第十四話:忘却と、父の帰還
朝陽と別れた後。
静かな帰り道。
心を写すかのような曇り空。
空はそれから逃げ出すように、自宅に向かって歩きながら、ポケットの“かけら”を握りしめる。
(……今日の朝陽、やっぱりおかしかった)
たった数時間前に学校で交わした会話。
朝陽が大切なものだと言っていた“形見”の話。
なのに——それは彼女の中から、まるで、煙のようにすり抜けていったみたいだった。
(普通に考えたら、数時間で忘れるようなことじゃ、ないはずだよな……)
空の脳裏に、昨日見た夢の光景がかすめる。
朝陽…と言う“名前”が出てこなかった、あの感覚。
霧がかり、風に削られるように、徐々に、輪郭を失っていく姿。
最後にははがれ落ちるように消えてしまった。
まるで何かを暗示するかのような、夢。
今日の、いや、この数日の朝陽の様子に、まるでリンクしているような。
(……本当に、“存在そのもの”が……薄れてきてるんじゃ……)
喉の奥が、きゅっと締まった。
ふと、空は思い出した。
あの日、夕暮れ道で出会った、“白い影”。
(……あれは、一体、誰だったんだろう)
目の前に現れた、何か——“特異な存在”、そう思わせるようなもの。
(あれは…警告……みたいなことを言ってた。かけらを“使うな”……って)
そして、身を滅ぼす…とも。
(やっぱりかけらは…)
もう目を背け、偶然とは言えなくなっていた。
(でも、もう……俺は無意識に、使ってたんだ)
そして、代わりに何かが削られていっているとしか考えられなかった。
そう——朝陽が。
空は足を止め、ひとり曇り空を見上げた。
今にも泣き出しそうな空は、まるで自分の感情と繋がっているようだった。
だけど、ただ泣いているわけにはいかない。
何かを確かめなければならない気がしていた。
(……もう一度、あの”白い影”を——探してみないと)
でも、それが“どこにいるのか”も、“どうすれば会えるのか”も全く分からない。
手がかりも、方法も——何ひとつ。
ただ、大切となっていたものが、ゆっくりと、確実に失われていく。
その感覚が、焦りとなり、胸の奥で静かに膨らんでいった。
(とりあえず…”かけら”は部屋に閉まっておこう…いや、明日、朝陽に伝えよう)
気がつくと自宅の前まで来ていた。
「おかえりなさい!」
玄関のドアを開けた空を、あかりが出迎えた。
「…なんだ、お兄ちゃんかー」
「…随分な物言いだな……父さんを待ってるのか?」
残念そうなあかりに、少し口を尖らす空。
「そうなの、お父さん、まだかな?」
「連絡してみたら?」
悪びれる様子のないあかりに告げる。
「確かに!ありがと、お兄ちゃん!」
スマホを手に取るあかりを背に、空は自分の部屋に向かう。
「あ、お兄ちゃんー!手洗いうがいするんですよー!」
背後からあかりの声が届いた。
空は自室に入り、鞄を床に置くと、制服のポケットから“かけら”を取り出した。
それは、光はなく、熱もない。ただの石のような顔をして、そこにあった。
「……なんで、黙ってるんだよ」
何度、“かけら”に問いかけてみても、もちろん答えは返ってこない。
それでも、何かが空の内側に沈んでいくような気がした。
机の引き出しを開け、かけらを小さな布で包む。
まるで、これ以上誰にも触れさせないように——あるいは、これ以上“触れてしまわない”ように。
(明日……ちゃんと話そう。朝陽に)
そう決めたはずなのに、胸の奥のざわめきは、いっこうにおさまらなかった。
——そのときだった。
「ただいまー……!」
玄関から、少し疲れた声が聞こえた。
空は弾かれたように顔を上げた。
(……父さん?)
足音が廊下を渡り、リビングへ向かっていく気配がする。
空は布に包んだ”かけら”を机にしまい、ゆっくりと席を立ち、リビングに向かった。
「おかえりなさい!」
あかりの明るい声と一緒に、父の笑い声が混じる。
「ただいま。皆、元気だったかい?」
久しぶりに見る、何処か人を落ち着かせる雰囲気の父の姿を見て、空はほんの少し安堵する。
でも同時に、今のこの“現実の重み”を前に、口元が無意識に引き結ばれていた。
「久しぶり、元気だったよ、父さんは?」
「ああ、父さんも元気だったよ、ちょっと大変だったけどね」
「ほらほら、そんなところで話してないで。あなたは先にシャワーでも浴びてらっしゃい」
そのまま話出しそうな空気を感じ、母さんが待ったをかけた。
「空とあかりは、夕ご飯の準備を手伝ってね」
「はーい」「わかったよ」
夕ご飯の準備が終わった頃、リビングのドアが開いた。
「皆、待たせちゃったね」
「さあさあ、早く食べましょう」
父は優しい笑みを浮かべながら、食卓についた。
「すごい料理だね、とても美味しそうだ。毎回、僕が帰るたびにありがとうね」
食卓には父さんの好物がズラッと並んでいる。
「あなた、改めておかえりなさい」
「ああ、ただいま。僕がいない間、何か困ったことはなかったかな?」
「あかりは特になかったよ!」
あかりは素直に答えた。
「………」
「おや?空は何かあったのかな…?」
「ちょっとね…」
空は俯きがちに言葉を濁した。
「そうか…もし何か困っていたら、僕に出来ることは力になるから、ちゃんと言うんだよ?」
「…うん、ありがとう」
父さんは無理に聞き出そうとはせずに微笑んでいる。
「そうだ、あなた、お仕事はどうだったの? 」
「いや、急な予定変更があってね。明日にはまた、仕事に戻らなくてはダメなんだ」
「え…お父さん、もう行っちゃうの……?」
あかりの声に、父は少し申し訳なさそうに頭をかいた。
「ごめんね、あかり。でも今日は皆と一緒に居られるよ」
ひとしきり食卓が賑わったあと、空はふと箸を置き、父の方を向いた。
「ねえ父さん、今はどんな研究してるの?」
その問いに、父は少し驚いたように目を見開き、次いで嬉しそうに微笑んだ。
「ん? 空がそんなこと聞くなんて珍しいね。……まぁ今回はちょっと特殊なテーマでね」
「ふーん…特殊なテーマ?」
「昔話や神話に出てくる”空にある国”について。今まではただの伝承扱いだったんだけど、最近になってちょっと面白い資料を見つけてね」
「昔話に出てくるような国の資料なんて、ファンタジーみたいだね」
「そうなんだよね、資料が見つかったところも、結構な場所でね。崖の上だったんだけど、調査用のキャンプが飛ばされそうになってね」
「あなた?あんまり危ないことはしない約束よね?」
「あ、えっと…うん、ごめんね…わかってはいるんだけどね…」
“空にある国”
その単語に、空はわずかに反応した。
まるでどこかで聞いたことがあるような気がして、喉の奥にひっかかる。
「父さん。今夜、少しだけその資料、見せてもらってもいい?」
「もちろんいいけど……ほこりっぽいよ?」
父は笑いながら、スプーンを口に運ぶ。
空は微笑んで頷いたが、胸の内側では、淡く冷たい緊張が広がっていた。
夕食がひと段落し、団欒の空気がゆるやかに流れていた。
リビングではテレビの音が小さく流れ、あかりがクッションに顔を埋めながら父にお土産の催促をしている。
父は少し疲れた声ではあったが、穏やかな話し声で母さんと、あかりと話している。
今、空の周囲に漂っている空気、声、温かさ、そのすべてが、空にはどこか“夢の中”のように感じられた。
(……何も知らなければ、このままずっと平和に過ごせるのに)
だけど、もう引き返せない。
“かけら”の力。
朝陽の異変。
そして——白い影の警告。
空は静かに立ち上がった。
その様子を横目に見ながら、空はゆっくりと立ち上がった。
「父さん、さっき言ってた資料……ちょっとだけ見せてもらってもいい?」
「もちろん、構わないよ。デスクの上の青いファイル。ラベルに“AZURE HEAVEN”って書いてあるよ」
ぽつりとそう尋ねると、父は一瞬だけ驚いたような顔をして、それから微笑んだ。
「好きなだけ探検しておいで」
“探検”という言葉に、少しだけ緊張がほぐれる。
空は軽く頷き、廊下の奥へと足を向けた。