第一話: 転校生の朝
朝の教室は、ざわめきに満ちていた。
窓の外では、蝉の声がもう始まっている。風のない朝。青空に浮かぶ雲はひとつもなく、日差しだけがぐんぐんと気温を押し上げていた。
天音 空(あまね•そら)は、自分の席でぼんやりと頬杖をつきながら、教室のざわめきを聞き流していた。
夏の空はまぶしい。見上げるだけで目が痛くなるほどだったけれど、不思議と嫌いじゃなかった。
「なあ、転校生ってマジか?」
「マジマジ!さっき先生が言ってたよ。今日から来るって」
「珍しくね? この町に引っ越してくるなんてさ……」
周囲の会話が、少しずつ明確な方向を持ち始める。空もまた、それを無意識に聞いていた。だが、特に何かを言うでもなく、ただ机に頬を乗せたまま、窓の外の空を見ていた。
やがて、ガラリと教室のドアが開いた。
担任の先生が入ってくる。そして、そのあとに続く一人の少女。
「今日からこのクラスに転入してくる、天音 朝陽(あまね•あさひ)さんです。天音さん、ひと言どうぞ」
少女は前に出ると、ゆっくりと一礼した。
「……天音朝陽です。よろしくお願いします」
その声は、小さくて、けれどよく通った。
空は、顔を上げた。
やっぱり、昨日の——あの少女だった。
光の中で見た輪郭、目が合ったときの静かな視線。すぐにわかった。間違いようがなかった。
けれど、朝陽の表情は無機質だった。どこかよそよそしく、誰にも興味がないとでも言いたげな、そんな空気を纏っている。
「……天音?」
空は、思わず口の中でつぶやいた。
それは、自分と同じ苗字だった。
教室内に、少しだけ不思議な空気が流れた。
天音 朝陽。
その名前を聞いて、隣の席の女子が小さく「え、天音って……」とつぶやいたのが聞こえた気がした。けれど、担任はそれには触れず、淡々と黒板の端を指差す。
「朝陽さんの席は、あそこね。空の斜め後ろ。天音と天音が並ぶのは珍しいな」
朝陽は少し頷くと、自分の席に向かっていった。
何人かがクスッと笑った。空は苦笑いを浮かべながら、一応振り返って会釈する。
朝陽は、それを一瞬だけ見て、すぐに目を逸らした。
まるで、“話しかけないで”とでも言いたげに。
朝陽が加わった教室。
椅子を引く音も、教科書を机に置く音も、とても静かだった。
その静けさが、逆にクラスのざわめきを引き締めた気がする。
午前中の授業中、朝陽は一度もノートをめくる音を立てなかった。教師の言葉に頷くことも、誰かと目を合わせることもなかった。ただ、真っ直ぐ黒板を見つめている。
それだけで、「関わらない方がいいかも」という空気ができあがっていくのがわかった。
けれど空は、何度か無意識に後ろを気にしてしまっていた。
(都会の子、って感じだな)
制服は同じでも、着こなしの雰囲気がどこか違う。持ち物も、仕草も、全部この町の空気から少し浮いている。だけど——それが、不思議と嫌じゃなかった。
否、むしろ目を引かれる。
理由は、自分でもよくわからなかった。
(やっぱり、昨日の子だよな……)
引っ越しトラックの傍で目が合った、あの一瞬が脳裏に浮かぶ。
風が吹いて、髪が揺れて、光の中で静かに立っていた少女の姿。
あのまま夢だったとしても不思議じゃないような、そんな光景だった。
休み時間、朝陽の席の周りには誰も集まらなかった。誰かが話しかける様子もない。
朝陽はと言えば、ただ教科書を開いたまま、淡々とページをめくっていた。
教室の空気が、少しだけ遠巻きにざわめいている。
「無愛想っていうか、怖くね?」
「ちょっと話しかけづらいかも……」
そんな声が、ひそひそと後ろから漏れてくる。
空はふと、それを聞いて、妙な違和感を覚えた。
(……怖い、って感じじゃないけどな)
ただ、不器用なだけのようにも見えた。
不器用で、そしてどこか、孤独そうに見えた。
昼休み。
教室のざわめきが少し静まり、弁当のフタを開ける音と、ジュースのストローを刺す音があちこちで響いている。
空は購買のパンを手に、自分の席に戻った。斜め後ろでは、朝陽が机の上に文庫本を開いたまま、静かにお茶を飲んでいる。
(昼休みも、一人か……)
誰も話しかけていない。本人も、話しかけられるのを拒んでいるような雰囲気があった。
空はパンをかじりながら、ちらりと横目で彼女を見た。
文庫本のページをめくる細い指先。読みながら、時折ふっと目を伏せる表情。
(……やっぱ、都会っぽい)
制服の着こなしもそうだけど、言葉じゃなく“距離感”で周囲と壁を作っている感じがした。
意識しないようにしているのに、気づけば目で追ってしまっている。
パンをもぐもぐやりながら、空はふと思い立って声をかけてみる。
「あのさ、文庫本、何読んでんの?」
数秒の沈黙。
朝陽は顔を上げた。けれど、返事はなかった。
ただ一瞬だけ視線を向け、また静かにページをめくる。
まるで、何も言われなかったかのように。
「あ……いや、別に……」
空はパンの袋をぐしゃりと握った。
目が合ったとき、ほんの少しだけ、彼女のまつげが震えた気がした。けれど、それが風のせいだったのか、それとも何かを堪えた仕草だったのかは、わからなかった。
授業が終わり、教室がざわめきとともに崩れ落ちるように解散していく。
空は鞄を肩にかけながら、廊下を歩いていた。すぐ隣では伊織が菓子パンをかじっている。
「なあ、さっきお前さ、朝陽に話しかけてたよな?」
「……聞こえてたのかよ」
「おう。てか、お前、気にしてるだろ?」
「してねーよ。ちょっと気になっただけだって」
「それを“気にしてる”って言うんだよバーカ」
伊織がニヤニヤ笑いながら、空の脇腹を肘で突いた。
「だって、わかりやすいもん。“ああいうタイプ”、お前弱いだろ?ちょっと冷たそうで、でも実は優しいやつに惹かれるんじゃね?」
「……お前、それ全部偏見だぞ」
空は軽く睨み返しながら歩く速度を早めた。
だけど、自分でも気づいていた。
気にしていないつもりなのに、あの一瞬の“無反応”がずっと頭から離れなかったことに。
家に続く坂道。日が落ち始めて、空が少し赤みを帯びていた。
空は、自転車のカゴに鞄を乗せたまま、ペダルを踏まずに下り坂をのんびりと歩いていた。
ポケットの中に手を入れると、指先にあの“かけら”が当たる。
淡い空の色をした、あの小さな光の粒。
(……なんなんだろ、これ)
拾ってからずっと持っているのに、どうしても“ただの石”だとは思えず、捨てる事が出来なかった。
朝陽と目が合ったとき、一瞬だけ、かけらが熱を持った気がした。
(まさかな)
ありえない、と笑い飛ばすには、その感覚がやけに生々しくて。
空は坂の途中で立ち止まり、ゆっくりと見上げる。
空は青く、広かった。けれど——どこか遠くに、何かがあるような気がした。
「……なんで、あんなに気になるんだろ」
誰に聞かせるでもなく、空はぽつりとつぶやいた