第十九話:記録に残る願い
「……やっぱり、ダメか……」
返事はなかった。
風も止み、蝉の声さえ、どこか遠くで途切れていた。
ノエリウムは、ひび割れた面から微かに脈打つように光っただけで、それ以上の反応はなかった。
(……今のは?)
力なく呟いた空に、伊織がそっと近づく。
「おいおい、もうちょい小声でやれよ……誰か来るぞ……って言ってるそばから、嫌な予感がするんだけど」
「……え?」
——そのとき。
ふわりと、生ぬるい風が、背後から迫ってくる。
「⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎」
振り返ると、黒く、そして曖昧な輪郭で目を凝らして見ないと見失ってしまうような存在が漂っていた。
「……なんだこいつ」
「おい、なんか言ったぞ!」
伊織は慌てて空と影を交互に見ている。
黒い影はしばらくその場を漂うと喋り始めた。
「そ⬛︎、石、渡…せ。“⬛︎跡の欠⬛︎”——ノ⬛︎、リウ⬛︎」
「!?」
まるでたった今、言葉を覚えたように聞こえた声に二人は思わず固まった。
「おい、なんかやばそうじゃないか?…逃げるか」
「そうしたいけど…」
黒い影が少しずつ、こちらに近づいてくる。
「逃してくれる気はなさそうだ…」
「渡⬛︎、ノエ⬛︎ウ、ム」
二人の周囲には黒い影がいくつか漂っていた。
「…増えた!?」
「くそ…何なんだよこいつら。いっそ、無理やり、走り抜けてみるか…?」
じわじわと近付いてくる輪郭に二人は徐々に追い込まれていく。
「…触ったらまずそうだけどな…」
黒い影の近くにある草が枯れているのを見て、空は答える。
「やばいやばい!」
二人は思わず、目を瞑った。
そして、黒い影が二人に触れようとしたとき。
「シャアアアアア!!」
黒い影の向こう側にある草むらから、真っ白な影が跳び出した。
光のように舞い上がる、毛並み。
鋭く伸びた爪が、黒い影をかすめた。
「⬛︎———!?」
黒い影が後ずさり、悲鳴のような声をあげた。
「…白い…猫!?」
「しろ、か……!?」
その真っ白な影は、よく見たらあかりが可愛がっていた白猫の”しろ”であった。
しろは、一度だけ空たちを振り返り、一瞥すると森の奥へ駆けていった。
「あ!待て!」
「ついて来いって……言ってんのか!?いやいや、猫語か!?いや、わかんねぇけど——」
「……走れ!」
二人は顔を見合わせ、しろの登場で出来た、隙間を抜けて、後を追った。
黒い影は、遠ざかる二人の背をじっと見つめていた。
やがて、その形がほんのわずかに“腕”のようなものへと伸びる。
「……⬛︎ト……カ⬛︎チ……」
二人は白猫を追って、時折振り返りながら、神社の裏道に入っていった。
まだ少し濡れている石畳。
雨上がりの空気が、まだどこかぬるくて、湿った苔の匂いが鼻をくすぐる。
「…もう来てないか?」
二人は肩で息をして、足を止めた。
「そう、みたいだな…」
息を整え、辺りを見ると神社の鳥居の前に辿り着いていた。
鳥居の奥、境内の階段の中頃に、白猫―しろは座って、こちらを見ている。
「…しろ、さっきは助かったよ。ありがとう」
「っていうか、ほんと何だったんだあの黒いのは」
しろは、階段からこちらに音もなく降りてくる。
『……って』
何かが喋ったような気がした。
「…ん?空、なんか言ったか?」
「いや…でも何か聞こえたよな…?」
『…言いましたよね!ノエリウムを使うなって!!』
突然、しろが言葉を発したことに、二人は固まって目を合わせた。
「「………」」
『無視しないでください!ノエリウムも壊しちゃうし!あー!絶対怒られる!!』
しろは牙を向いて、そう告げた。
「しゃ、しゃべ…」
「…し、しろが…?」
『…とりあえず着いてきてください!さっきのトガビトが追いついてきたら厄介ですし』
しろは、周囲を一度確認し、まだ混乱している二人に着いてくるように促した。
「…着いていこう」
二人は戸惑いながらも着いて行くことにした。
しろの後を追いかけ、鳥居を抜けたとき、空気の温度が一段階変わったように感じた。
夏の午後なのに、木陰の中は妙にひんやりとしている。
「……なんで、お前んちの猫が喋ってんだ…?」
伊織がぼそりと呟く。
「…俺に聞くなよ、俺だってびっくりだよ」
「…家でも喋ってたってこと…ないよな…?」
「……たぶん…」
『早くしてください!』
しろは振り返り威嚇する。
二人は、足元の石段を足早に、そして一歩ずつ踏みしめるように進んだ。
拝殿の前に来ると、風がふっと止む。
さっきまで頬を撫でていた風が、まるで引き返すように、息をひそめた。
(……更に空気が、変わった)
何かが張りつめる。
まるで透明な“膜”に包まれたような感覚。言葉にはならないけれど、確かに感じた。
「伊織……感じないか?鳥居に入ってからだけど、ここは、特に空気が重たい気がする」
「……ああ。何だろうな……鳥肌、立ってる」
二人は境内をゆっくりと見渡す。
『こっちです』
一匹と二人は落ち葉を踏みしてて進んでいく。
古びた御神木。
その根元、空がかつて“かけら”を拾った場所に到着した。
そして、しろが足を止めた。
『この中なら、まだ安全です』
神社の奥、御神木の根元。
そこには昨日は気づかなかった、大きな木の幹にぽっかりと空いた“空洞”があった。
まるで誰かが通ったかのように、地面の草が不自然に押し倒されている。
「……こんなの、前はなかった」
「……なんか、すげえな…」
二人は大きな空洞を見て、呆気に取られながらも、中に入っていった。
「そ、それで何で喋れるんだ?」
『それよりも!何でノエリウムを使ったんですか!私、言いましたよね?』
「言いましたよね…って、初めて喋ったじゃんか」
『以前、夕方に警告したじゃないですか!』
「…もしかして、あのときの白い影ってしろだったのか…?」
『……!ああ、なるほど。そうでした…今はこの姿でした…ちょっと待ってください』
しろが光を放った。
まるで空気のなかに、白いインクが滲んでいくように、白猫の輪郭が揺らぎ、静かに“人の形”を織りあげていった。
形が定まり、光が治まる。
しろが纏う空気が、変わっていた。
風が止み、遠くで鳴いていた蝉の声すら聞こえなくなる。
世界が、まるで一枚の薄紙のように“音”を失った——そんな静寂だった。
「ふぅ…さあ!これで思い出しましたか?」
「あ、ああ…ちょっとびっくりしたけど…」
「びっくりなんてもんじゃねぇよ!何で猫が、人間になるんだよ」
「私は人間じゃありませんよ?私はアズールヘヴンの“記録者”見習いで、名前はシィロと言います」
「あー…シィロ、さん?その”記録者”ってのは一体…?」
「記録者とは、ノエリウムに触れた者の“時間の干渉”と“代償”の記録を役目とした存在です」
「…干渉と代償の記録」
「そうです!あなたが手にしたノエリウムの監視と記録、私が担当していたんです!」
「これを、シィロさんが…?」
「ええ、ですが。それは元々”天音 朝陽”さんのものでした」
「やっぱり、これは朝陽の…」
空はノエリウムをそっと掌にのせ、そのひび割れに、もう触れられない誰かの面影を探すように目を落とした。
「お、おい…空、大丈夫か…?」
落ち込む空に、声を掛ける伊織を見ながらシィロは続けた。
「…続けますよ?そもそも、ノエリウムはこの世界には存在しない物質です。アズールヘヴンの住人しか持っていない、特別なものなんです」
「……これ、朝陽の、母親の形見だって、言ってたんだ」
「それについては、私も詳しくはわかりません。当時の担当は別の記録者でしたから……でも、記録の断片に、“この石は母から託された”という記述はあります」
「……!」
「ってことは…」
「ただ、朝陽さんのお母さまが“アズールヘヴン”に関係があったかどうかまでは、私にも分かりませんよ?でも……もしかしたら、“アズールヘブン”に関わりがあったのかもしれません」
「それで、あなたはなんでノエリウムを使ったんですか」
「使いたくて使ったわけじゃ…そもそもどうやったら使えるなんてわからなかったし…」
「それでも!一度、時間が巻き戻ったら、普通はおかしいなって思ってしまったりするものでしょう!」
「う…それは…何故か手放しちゃいけない気がして…」
「その結果、朝陽さんの存在は喪失してしまったんですよ!私の担当しているノエリウムが使われて、所有者は喪失……絶対、怒られるやつだー!」
天を仰ぎ、頭を掻きむしりながら嘆くシィロに、伊織は恐る恐る尋ねた。
「な、なぁ…代償って、やっぱり…」
シィロは伊織の顔を見ると、取り乱したように言った。
「そうです!お察しの通り、存在の喪失です!記憶も!記録も!全て!」
「で、でもさ。なんで、空だけ朝陽のことを覚えてたんだ?それだったら空も忘れてても、おかしくないだろ?」
その仮定を想像し、空は少し背筋が凍った。
(…もし、俺も忘れていたら、朝陽は誰にも気付かれないまま…)
「…それは恐らく、空さんの想いの強さと、朝陽さんのノエリウムを所持していたことによる結びつきが起こした”例外”です」
「そっか…想いの強さね…」
空を見てニヤニヤとしている伊織を、無視するように、シィロに向き直る。
「シィロさん…観察してたんなら、どうして、俺がノエリウムを拾う前に回収しなかったんだ?」
「それは!……私がやっと見つけたってときにあなたが拾ったんですよ…」
「やっと…?まさか、見失っていたのか…?」
シィロはバレてしまった、という表情で空を見た。
「あ、それはですね……えーと、その……“場所”が分からなかったんです。地球にあるってことしか!」
「ざっくりすぎんだろ!地球広ぇよ!?」
「そ、それで……途方に暮れて、彷徨ってたら、天音 あかりさんに拾われて……」
「……拾われて?」
「あったかくて、ご飯ももらえて……なんかこう、居心地が……すごくよかったんです……」
「お前……サボってたな?」
伊織は呆れ気味に突っ込んだ。
「サボってません!……ちょっと、情が移っただけです!」
完全に焦った顔となったシィロに、空は小さく息を吐いて告げた。
「…わかったよ、シィロさん。ノエリウムを使ったことは…本当に取り返しのつかないことをしてしまったと思ってる」
「………」
「俺に何か償えることがあるなら、いくらでも償いたい」
「……先ほども言いましたが、代償はすでに朝陽さんによって払われています。ですので、残念ながら、あなたにできることは何もないんです…」
シィロは悲しそうに空に告げた。
「なぁ、シィロさん、ほんとに何も出来ないのか…?」
空は縋るような目でシィロを見た。
「…どういう意味ですか?」
「二人で話してたんだ。存在が消えたんなら、戻す方法もあるんじゃないかって」
「ああ…だから、俺たちはシィロさんを探してたんだ」
「……それは…たぶん難しいです。喪失した存在が戻ったなんて記録は何処にもありません……いえ、もしかしたらアズールヘヴンに行けば何か判明するかもしれません…けど…」
空と伊織は目を合わせて頷いた。
「シィロさん、アズールヘヴンの行き方を、教えてもらえないかな?」
「……教えられません」
「どうして…!」
「外の世界の人間を、アズールヘヴンには入れてはいけない決まりなんです…」
「お願いだ、シィロさん!アズールヘヴンに行けば、わかるかもしれないんだろ?朝陽を…朝陽を取り戻すためなんだ!」
「俺からも、頼むよ、シィロさん!こいつ、存在が忘れないくらい朝陽のことを大事に思ってるんだよ」
「…………分かりました。」
「え…」
「分かりましたよ!アズールヘヴンへの行き方を教えますよ!」
「ありがとう、シィロさん!」
空が素直に手を取って感謝を伝えると、シィロは慌ててその手を振り払った。
「…でも、私から聞いたって言わないでくださいね…怒られちゃうので…」
少しだけ顔を赤らめて、シィロは顔を背けた。
「本当は……私は、ただ記録するだけの記録者ですから…」
空の方に顔を戻し、真面目な顔をして続けた。
「ただのシィロとして、空さんたちの行く末を、見守りたいんです」
二人を、そしてここにいない朝陽を見ているように微笑んだ。
「だから、その時まで、最後まで、記録させてくださいね」
「…ありがとう」
シィロはこほんと咳をすると、話題を変えた。
「では、アズールヘヴンの行き方についてを話しましょう。そもそも、アズールヘヴンというのは想いと記録の狭間にある世界、本来、行ける場所ではありません」
「なら、どうやって行くんだ?」
「私たち、記録者は、アズールヘヴンから出る鍵を所持しています」
「…だったら、それを使えば…?」
「いえ、鍵は記録者、一人ひとりにリンクしているため、他の人が使うことはできません」
シィロは少し息を吸って続けた。
「ですので、鍵を作ります」
「…鍵を」「…作る」
「そうです。空さんの想いの強さ。それに、朝陽さんの痕跡は残響としてこの世界に、少しですが留まっています。それを集めて合わせれば…ひとつは、鍵が作れる…とは思いますが…」
「何か問題でもあるのか?」
「…本来は鍵を作ることは記録者の仕事ではないので、どれくらいの時間がかかるか…そして、恐らくですが…鍵は使い切りになります…」
「行ったら、戻れないってことか?」
伊織は目を見開いて、シィロに詰め寄った。
「…ごめんなさい」
シィロは唇を噛んで、俯いた。
「…大丈夫、朝陽を取り戻すためだ。俺はやるよ」
「空!?」
「伊織、ありがとうな、お前が居なかったら、たぶんまだ俯いたままだったと思う」
伊織に向き直り、気持ちを伝える。
「でも、これ以上は危険だ…だから…」
「危険だからって、親友を放って逃げるわけないだろ!」
「…伊織」
「それに、まだ痕跡集めだってするんだろ、最後まで付き合わせろ!」
伊織の怒りすら籠った瞳を見て、空は頷いた。
「…わかった、行こう、アズールヘヴンに!シィロさん、鍵作りお願いするよ!」
「……わかりました。空さんたちの記憶、想い、願い。確かに“記録”しました。……後、シィロでいいです」
シィロはまた顔を赤らめて、顔を背ける。
「……ありがとう、シィロ」
「よし!善は急げだ!行こうぜ!」
「…いえ、待ってください」
シィロは伊織を止めた。
「……まだ、しっかりとお伝えしていないことがあります」
空と伊織が顔を見合わせる。
「鍵を作っても、それを“奪おうとする存在”が、もうこの世界に現れています」
「先ほど出会った、“トガビト”——あの黒い影は、ノエリウムを狙ってやって来たものです」
「アイツら……何なんだよ、結局?」
「……ノエリウムに惹かれて、存在の境界を越えてきた“異物”です。目的は不明ですが、記録には“所有の交替”や“意図的な干渉”の痕跡が複数残っています」
「……朝陽のノエリウムを……奪おうとしてる?」
「可能性は高いです。だから、また狙われるかもしれません」
「…それに見習いの私では威嚇程度しか…」
「……」
二人は息を呑んで黙り込む。
「…でも、行くしかないんだよな」
空は静かに、でもはっきりと視線を持ち上げた。
その瞳には、あの教室で朝陽の名を呼んだときと同じ色が灯っていた。
「…そうだな…シィロ、さっき遭遇したトガビトの近くにあった植物が枯れていたんだけど、どうしてなんだ?」
「……トガビトは、様々な存在の願いや想いも奪っている可能性があります、ですので、逃げることが出来ない植物は成長したいと言う願いを奪われてしまったのでしょう…」
シィロは少し遠くを見るように思案している。
「……ってことは、触れられたりしたらヤバい…?」
伊織の言葉に、シィロは頷いた。
「…そうですね、記録者であれば少しは問題ないと思いますが…伊織さんたちは触れられないように気を付けてください」
「……頑張るよ…」
伊織は乾いた笑いをあげた。
そのやり取りを見ながら、空を決意を固めていった。
(……朝陽。君を取り戻す道が、ようやく見えた気がする。この手にもう一度、届くなら——たとえその先に、帰れない未来があったとしても、俺は……)




