は振り返らずに、腰を低くして構えた。
『……空さん、行きましょう!伊織さんを信じて!』
迷う空にシィロが声を掛ける。
空は、ぎり、と唇を噛んだあと、叫ぶ。
「絶対に戻るからな!!」
「当たり前だバカ野郎!」
空とシィロは再び駆け出した。
その背中を、伊織は一瞬だけ見て、ニッと笑った。
* * *
『もうすぐですよ!』
シィロが時折こちらを確認しながら走る。
「はぁ…はぁ…くそっ…伊織…」
細道の最後の坂を駆け上り、二人は御神木のある場所まで到着した。
「…トガビトは…いな、いか…?」
シィロはすぐに御神木の周辺を警戒した。
『…この周囲は大丈夫です…中に急ぎましょう』
二人は御神木にある空洞の中に入った。
* * *
御神木の根元の空洞に足を踏み入れると、以前とは違う“気圧”のようなものを、空ははっきりと感じた。
空気が重い。肌にじっとりとまとわりついて、思考すら曇らせそうな圧があった。
だが、不思議と恐怖はなかった。
その先に進むべきものがある――そう告げられているような感覚だけが、確かに胸にあった。
中は、薄暗い樹皮のトンネルのようだった。
触れた壁はざらついていて、ところどころから蒼白い光が滲んでいた。
それは呼吸するように、脈打っている。
「…前来たときは違うな…なんか」
『…今回は扉に行きますからね』
空の疑問にシィロは答えた。
『もうすぐ、着きますよ』
シィロは少し早足になり、空洞のその先へ進み、やがて拓けた場所に辿り着いた。
『……これが“アズールヘヴンへの扉”です。』
その空間には、滑らかにねじれた樹の根が絡み合い、中心に“ひとつの扉”が浮かんでいた。
木でも金属でもない、それはまるで“記憶”で編まれたような不思議な質感で。
見つめているだけで胸の奥がじんわりと熱くなる。
その扉の中心には、小さな鍵穴がぽつりと開いていた。
「……これが……アズールヘヴンへの……」
空は扉の存在に、言葉を失くしている。
『扉を開ける前に、私も本来の姿に戻ります』
シィロが光に包まれて、白い人間の姿に変わった。
「鍵をください」
シィロが手を差し出す。
空はポケットから、鈍色の鍵を取り出し、シィロに渡す。
空が手渡した鍵は、淡い空色に光っていた。
その色はどこか、あの日ふたりで見上げた夏空の色に似ていた。
まるでこの先を認め、導いてくれているように。
「……頼む。アズールヘヴンに…朝陽に……繋いでくれ」
空が手渡した鍵を、シィロがそっと鍵穴に差し込んでゆっくりと回していく。
その瞬間、空気が震えた。
“コン”と、小さな音を立てて、鍵穴が光に包まれ、鍵が粒子となって鍵穴に吸い込まれていく。
「…鍵が…消えていく」
そして、扉の輪郭が、にじむようにゆっくりと広がっていく。
その先は、まだ見えない。
ただ、あまりにも美しく、あまりにも儚げで、胸の奥が締めつけられるような感覚だけがそこにあった。
「これが、あなたの“想い”で紡いだ扉です」
扉の表面には、いくつもの“記憶”が揺らいでいた。
空と朝陽が見上げた夏の空、二人で走った放課後の影、手を握った夕立のバス停──
それらがまるで、扉の内側で静かに波打っているようだった。
そして、シィロが微笑んだとき。
——背後の空気が、ぐにゃりと歪んだ。耳鳴りのようなノイズ。体温が、少しだけ下がる感覚。
「……!」
空が振り返ると、扉のある空間の入り口側――そこに、黒い影が“溶け出すように”立っていた。
先ほどの“人型”のトガビトだった。
その姿は輪郭がぶれ、視線を合わせるだけで頭痛がするような異質さを放っている。
「……まだ……追ってきたのか……!お前!伊織はどうしたんだ!」
「ダメです、急ぎましょう!」
「でも、伊織が……!」
『扉が開きます、今……っ!』
扉の輪郭が完成し、光が一筋に収束する。
その瞬間、シィロが空の手を取り、二人は光の中へ駆け出した。
「止まれェ……ノエリウ……ム……」
トガビトが空へと手を伸ばす。
けれど、その手が届くより早く、扉の光が空とシィロを包み込んだ。
——ぱん、と。
光が一斉に、扉に吸い込まれ、弾ける直前、世界が一拍遅れて、静止したように感じた。
風も、鼓動も、音さえも、すべてがその“境界”に息を呑んだ。
そして静かに、扉は閉じられた。
まるで夢の終わりのように、優しく。
空はアズールヘヴンへと旅立った。
* * *
そこに残ったのは、静寂。
神社の空洞の奥にあった“扉”の痕跡も、すでに消えていた。
だが、静かに足元に転がる小さな“欠片”だけが、わずかに異彩を放っていた。
黒く、歪な、その欠片は。
――そう。
“トガビト”の、一部が、アズールヘヴンの境界を越えていた。
旅立ちの一瞬。
誰にも気づかれずに。
ひとひらの黒が。
ようやく、第六章も終わりました。




