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そらのかけら  作者: 夜と雨
第四章:欠けていく記憶
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第十六話:祈りの果て、残された記憶

 玄関の扉を開けた瞬間、外気温で生ぬるくなった雨が容赦なく空の頬を叩いた。

 しかし、傘を取りに一度、自宅に戻るという選択肢は、既に空の中にはなかった。


(頼む……頼むから……)


 スニーカーを濡らしながら、夜の町を駆けていく。

 点在する街灯が、焦る空の影を地面に映し出す。


 駆ける足で水たまりが跳ね、舗道に溜まった雨水がズボンの裾を更に濡らしていく。

 雨に濡れても、息がいくら上がっても、足は止める気にはならなかった。


 空が真っ先に向かったのは神社の前、川沿いの道。

 ——あの“白い影”と出会った場所だった。


「どこにいる……出てこいよ……!」


 空は濡れた前髪をかき上げ、薄闇の向こうを睨みつけ声を上げた。


「……あのときみたいに、また現れてくれよ……!」


 苛立ちが混じり、懇願する声は雨に呑まれ、夜の空に吸い込まれていった。


「……お願い…だから……」


 何も返ってこない。風の音と、雨音だけが辺りに響く。


 空は濡れたままの手で息を吸い、ふっと力が抜けたように地面に膝をついた。


「……なんなんだよ、これ……」


 強く握り締めた拳に、爪が食い込んで白くなる。


「…なんなんだよ!…俺が……使ったんだ。俺が“かけら”を……!」


「なのに、なんで……!」


 雨に濡れた石畳に拳を叩きつける。皮膚が擦れて、じわりと痛みが走る。


「……なんで、朝陽なんだよ……」


 声は怒鳴り声ではなく、絞り出すように震えていた。

 掴んだ石は、握りしめたまま手の中で沈黙し、ただ指先だけがじんと痛んだ。


「“奪われる”なら、俺だろ……っ。使ったのは……俺なんだよ……!」


 雨に濡れた髪の先から、雫がぽたぽたと頬を伝う。

 それが涙なのか、もう空にはわからなかった。


「なんで……なんで、朝陽が消えていかなきゃいけないんだよ……!」


 嗚咽に近い声が、夜の空に溶けていく。

 胸の奥が焼けるように痛い。心のどこかで、自分が原因であることを理解している。

 でも、それが納得できなかった。


(こんなの、理不尽すぎるだろ……)


 両手で頭を抱え、空はその場にしゃがみ込んだ。

 雨は、止む気配もなく降り続いていた。


 鼓動だけが身体の奥で強く鳴っている。もう、どれくらい走っていたのかもわからなかった。

 靴はびしょ濡れで、体は芯まで冷えていた。


 空を見下ろす夜空は暗く、どこまでも遠かった。

 雨音だけが世界のすべてを包んでいるように思えた。



 リビングの扉。廊下の向こうで、カチャリと玄関の鍵が回る音がした。


(……こんな時間に?)


 父がまた仕事に戻ってしまい、ソファに膝を抱えていたあかりは、音に反応して顔を上げた。

 ぼんやりとついたままのテレビには、深夜番組の静かなBGMが流れている。けれど、さっきの”音”だけが、妙に耳に残っていた。


 こんな時間に誰が——。


 そう思って、ソファから身を起こし、そっと廊下を覗く。

 あかりの視界に入ったのは、玄関のドアに手をかけている兄の後ろ姿だった。


「……お兄ちゃん?」


 小さく、問いかけるように呟いた。

 でも、声は自分の喉の奥で詰まり、空には届かなかった。

 なぜだか胸の奥に何かを押しとどめるような違和感があった。


 やがて、兄は靴を履き終え、雨の匂いを引き込むように、そっとドアを開けた。


 玄関の外からは、地面を叩くような雨の音。夜の空気、雨の匂いが、家の中へと薄く流れ込んでくる。


 そのとき、兄の横顔がちらりと見えた。


(……違う)


 その顔は、いつも知っている優しい兄の顔じゃなかった。

 少し強ばった頬、何かを飲み込むような無言の目つき。

 後ろ姿からも伝わってくる、張りつめた空気。——まるで、自分を責めているような背中だった。


(……最近、変だったよね)


 ふと、ここ数日のことが頭をよぎる。


 食卓での無言。返事までに少し時間がかかるようになった会話。

 あかりの言葉に笑ってくれたけど、その目が笑ってなかったこと。


——今思えばずっと、どこか遠くにいるみたいだった。


(やっぱり、なにか……あったんだ)


 あかりは急に、胸の奥がザワッと熱くなった気がした。

 何も考えられなくなった。代わりに、体が勝手に動いていた。


「お兄ちゃん……!」


 かすれる声がやっと出たときには、すでに扉は閉まっていた。


 兄の背中を追いかけるように、あかりは玄関へ駆け出していた。


 傘も、スマホも身に付けることを忘れたまま。

 玄関に転がっていたスニーカーに足を突っ込む。紐を結ぶ時間も惜しい。そう感じ、そのままドアを開けた。


 冷たい風と、濡れたアスファルトの匂いが、一気に体を包む。

 遠くで雷の音が聞こえた気がした。


 でも——それよりも気になるのは、兄の背中だった。


(ねえ、お兄ちゃん……どこに行ったの?

 なにがあったの? なにを追いかけてるの……?)


 心の中で問いかけながら、あかりは雨の夜の道へ、迷いなく踏み出した。



 あかりは雨の中、兄を探すために走った。

 どこに向かったかなんて、心当たりは全くなかった。兄が心配⸻ただそれだけがあかりの足を動かしていた。


(お兄ちゃん…!何処に行ったの?)


 息を切らして走る。


「イタッ!」


 足をついた地面が悪かったのか、あかりは足を捻って転んでしまい、手をついた。


「くそう…お兄ちゃん…見つけたら、絶対、限定のプリン買ってもらうんだから…」


 少し涙目になりながらも、立ち上がり駆け出した。


 学校、図書館、コンビニなどあかりが思いつく場所は全て回ったが、空は何処にも見当たらなかった。


(…見つからない…もう…お家に帰っちゃったのかも…一度帰ってみてもいいかも…)


 泣きそうになりながら、あかりは一度、家路に着くことにした。


(何かあったら言ってねって…言ったのに…。お兄ちゃんのばか…)


 下を向きながら1人、トボトボと歩く。


 雨は弱まる気配もなく、空からぽたぽたと音を立てて落ち続けていた。

 あかりの髪も服もすっかり濡れて、体の芯まで冷え始めている。


 だけど、足はゆっくりと動いていた。

 帰り道。見慣れた交差点の角を曲がったときだった。


 ——ぽつんと、信号待ちしている誰かの後ろ姿が目に入った。


(……お兄ちゃん?)


 一瞬、心臓が跳ねた。

 走り出しかけて、けれど次の瞬間、その背中が違う誰かだと気づき、足を止める。


(なんだ……違った……)


 でも、少しだけ笑ってしまった。なんだか、涙がこぼれそうだった。

 悔しくて、情けなくて、それでもどこかあたたかくて。


(……帰ったら、文句言ってやる。心配したんだからねって……)


 あかりは小さく息を吐いて、空を見上げた。


 ——そのとき、街の明かりに霞んだ雨の向こうで、パッとヘッドライトの光が浮かんだ。


 左右を確認せず、ゆっくりと横断歩道を渡ろうとした自分に、何かが向かってきていることに気づいたのは、その瞬間だった。


 世界が、スローモーションになったようだった。


 強い光。濡れた地面を滑るタイヤの音。

 遠くで誰かが叫んでいる気がしたけど、もう何を言っているのかはわからなかった。


(——ああ、やだな。お兄ちゃん、泣かないでよ)


 最後に、あかりの瞳に映ったのは、真っ白な光だった。


 


 ——ブレーキ音が、夜の町に鋭く響き渡った。



 空は神社の階段に座り込み、膝を抱えて俯いていた。

 どれだけ探しても、あの日出会った”白い影”はどこにもいなかった。


 雨はまだ止まず、冷たいしずくが髪を伝って滴り落ちる。遠くのほうで、かすかにサイレンの音が聞こえていた。


(……どうすれば、いいんだよ)


 繰り返し、同じ疑問が頭の中で反響しては、霧のように散っていく。


 雨と汗と涙の境界線が曖昧になっていく中、空はゆっくりと立ち上がった。

 濡れた体はひどく重くて、自分のものでないような感覚だった。


(……帰ろう。もう一度……考えよう)


 そう思った瞬間、ポケットの中でスマホが震え、雨音の中に着信音が響いた。


 空は緩慢な動作でスマホを取り出すと、画面には母さんの名前が表示されていた。


(……母さん?こんな時間に?)


 胸の奥に、嫌な予感が差し込んだ。

 空はためらいながらも通話ボタンを押す。


「……もしもし、母さ……」


『あかりが!あかりが…!!』


 母の叫ぶような声が、スマホ越しに爆発するように響いた。


「……は?…ま、待って、落ち着いて!あかりがどうしたの?」


 母さんは興奮が収まらないのか、やはり慌てたように答えた。


『あかりが……外で事故にあって……青岐病院に運ばれたって……!』


 言葉の意味を理解した瞬間、空の視界が一気に暗くなった。


 呼吸が浅くなる。頭が真っ白になり、母の声も、雨音も、現実感さえ遠のいていく。


(……なんで……なんであかりが外に……?)


 瞬間、胸の奥に、ひとつの最悪な想像が閃いた。


(まさか——俺を……追ってきた……?)


 震える指先。ぎゅっと奥歯を噛みしめる。

 全身に広がる、ひどく冷たい後悔が心臓を締め付けた。


(違う……違うだろ……俺のせい、なのか……?)


 鼓動が速くなる。世界がぐらりと揺れる。


 そして次の瞬間、空は走り出していた。

 雨の中、泥にまみれたスニーカーで、水たまりを踏み抜きながら。


(無事でいてくれ……あかり……!)


 誰にも届かない祈りを叫びながら、空は夜の闇を切り裂くように駆けていく。

 目指す先は、あかりの運ばれた青岐病院。




 十数分ほど走って、ようやく青岐病院の光が見えた。


 肩で息をしながら救急入口に駆け込み、受付カウンターに身を乗り出す。


「はぁ……はぁ……あのっ!さっき運ばれた……天音あかりって子は……!」


 受付の男性が一瞬驚いた顔をした後、落ち着いた声で答えた。


「天音さん……少々お待ちください、確認いたします」


 男性は内線に手を伸ばし、どこかへ連絡を取る。けれど、わずか数十秒が永遠のように思えた。


(お願いだ……生きててくれ……!)


 すると、奥から白衣の看護師が駆け寄ってきた。


「天音さんのご家族の方ですね? こちらへ!」


 案内されたのは、カーテンで仕切られた救急処置スペースの一角。


 その中、白く照らされたベッドの上には、無言で横たわるあかりの姿があった。


 口には人工呼吸器。点滴とモニター。身体にはいくつものチューブが繋がれ、周囲からは一定の電子音だけが鳴り続けていた。


 母が、その小さな体に縋るように泣いていた。


「……空……あかりが……!」


 空は一歩、踏み出した。

 あかりの顔は、ほんの少し傷がついているだけだった。けれど、その静かすぎる呼吸と、重たすぎる沈黙が、何よりも“現実”を物語っていた。


「手術は!? 治療は!?」


 空の問いに、駆けつけた医師が苦渋の表情で口を開いた。


「……頭部を強く打っていて……脳幹の損傷がひどいんです。今は昏睡状態で、呼びかけにも反応がほとんどありません。私たちにできることは、正直……」


「嘘だろ……!?」


 父も息を切らせながら病院に入ってきたが、その場の空気で事態を察したのか、ただ口を噤んだ。


「ですが……意識は微かに残っているかもしれません。反応が、ほんのわずかですが、ありました」


 そう言って、看護師が空に譲るように一歩下がる。


 空は、震える足取りであかりのベッドの傍らに立つ。


「……あかり」


 その名前を呼ぶと、小さく指先が動いたように見えた。


「お兄…ちゃ…ん……?」


 微かな声。夢の中から呼びかけるような、かすれた声。


「あかり……! ごめん、ごめんな……俺が……俺のせいで……!」


 あかりの瞳がわずかに開き、空を見つめる。


 微笑んだ。ゆっくりと、何かを許すように、空の手を探すように指が伸びてきた。


「……ないて、たら……だめ、だよ……わらっ、て…お兄……ちゃん」


 空はその手をしっかりと握りしめた。


「   」


 あかりの口元が微かに動いた。


 そして——


 心拍モニターの音が、唐突に長い、一本の線を描いた。


「……あかり!?」


 泣き叫ぶ声に、母も父も駆け寄ってくる。

 医師が呼ばれ、必死の蘇生措置が始まるが——それでも、戻ってこなかった。


 空の脳裏に、“あかりとの何気ない思い出”が一気に溢れ出す。

 笑っていた。怒っていた。お菓子を巡って喧嘩して、誰よりも、空のそばにいた。


「いやだ……あかり……!」


 空の手は、あかりの手を離せずにいた。


「……嘘だろ……こんなの、嘘だ……」


 頭では理解しようとしているのに、心が絶対にそれを拒んでいた。


 (こんなの…間違ってる…だって、さっきまで家にいたのに…プリンのことで笑っていたのに…)


 その光景が、まるで走馬灯のように、空の脳裏を駆け巡る。


 


 ——「お兄ちゃん、そのプリン食べたでしょ!」

 ——「え?俺じゃないってば」

 ——「ウソつけ!わたしのプリン〜〜!!」

 ——「あとで買ってやるって、な?」

 ——「ほんと?絶対だよ?」


 


 まぶたの裏に浮かぶのは、

 あのときの笑顔。

 ふざけあった声。

 手を引いて歩いた夏の日。

 泣きじゃくって、自分の背中にしがみついた日のこと。


 


「——やだよ……」


 空の喉から、子どものような、掠れた声が漏れた。


「……返してよ……っ、あかりを……!」


 叫んだ。

 でも、何も起きない。

 何も戻らない。


 それでも空は、あかりの手を握ったまま、祈るように首を振った。


 


「俺のせいだろ……俺が出ていかなきゃ、こんなことには……!」


 呼吸が荒くなっていく。

 視界が歪む。

 身体中がちぎれるように熱くて、冷たかった。


 


 ——そのときだった。


 


 ポケットの中で、“何か”が脈を打った気がした。


「……っ!?」


 空が思わず取り出したのは——“机にしまっておいたはずの、かけら”だった。


「……なんで、ここに……?」


 触れた指先が熱を帯びる。

 ノエリウムが、淡く赤く、脈打つように光を放ち始める。


 


(……俺、願ってなんかない……!)


(けど……)


(こんなに……願ってる……!)


 


 その瞬間だった。


 ——音が、消えた。


 ——視界が、流れた。


 まるで、時間そのものが軋みを上げて、巻き戻されていくように。


 空の頬を伝う涙も、そのまま上へと引かれていく。


 


 “かけら”が、強く光を放ち——


 世界が、塗り替えられた。


 世界が、ぐにゃりと歪んだ。


 光も、音も、雨も——

 全てが反転するように、後ろへ、後ろへと流れていく。


 救急車のサイレンが逆再生され、

 あかりの手が空の手から離れ、ベッドに戻っていく。


 意識も、感覚も、ぐらついて、倒れそうになる。

 けれど、空の中にあったのは、ひとつの強い想いだけだった。


 


(もう……絶対に、同じことは繰り返さない)


(あかりを——守る)


 


 光が、弾けた。


 そして——


 


 ——雨の夜道。


 


 再び、視界が戻ったとき、空は自分が神社前の道に立っていることに気づいた。


 膝に手をつき、息が上がっていた。


 さっきまでの記憶は鮮明に残っている。

 病院、あかりの手、モニター音、あの光景——全部。


「戻った……」


 言葉にして初めて、状況を理解する。


 空がポケットから取り出したそれは、まるで砕けた硝子のように細かいひびが無数に走っていた。

 中の光は淡くなり、もはや“脈動”ではなく、“余韻”のように静かに灯っていた。


「……!」


 そのとき、道路の先。

 ちょうど交差点へ足を踏み出そうとする、小さな後ろ姿が見えた。


 あかりだった。


 フードも被らず、ボロボロのスニーカーで、よろけながら歩いていた。


「……あかり!!」


 空は反射的に叫び、走り出した。


 


 遠くから車のライトが迫ってくる。


 ちょうど、あかりが横断歩道へ差しかかる、その瞬間——


「危ない!!」


 空はあかりの身体を思いきり抱きかかえ、そのまま道路脇へと倒れ込んだ。


 キィィィ——ッ!!


 直後、ブレーキの音が悲鳴のように響いた。


 ほんの一瞬でも遅れていたら、確実に間に合わなかった。


 


「あかり! 大丈夫か!?」


 震える手であかりの顔を覗き込むと、あかりは目を丸くしていた。


「……お兄ちゃん……?どこから……?」


 言いかけたあかりの目に、空の顔が涙で濡れているのが映る。


「ごめん……本当にごめん……」


 空はあかりを強く、ぎゅっと抱きしめた。


 あかりは少し驚いたあと、そっと空の背中に手を回した。


「……プリン、2個、買ってね……」


 それは、泣き笑いのような、小さな声だった。


 


 夜空の雨はまだ降り続いていたけれど、

 確かに“ひとつの奇跡”が、この夜に起きていた。




「もう……なんでお兄ちゃんが、ここにいるのよ……」


 あかりは小声で文句を言いながらも、空の背中にしっかりしがみついていた。


「それより、フラフラ飛び出す方が悪いんだろ?」


「うるさい……でも、ありがと」


「ん?」


「……なんでもないっ」


 空は肩越しに笑った。背中から伝わる体温は、さっきまでの冷たい雨よりも、ずっとあたたかい。


 二人は濡れた歩道を歩きながら、途中のコンビニに寄った。

 空が買ったのは、あかりがいつもねだる“限定のプリン”。ちゃんと2つ。


「これで、チャラな」


「…やっぱり、足りない…!」


「はは……ほんと元気だな、あかりは」


 帰り道、遠くで雨がやみ始めていた。

 空のポケットの中、ノエリウムはひび割れたまま、静かに沈黙している。


(……次は、もう使えないかもしれない…)


(まぁ…使う気はないけど……)


(あかりを…助けられて、よかった)


 空はあかりを背負い直し、静かな夜道を踏みしめるように歩いていった。




 カーテンの隙間から光が差し込み、朝が訪れた。


 けれど、空の目覚めは、妙に重たかった。

 体の奥に、昨日の雨の余韻が残っているようだった。


 寝ぼけた頭で、ふとスマホを手に取る。

 昨日の夜、どこまで夢だったのかさえ曖昧な感覚。


(あかりは……ちゃんと寝てるかな)


 そう思った瞬間、階下からあかりの声がした。


「お兄ちゃん!早くしないと遅刻するよー!」


(…やばっ!!)


 あかりの声に時間を確認した空は慌てて、制服に着替えてリビングに降りた。


「おはよう!お兄ちゃん!」


 嬉しそうな顔でプリンを食べているあかりを見て、空は改めてホッとする。


「ああ…おはよう、あかり」


「プリンご馳走様!それじゃあ、お母さん、お兄ちゃん、行ってくるね!」


 あかりは食器を片付けると、椅子から立って、鞄を持った。


「…また、ちゃんと話してね?」


 そして玄関へ向かう途中、すれ違いざまに告げ、返事をするまもなく、行ってしまった。




 空は登校時間が近づいている事を思い出し、慌てて朝ご飯を食べ、学校に向かった。


(朝陽…大丈夫だよな…)


 昨日の巻き戻し。ヒビの入ったノエリウム。

 空は朝陽に会いたくてしょうがなかった。

 学校に到着して、教室を見回したが、まだ朝陽の姿は見えない。


「おはようさん。どうした?キョロキョロして?」


 伊織が訝しげに近寄ってきた。


「いや…朝陽、まだ来てないな…って思ってさ」


「んー?朝陽って誰だ?そんなやつ、うちのクラスにいたか?」


「お前、悪い冗談はやめろよ、天音 朝陽のことだよ。一緒に肝試ししたろ?」


 伊織を嗜めるが、一向に思い出す素振りはない。

 空は背中に冷水をかけられた気分になり、もう一度教室を見渡した。


「……う、嘘だろ…?ここ…朝陽の机じゃ…」


 朝陽の机には別のクラスメイトが座っており、空を不思議そうな目で見ている。


「なぁ…どうした空?何か悩みがあるなら伊織さんに言ってみ?」


 空は振り返ると伊織の肩を掴んで尋ねた。


「このクラスにいたんだ!数日前に転校してきた、天音 朝陽って子が!昨日までいたんだよ!どうして…名前…机も…どうして…」


 伊織に尋ねながらも、空は頭の中で完全に理解していた。


(昨日…あの、巻き戻りの代償のせいだ…)


(朝陽が…消えてしまった…)

 

(俺のせいで…!!)


 朝陽はこの日、この世界から静かに、消えてしまった。——まるで、はじめから“いなかった”かのように。


 そして空だけが、彼女を覚えていた。


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