第二十三話: 残響の光
夏の夜の匂いが、少し濃くなった帰り道を二人は無言で歩く。
遠くの方から、蝉や蛙の声が聞こえ、草の葉先を月明かりがぼんやりと照らしている。
「じゃ、なんかあったらすぐ連絡くれよな」
「ああ。お前も気をつけて」
お互いの家の分岐点まで来ると、二人は軽く手を挙げて別れる。
空はゆっくりと帰り道を進んでいく。
不安はあるけれど、不思議と心は静かだった。
世界から朝陽が消えても、ここに“想い”がある限り、取り戻せる。
その希望を胸に、空は夜の道を踏みしめて歩いた。
* * *
自宅の玄関を開けた瞬間、ふわりと漂うカレーの匂いに、空は思わず小さく息を吐いた。
「……ただいま」
リビングからすぐに声が返ってくる。
「おかえりー!今日ね、シィロがずっとテレビの前で寝てたよー!」
声とともに、小さな足音が駆けてくる。
あかりは空の顔を見ると、ぱっと笑ってキッチンへと戻っていった。
「もうすぐご飯できるから、手洗ってきてー!」
「ああ、今行く」
リビングのソファの上には、白猫――シィロが丸くなっている。
ほんの少しだけ尾を揺らして、空の帰宅を出迎えるようにちらりと目を開いた。
「……ただいま、シィロ」
シィロは一声も鳴かず、まぶたを閉じると、再び尻尾だけをゆらゆらと振った。
その仕草に、空はふっと小さく笑って、洗面所へ向かった。
* * *
夕食の食卓に、母の手料理が並ぶ。
カレー、サラダ、ヨーグルトに小さなゼリー。
全部どこか素朴で、あたたかい。
「いただきます」
「いただきますっ!」
「ふふ、おあがりなさい」
夕ご飯の食器の音が、カチャリと重なる。
しばらく、カレーを食べ進めてから、あかりがふと話し出した。
「ねえ、お父さんね、明日には帰ってくるって。さっき電話で言ってたよ」
「そうなんだ。……お仕事、落ち着いたのか?」
「うん。『そろそろ家のこともちゃんと見ないとな』って言ってた」
「…全く、あの人は…」
母が少し呆れたような声を出している。
空はそんな家族の空気に、少しだけ胸があたたかくなるのを感じた。
父に話したいことは、山ほどある。
けれど、何をどこから話せばいいのか——その答えはまだ見つかっていない。
「そっか。……じゃあ、明日はちゃんと顔見られるかな?前はあっという間に仕事に戻っちゃったしな」
「うん、今度こそゆっくりお土産話も聞かせてもらいたいね!ところで……お兄ちゃん」
「ん?」
「なんか……お兄ちゃん、最近ちょっと違う感じがする」
「えっ?」
「うーん……なんていうか、“大人っぽくなった”っていうより、“強くなった”っていう感じ」
「……そうか?」
「うん、何か隠してるみたいだし、それがお兄ちゃんの成長に繋がっているのかな?」
あかりは冗談っぽく笑った。
「そうね、男の子は隠し事ばっかりだわ、空もお父さんも」
「…なんだよそれ」
そう言って、三人は笑った。
あかりと母の笑顔は、いつもと変わらず、けれど今はずっと心に沁みた。
ソファの上でシィロは丸くなったまま、耳だけピクリと動かしている。
“記録者”としてではなく、“家族の猫”として。
そんな夜だった。
* * *
リビングの灯りが静かに消える音を聞いてから、空はそっと自室のドアを閉めた。
ベッドに座ると、カーテン越しに月明かりが淡く部屋を照らしていた。
自室のドアからシィロが入ってきて、窓際に登り、ちょこんと座った。
「……シィロ、今日ずっと寝てたってあかりが言ってたけど…」
『いえ、ちゃんと起きてましたよ?』
しきりに耳や尻尾が動かす、その姿に、もうどこか親しみがあった。
『痕跡は集まりましたか…?』
「……今日、旧校舎と公園で二つ集まったよ」
『そうですか…ノエリウムを見せてもらっても…?』
空は小さく頷いて、ノエリウムをシィロに見せた。
ひびの入った石は、かすかに脈打つように光っていた。
『確かに、ノエリウムに強い想いが集まっていますね』
「…良かった…そうだ、痕跡のある場所で朝陽の幻を見たよ」
『なるほど…痕跡…記憶の残響…そう言うこともあるんですね』
シィロも納得したようだった。
「明日も探すよ…また朝陽の姿、見れるかもしれないし…」
『…そうですね…うん』
シィロが人間の姿になり、空に近づいて頭を撫でた。
「……!何を…?」
『空さんの頑張りは、ちゃんと、私が見て”記録”しています。今日も良く頑張りましたね』
空は照れて避けようとしたが、シィロの言葉を聞き、避けるのを辞めてされるがままになった。
「…ありがとう、シィロ」
『はい、空さん』
にっこりと笑うシィロ。
そして、いつの間にか空は眠りについた。
* * *
朝起きたらシィロは自室には居なくなっていた。
「…なんか…心地良く寝た気がする…」
昨日のことを思い出し、撫でられた髪を触った。
(嫌な夢も見なかったな…)
空は伸びをした後、ベッドから起きて、階下に降りた。
「ほはよー、ほにーちゃん」
「歯ブラシ咥えながら話すなよ…おはよう、あかり」
洗面所には歯磨きをしているあかり。
場所を空けてもらい、顔を洗う。
冷たい水で、まだ少し寝ていた頭も完全に覚醒した。
「…あかり、今日は遅いな?」
「そうなの、昨日、しろが布団の上に居たからあまり寝れなくてさー」
それでも可愛いからしょうがない、といった雰囲気で笑う。
「…そういや、しろは?」
「一緒に起きたけど、またすぐに窓際で寝てたよ」
「あの白猫は…」
「まぁ、猫なんて寝るのも仕事みたいなものだからね!じゃあ行ってくるねー」
そう言って笑いながら、あかりは洗面所から出て、玄関に向かっていった。
「…いや、しろは猫じゃ…」
空の零した言葉は何処にも届かないで消えた。
* * *
制服に着替え、リビングに降りると母が嬉しそうに食器を洗っていた。
「おはよう、母さん」
「おはよう、空。朝ご飯早く食べちゃってね」
食卓には既に朝ご飯が並んでいた。
「いただきます。…そういえば、父さん何時に帰ってくるって?」
「んー…七時くらいには帰ってくるみたいだから、それまでに空も帰ってきてね」
「わかったよー」
そして、朝ご飯に集中することにした。
「ごちそうさま!行ってくるね、母さん」
食器を台所に持っていき、空はリビングに向かう。
「空」
台所から母の声が届く。
「無理しないでね、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
玄関で靴を履いて、外に出る。
夏なのに少し肌寒く感じる空気だった。
空がふと立ち止まる。
(……今、誰かに見られてたような……)
一度辺りを見渡したが、誰もいなかった。
(気のせいか…?いや…注意はしておこう…)
* * *
その日の学校では気が急いていたせいかとても長く感じた。
「あー…長かったー…」
伊織が疲れた顔をして寄ってきた。
「…急いで行こう。」
伊織を促すと教室から出た。
「今日は何処から向かう…?」
「…前、朝陽の家の前に行っただろ?」
「ああ、朝陽の親父さんに会ったときな」
空の言葉に、伊織は思い出すように頷いた。
「あそこで告げた言葉、あれも一つの想いなんじゃないかなって思う」
「…確かにな、なら行ってみようぜ」
こうして、二人は朝陽の家に向かう事にした。
* * *
「空、明日か明後日には痕跡も集まるかもしれないけどさ、家族には何か言ったのか?鍵は使い切りって話だし」
学校から出て、目的の場所に向かう途中、伊織が尋ねた。
「あー、うん…話して良いのかなって思ってる…朝陽の記憶もないから信じてもらえないかもしれないしさ」
「お前が本気で言ったことを信じれない人たちだとは思わないけどなー」
伊織は腕を組んで、雲を見上げた。
「ま、話せそうなら話した方が良いんじゃないかとは思うぜ」
「そういう、伊織はどうなんだよ?」
「あー、俺は良いんだよ。うちは何かそんな感じでもないしな!」
「ん、ごめん」
空は思わず謝った。
「気にすんな、気にすんな!あ、そろそろじゃないか?」
笑って流してくれた伊織の視線が前を向いてる。
「あれ…でも、何か…変じゃね?」
朝陽の家の前、よく目を凝らすと黒い靄がかかっているような気がした。
「あれは…トガビト!?」
「ヤバいんじゃないのか!?痕跡喰われてんじゃ…」
二人は急いで家の前まで向かった。
『想⬛︎…も⬛︎と…よこ…せ…』
どうやらトガビトは痕跡を取り込んでいるようだった。
「やめろ!!」
「おい、空!危ないぞ!」
飛び出そうとする空の腕を、伊織が掴んだ。
「でも…!痕跡が!」
「だからって触れたら、俺たちまで喰われちまうぞ!」
「…くそっ!」
二人が進めずにいると、トガビトが気付いたように声を出した。
『…ノエリ⬛︎ム…匂う…』
「…気付かれたぞ!一旦逃げるぞ!」
「…わかった」
二人は来た道を戻るように逃げ出した。
* * *
「はぁ…はぁ…」
二人は肩で息をして、振り返った。
「来てないよな…?」
「…みたい、だな…。これからどうする?痕跡喰われちまったよな…」
「もう少し早く行ってれば…俺のミスだ…」
伊織は落ち込む空に声をかける。
「…ミスとかじゃないだろ、とりあえず、またトガビトに先回りされないうちに、思い当たるところに行くぞ」
「そうだな…急がなきゃな」
「ああ…大丈夫、まだ何とかなるって」
元気付けようとする伊織に頷いて、空は歩き出した。
「神社に向かおう。」
「…扉のある神社か…?」
「ああ、あそこには必ず痕跡があると思う」
二人は頷いて神社への道を急いだ。
* * *
空と伊織は再び神社の石段を登っていた。空気は澄んでいたけれど、どこか張り詰めたような緊張感があった。
「どの辺なんだ?朝陽と来たのは」
「境内の方だよ。形見を探して……一緒に歩いた。まだよく話せてなかった頃だけど」
御神木にあった空洞は今は見当たらず、ただ静かにそびえ立っている。
風に揺れる葉の音が耳に残る。
空はそっと目を閉じる。
「こっちには、トガビトは来てないみたいだな…」
「ああ、今のうちに…」
神社に来てから、熱を持ったノエリウムをポケットから取り出した。
———境内の奥。朝陽が立っていた。
「ここであってるみたいだな…」
朝陽の姿を見て、伊織が呟いた。
儚げに黒い髪を揺らして、朝陽が振り返る。
『……天音くんも、ここに来るんだ』
少し驚いているけど、やわらかい声。
大事な形見を探していると話をしている。
そして、社に向き直った朝陽が言った言葉。
『……ここ、たぶん、前にも来たことがあるんだと思う』
そう言った瞬間に、別の光景が辺りに広かった。
騒がしい境内。
男の子の泣き声。
優しそうな女性の姿。
そして、女性と手を繋いでいる女の子。
そして全てがぼやけていき、光の粒子となってノエリウムに吸い込まれて消えた。
空は突然のことに理解が追いつかずにいた。
「よし、大丈夫そうだな!空、次に行くぞー!」
「わ、わかってる!」
伊織の声に、我に帰った空は後を追った。
「伊織…さっきの見たか?」
「朝陽とのやり取りか?やっぱ、何度見ても覗いてるみたいで悪い気がするわ…」
(……伊織は見ていないのか…?)
境内をあとにするその背後、木漏れ日のなか、白く淡い光が一瞬揺らめいた。
——まるで、誰かの気配が、今もそこに残っているかのように。




