第十七話:この世界に、君はいない
朝陽はこの日、この世界から静かに、消えてしまった。——まるで、はじめから“いなかった”かのように。
そして空だけが、彼女を覚えていた。
けれど——
(……本当に?)
頭では理解していても、心のどこかではまだ、信じたくない気持ちが残っていた。
夢だったんじゃないか。冗談のように、どこかで「おはよう」と笑って教室に入ってきてくれるんじゃないか。
そんな淡い期待が、空の中でくすぶっていた。
しかし、現実は——残酷だった。
朝のチャイムが鳴り、担任の加納先生がいつものように教室に入ってくる。
「よーし、席に付けー。出席とるぞー。返事してくれよー」
持ってきた教科書を教壇に置きながら、加納先生は出席簿を手に、無造作に読み上げていく。
いつもの、飄々とした口調。空の耳に、その声が妙に遠く感じられた。
「青山」「はい」「石田」「はい」「伊織」「はーい」
テンポよく返事が返る中、空は意識を集中させた。
自分の名前の前後——朝陽の名前が呼ばれるはずの瞬間。
……けれど、次に呼ばれたのは、まったく別の名前だった。
「佐原」「はい」
(……飛ばされた?いや、最初から無かったみたいに……)
躊躇いながら、手を上げる。
「せ、先生……」
「ん?どうした空。なんかあったか?」
「あの……天音、朝陽って……今日、欠席なんですか?」
教室の空気が、ふっと静まり返る。
加納先生は出席簿を見返しながら、眉をひそめた。
「……誰だって?天音……?」
「天音 朝陽です。……先週、転校してきた……」
「いや……そんな名前の生徒、このクラスにはいないぞ?」
「え……でも……昨日まで……」
先生の口調はいつも通りだったけれど、どこにも冗談の気配はなかった。
「本気で言ってるのか、空?」
「……っ!」
教室のあちこちから、ざわざわとした視線が集まってくる。
「おい、マジでどうしたんだよ空」「天音?誰それ?」「なんかの小説のキャラ?」
ざわめきと疑問の渦のなか、空は立ち尽くしていた。
(……やっぱり、先生も、クラス全員も……本当に、朝陽のことを……)
心の奥で、何かが深く沈んでいく音がした。
休み時間。チャイムの音が遠くに響いても、空の耳にはまともに届いてこなかった。
机に突っ伏したまま、ゆっくりとスマホを手に取り、画面をなぞる。
何度も見たメッセージアプリ。ログも、写真も、連絡先も、全てをもう一度——いや、何十度目かの確認。
……それでも、やっぱり見つからなかった。
数日前までやりとりしていた朝陽のメッセージが、痕跡ごと綺麗に消えている。
通知履歴も、キャッシュも、クラウドバックアップさえも検索した。
「天音朝陽」の名前はどこにも存在していない。
(こんなこと……あるわけ、ないだろ)
朝陽のことを夢にでも見ていたんじゃないかと疑うには、記憶が鮮明すぎた。
教室で見せたあの表情、帰り道の沈黙、ふいに笑った声。
全部、空の中には残っているのに——この世界のどこにも、その“存在”は見当たらない。
出席番号表。クラス名簿。提出された宿題。どれも、すべてから朝陽の名が抜け落ちていた。
まるで、最初からこの教室にいなかったかのように。
朝の授業も先生は初めから存在していなかったかのように、出席を取った。
斜め後ろの席。昨日まで朝陽がいた場所には、別の女子が座っていた。
机の上には新品の筆箱と可愛らしいマスコット。
視線を落とすだけで、胸の奥が痛んだ。
(違う……そこは、朝陽の席だった)
昨日まで、そこには朝陽のゆるく巻かれたヘアゴムが置いてあって、授業中も空と目が合えば、小さく微笑んだ。
けれど今、その気配は完全に塗り潰されていた。
いつもの教室。いつものクラスメイト。しかし、空だけは違和感を感じてしまう。
(嘘だ…信じたくない…どうして皆、覚えてないんだ…)
「空ー?……まだ、そのアサヒさん?って子のこと気にしてんのか?……って、おい、待てって!」
心配そうにしている伊織を背に空は、朝陽と話した階段の踊り場に向かった。
(ここで朝陽と、話したんだよな…)
踊り場の階段に腰掛けてポケットからひびの入ったノエリウムを取り出す。ノエリウムは空が触れた一瞬、淡く光ったような気がした。
(…今、光った?)
空はノエリウムを握りしめて、強く願った。
(ノエリウム!朝陽を…!戻してくれ!転校してきた時間まで巻き戻してくれ!)
空の願いも虚しく、ノエリウムが光ることも、応えることもなかった。
(今までみたいに勝手に…反応しろよ!)
空はノエリウムを握った手を振り上げ、力なく下ろした。
指先がじわじわと痺れていく。
それだけだった。祈りも、願いも、どこにも届かない。
(…反応…してくれよ…)
どうしようもない現状に頭を抱え涙を流す空。そこに伊織が現れた。
「空…こんな所にいたのか…。なぁ、大丈夫か?」
涙を流す親友の姿に、伊織は慌ててしゃがみ込んで空の顔を見た。
「………」
何も答えられない空に、伊織は続けて問いかけた。
「教室で言ってた。アサヒ、さん?…って誰なんだ?うちのクラスにいたって言ってたよな?一体、どういうことなんだよ?」
「………」
涙は止まることを知らず、空の頬を濡らし続けている。
「なぁ!何かあるなら言ってくれよ!俺たち、親友だろ!」
「……こんな話、普通信じられるわけないだろ…」
伊織は空の頭を掴んで顔を上げさせた。
「親友の言うことを信じられないで、何か親友だよ!良いから言えよ!」
真っ直ぐな瞳でこちらを見る伊織に、空の瞬きをして、腕で涙を拭った。
「……意外と、綺麗な目をしてんのな…」
「伊織さんの目はいつでも綺麗だっての」
伊織は笑う空を見て、いつもの調子を少し取り戻したように感じた。
それから空はぽつりぽつりと話し始めた。
あの始まりの日から、何があったのか——
神社での出来事。拾った、不思議な“かけら”。
転校してきた少女、朝陽のこと。
彼女と出会ってからの日々。偶然の再会、肝試し、白い影——“トキビト”の存在。
そして、“時間の巻き戻し”。
「……俺、無意識のうちにさ。“かけら”を使って、何度か時間を巻き戻してたんだ」
伊織はぽかんと口を開け、しばらく何も言わなかった。
「……なにそれ、SF?」
冗談めかした声。けれど、その瞳は真剣だった。
「俺も最初は、信じられなかった。でも……何度も、“やり直した”んだ。肝試しでの怪我も……あかりの死も……」
空の声は震えていた。
伊織の顔色がゆっくりと変わっていく。
「……そんなの……」
「そしたら、代償が来たんだ。……朝陽の存在が、少しずつ、世界から消えていった」
伊織は深く息を吸い、静かに問いかけた。
「……でも、お前はちゃんと覚えてるんだよな?」
空は小さく頷く。
「だったら……朝陽って子は、“確かにいた”んだよな?」
「……ああ。いた。俺の、いや、俺たちの目の前に、ちゃんといた」
伊織はゆっくり、立ち上がり、しばらく黙っていた。
空はうつむいたまま、返事を待つのが怖かった。
けれど次の瞬間、静かに落ちたその言葉は、空の中の“孤独”を、確かにひとつ崩してくれた。
「……だったら、俺はその子の味方になるよ。空、お前が忘れたくないって言うなら、俺は信じる」
「伊織……」
「それにさ。時間を巻き戻すとか、存在が消えるとか、ファンタジーっぽいことが起きてんだろ?
だったらさ——“戻す”力があっても、不思議じゃないよな?」
空は、思わず目を見開いた。
——そのとき、ポケットの中のノエリウムは、空の掌の中で“どくん”と鼓動するように、ひときわ強く脈を打った。
それはまるで——もう一度、空の決意に応えようとしているようだった。