第十五話:削られていく光
——父の書斎は、天音家の中でも空気が違っていて、独特な雰囲気があった。
ドアをそっと開けた瞬間、紙とインク、そしてほんのりと木の香りが混ざった匂いが鼻腔に広がる。
壁際には、海外の地図や古代遺跡のポスター、地層断面図が無造作に貼られ、背の高い本棚には考古学の専門書に混じって、革の手帳や使い込まれた野帳、砂ぼこりを帯びた古びた双眼鏡が所狭しと並び、そこにあるだけで年月の重みを物語っていた。
窓際の小さな台には、羽根ペンや色のくすんだ石の破片、空にはよくわからない“戦利品”のようなものまで置かれている。
(俺もあかりも、この部屋が好きだったっけ……よく忍び込んでは、本を勝手に読んだな。
父さんは怒らなかった。むしろ、嬉しそうに絵本を読んでくれたっけ……)
書斎の奥、デスクの上に重ねられたノートやファイルの山に視線を向ける。
その中の一際、古びている青いファイル。
ラベルには、鉛筆でこう書かれていた。
《Observations on AZURE HEAVEN:「空に浮かぶ国」についての考察》
空はファイルにゆっくりと手を伸ばし、息を詰め、そっとページをめくる。
中には見慣れない地図、断片的なメモの数々、混在する英語と日本語、手書きのスケッチや写真——その中でひときわ目を引いたのは、赤いラインが引かれた注意書きだった。
【AZURE HEAVEN】
空に浮かぶという伝承の地。
そこに存在すると言われている“ノエリウム”は、一度失った記憶・時を“還す”力を持つとされる。
ただし——使用には代償が伴う。
それはノエリウムの所有者の“記憶”、あるいは“存在”の一部を対価とすることがある。
「……!」
(存在が……薄れていく……?)
頭が真っ白になり、体温が一気に下がるようだった。
空は震える手で一度、ファイルを閉じた。
(まさか…朝陽が……“存在”ごと消えかけてるってことなのか?)
胸がひりつくように痛んだ。
心臓の音がうるさい。
——けれど、そこで思考が引っかかった。
(待てよ。“かけら”が……朝陽の探している形見だったとしたら……)
(今、“かけら”を持ってるのは……俺だ)
(”かけら”を使ってるのも、俺のはずだ……。それなら…それなら…使っている俺が所有者になっているはずなのに——)
ぽんと跳ねる鼓動が胸を埋め尽くし、思考が呼吸を突き上げる。
(なんで、朝陽の方が……“削られてる”みたいなんだ?)
答えの出ない疑問が、脳内でぐるぐると駆け回る。
ファイルに記されたの言葉が、より深く、冷たくのしかかってくる。
脳裏に、ぼやけた写真、会話のズレ、名前を忘れた夢の光景がフラッシュバックする。
胸がひりつくように痛んだ。
心臓の音がうるさい。
うまく、呼吸が…出来ない。
どれも、意味をすぐには掴めない。けれど脳の奥で警告音が響いている気がした。
ページの合間には、モノクロの古い写真が一枚挟まっていた。
そこには、人の手のひらに載せられた、半透明の不思議な石の姿——
(これ……)
空が神社で拾った“かけら”に、あまりにも似ていた。
ざわり、と背筋を風が撫でるような感覚が走る。
慌ててポケットを探るが、そこに“かけら”はない。 自分の部屋に置いてきた——けれど、それでも感覚は繋がっているようだった。
“かけら”の力。無意識に使っていた巻き戻し。そのたびに——朝陽が、削られていた。
「……気になったかい?」
背後から、静かな声がした。
ハッとして振り返ると、父さんが書斎の入り口に立っていた。無造作に置いてあった眼鏡をかけ直し、にこりと微笑む。
「父さん……ここに書かれてる内容って…」
「“空に浮かぶ国”というものについてのファイルだよ。現地で発見された文献や伝承、書物なんかを基にまとめたものだよ」
「“空に浮かぶ国”って……そんなの本当にあるの?」
「父さんは本当にある…とは思っているよ」
父さんは空の隣に腰を下ろし、青いファイルを手に取って続けた。
「その“AZURE HEAVEN”は、空に浮かぶ、記憶と時間の狭間のような場所でね。そこにあるノエリウムは“失った時”を還す力があるらしい。ただし、使えば使うほど代償を払うとも……伝説では“薄霧に消える存在”の話が残っているんだ」
胸の鼓動が早鐘のように鳴り、空は思わず声を上げる。
「それって…実際に“時間を戻す”ってこと?」
「そういうことだね、詳細は不明だけどね」
「……!」
思わず言葉が出なかった。
「まぁ…詳細は不明だけどね。伝承のひとつに“巻き戻せば世界は歪み、契約した者の一部が薄れていく”という記述があるんだ。そして、代償として、記憶が抜け落ちるとか、存在が薄れていくとか……。実際にそれを使ったという証言は乏しいけれど、父さんは……ある存在に、”トキビト”と名乗るそういう“警告”を受けたことがあるんだ」
「…ある…存在……?」
父は少し目を細め、懐かしむように語った。
「白かった。髪も服も、輪郭も。あれは人じゃなかった。けれど、確かに、そこにいた。まるで、時間の隙間に立っているような感じだったよ」
父の言葉に、遠い記憶が鮮明に甦る。あの神社の帰り――真っ白な人影が立っていた、あの瞬間とまったく同じ姿。
(……あれだ。俺が見た“白い影”も……)
「言葉はなかったけど、こう聞こえた。“ノエリウムを使えば、世界はねじれる。巻き戻すには代償がいる”ってね」
空の呼吸が浅くなる。
「まぁ、もしかしたら白昼夢だった…って可能性もあるけどね」
父さんは戯けたように苦笑をこぼした。
(間違いない。あのとき俺の前に現れたのも、“トキビト”だ…!)
「……」
(本当なんだ……)
あの力に、説明がついてしまった。
これまで偶然だと思っていたことが、全部……繋がってしまった。
「空?」
「……あ、ううん。なんでもない。ちょっと、面白い話だったなって」
空は慌てて笑ってみせた。
父から、それ以上の問いはなかった。
「興味があるなら、今度ちゃんと説明してあげるよ」
「うん……ありがとう」
父がやがて書斎を出ていったあと、空はひとり、椅子にうずくまるように座りこんだ。
——“ノエリウム”
——“巻き戻しの代償”
空は、父の書いた文字を見つめながら、小さくつぶやいた。
部屋は静まり返っている。だが、胸の内で響く鼓動だけが、異様に大きく鳴っているようだった。
(……“かけら”には、やっぱり意味があったんだ)
(違う、違うって思いたい。でも、それしか考えられない……)
(使うたびに——朝陽が、少しずつ……)
声が届かなくなる。
写り込む姿が滲む。
輪郭さえ、ふっと消えかける。
このままじゃ、朝陽という存在そのものが、この世界から消え去ってしまう。
自分の中からも、伊織の中からも、誰の中からも──。
——それが、冗談でも幻でもなく、“代償”として刻まれているのだとしたら。
(……もう、黙ってなんかいられない)
空は胸の奥にぐっと手を当てた。痛むほどに跳ねる鼓動が、まるで胸を引き裂こうとしているかのようだ。
(あの……白い影を探さないと)
(あのとき俺の前に現れた“白い影”——いや、“トキビト”。あいつは何かを知ってる。俺にだけじゃなく、父さんにも現れたんだ)
(だったら……もう一度会わなきゃいけない。あいつに、直接聞くしかない)
わずかな恐怖を振りほどくように、空は椅子から跳ね起きた。
(絶対に、探さなきゃ──)
そうして、書斎を後にした空は、玄関から飛び出した。
気づけば、夜の町を見下ろす窓の外には、静かに雨が降り始めていた。