第十三話: 遠ざかる声
「…うわっ!!」
空は思わず飛び起きた。
心臓が早鐘のように鳴っている。汗ばんだ額に手を当てながら、空はただ、天井を見つめた。
(……夢、だよな)
でも、夢にしては、リアルすぎた。
何より——“朝陽”という名前が、夢の中で出てこなかった。
それが、妙に恐ろしかった。
形を持たない焦燥が、胸の奥でうねっている。
まるで、現実の一部が少しずつ削れていくような——そんな感覚。
もう一度夢を思い返そうとしても、細部は霧のように薄れていた。
けれど、そこにいたはずの“誰か”の姿だけが、まるで最初から存在していなかったかのように曖昧だった。
「朝陽……」
ぽつりと名前をつぶやいた。
今度は、ちゃんと声になった。
安心したような気持ちと、それでも消えない胸のざわめきが、入り混じる。
スマホを手に取り、写真フォルダを開こうとする。
だが、指が震えて、画面にうまく触れられなかった。
何かを確かめたい。
けれど、もし本当に“写っていなかったら”——
その現実を見たら、もう戻れない気がして。
「……違う。ただの夢。考えすぎだって……」
自分に言い聞かせるように、空は小さくつぶやいた。
でもその声は、とても乾いていた。
空は時計を見た。時刻は午前6時30分。
再度、眠りにつく気にもなれず、リビングに降りた。
リビングには既に母さんとあかりがいた。
「あれ?お兄ちゃん、おはよう」
「あんたがこんな早いなんて珍しいね」
2人は早く起きてきた空に声を掛ける。
「うん…ちょっと目が覚めてね、2人は早いね」
「いつもこのくらいの時間だよね?お母さん」
「そうね、朝ご飯の準備もあるしね」
2人は少し呆れたように言った。
「あ、そうだ、お兄ちゃん!今日、お父さん帰ってくる日だよ!」
「ああ…そうなんだ、今回はちょっと早いな」
「確かにね!でもお父さんに会えるから楽しみ!お土産とかあるかな?」
あかりはとても嬉しそうに笑っている。
「お兄ちゃん、今日は早く帰ってきてね!」
父さんは考古学者で、忙しいときは月に何回かしか会うことがない。
そんな父さんが帰ってくるとき、家族で出迎えて、豪勢な夕ご飯を食べるのが、天音家の決まりとなっている。
「…わかってるよ、授業が終わったらすぐ帰ってくるよ」
「お母さんも今日、夕ご飯手伝うからね!」
「あかり、ありがとう」
その後、登校時間まであかりと話をしたが、終始ハイテンションだった。
不気味な夢を見ただけに、今はあかりのテンションに救われた。
学校に到着したとき、朝陽はまだ登校してきていなかった。
(あんな夢を見たから…無性に顔が見たいな…)
自分の席に鞄を置くと、伊織とクラスメイトが一緒に教室に入ってきた。
「おはようさん、空!今、こいつらにこの前の肝試しのこと、話してんだけどさー」
空の顔を見ると伊織たちはよってきた。
「あの肝試しって2人で行ったっけ?えっと…後、天音さん?もいたような気がするんだけど、よく覚えてなくてさー」
伊織はしばらく考えるように視線を泳がせた。
ドクン――心臓が強く鳴った。
「な、何言ってんだよ、あの日は俺と伊織と朝陽の3人で行ったろ?」
空は乾いた声で伊織に告げた。
「あー、やっぱりそうだよな?なんでそんなこと忘れてたんだろうなー。…あ、やっぱり…あの心霊写真の呪いが…」
「ってかお前ら、よく天音さん誘えたなー?俺まだ、話しかけられないわ」
クラスメイトは少し驚いているようだった。
「まぁ、それはこの伊織さんの人徳あってこそだな」
そして、教室の扉が開き、朝陽が入ってきた。
一瞬、伊織たちは静かになったが、また話し始めた。
空はほっと息をつく。夢の中で消えてしまった彼女が、目の前に“いる”——ただそれだけで、安心できた。
けれど、なぜか——ほんの少しだけ、朝陽が儚げに見えた。
錯覚かもしれない。でも、その違和感は確かにあった。
「おはよう、朝陽」
空は朝陽に近づいた。
「おはよう、天音くん」
(…やっぱり気のせいだよな、朝陽はここにいるし)
「今日、一緒に日直だから、よろしくな」
「日直…何するかはよくわかってないから、教えてくれたら嬉しい」
その後もいくつか会話を重ねたが、特に変なところはなさそうだった。
昼休み。
教室の喧騒から少し距離を取って、空は屋上へ向かう階段の踊り場にいた。
買ってきたパンを手に、ただぼんやりと空を見上げる。
(……さっきの伊織の反応、やっぱり変だったよな)
朝陽が“いたこと”を、ぼんやりとしか覚えていない——そんなこと、あるだろうか。
けれど、写真はその証明だった。
朝陽の姿だけが、確かに“薄れて”いた。
「……天音くん?」
その声に、空は振り返った。
階段の影から、朝陽が姿を見せた。
「あ……朝陽。ごめん、なんかぼーっとしてた」
「ううん……わたしも、ちょっと静かなところに行きたくて…隣、いい?」
空が頷くと、朝陽は空の隣に腰を下ろす。
ふたりの間に、小さな風が通り抜けた。
「ねえ……」
空は、少し迷いながら切り出した。
「最近……体調とか、大丈夫? なんか……疲れてるように見えたからさ」
朝陽はほんの一瞬だけ、目を伏せる。
「……うーん……なにか、うまく言えないけれど……たまに、頭がふわっとすることがある…疲れてるのかなって思ってた」
「ふわっと?」
「うん……言葉が思い出せなかったり、何か探してたのに、途中で“何を”探してたのか忘れちゃったり……」
朝陽の言葉に、空は息を呑む。
(それって……まさか)
「……例えばさ、あの……形見のこと、覚えてる?」
空の問いに、朝陽は少し考え込むように、視線を落とした。
「……うん、覚えてるよ。……探さないと、とは思ってるんだけど……最近、何か変なの」
「…変って?」
「うまく言えないけど、最近……なんていうか、思い出そうとすると、ぼんやりしてて……輪郭が掴めないの」
空はそっとポケットに手を入れた。
“かけら”の冷たさが、指先に伝わる。
「……それってさ」
言いかけて、空は言葉を飲み込んだ。
(それって、“かけら”の影響じゃないか——なんて言えないよな)
朝陽の横顔は、どこか儚く見えた。
けれど、本人はそれを自覚していない。
それが、なによりも怖かった。
「いや、そろそろ、また一緒に探してみよう」
「……うん、そうだね。ありがとう。気にかけてくれて」
朝陽はそう言って、柔らかく微笑んだ。
その笑顔は、空の中で少しだけ痛かった。
放課後、クラスメイトたちは大半が帰宅した頃、空と朝陽は日直の仕事を終えた。
鞄を持ち、帰宅しようとしていた朝陽に声をかける。
「朝陽、今日、一緒に帰らない?」
背後からの声に、振り返った朝陽は少し驚いたように目を丸くしたが、すぐに笑みを返す。
「……うん」
自宅へ向けて、2人は並んで歩き出す。夕方の空はうっすらと雲がかかり、町全体が少しだけ静かに感じられた。
「この町に来て、どう?学校とか…雰囲気とか…」
「学校…?天音くんとしか話してないから…どうなんだろう…?」
朝陽は首を傾げて、言葉を選ぶように考えている。
「私、誰かと楽しくとか苦手だから…。天音くんは…最初きついこと言ったのに…私に話しかけてくれる、から…最近は少し楽しいよ」
「そ、そっか…」
思わぬ言葉に空は少し顔が赤くなった。
「でも…私は人と楽しく話すことは苦手だから…天音くんもほんとは楽しくないんじゃないのかな…って心配で」
「そんなことない!俺は、朝陽とこんな風に話せてすごく楽しい!…って…思って、る…」
勢いよく反論した反動で声はどんどん小さくなっていく。
朝陽は声の大きさに目を少し見開いた。
「あ、ありがとう…」
今度は2人とも顔を赤くした。
「そう、この町も、好きだよ。まだあまり知らないけれど、長閑で、独自の時間が流れてるような気がするから…」
朝陽は赤い顔を隠すように辺りを見渡した。
「今度さ、この町の案内するよ、もっと良いところもあるし、朝陽に見て欲しい景色もあるんだ」
朝陽は空の方に向き直った。
「…ありがとう、楽しみにしておくね」
嬉しそうに微笑んだ朝陽に、空は頷いた。
それからしばらくして、空は意を決したように尋ねた。
「……あのさ、朝陽。今日のお昼に、形見のこと聞いたよね?」
「……かたみ?」
その言葉に、朝陽は立ち止まり、空の顔を見つめた。
「え……私、そんな話、したっけ?」
「……昼休み、踊り場の辺りでさ、お母さんの形見を探さないとって話」
「……うーん……」
朝陽は困ったように笑って、小さく首を傾げた。
「ごめん、なんか……覚えてない。私、そんな話、した……?」
空の胸がじわりと重くなる。
「……いや、ごめん。こっちの勘違いだったかも」
自分でも笑っているつもりだったが、声が少しだけ揺れた。
(……嘘だろ……たった数時間前のことなのに……)
朝陽の隣にいながら、確かに存在していたはずの“言葉”が、彼女の中からこぼれ落ちている。
空は、ポケットの中の“かけら”にそっと触れた。
けれど、それはまるで“何も知らない”かのように、ただそこにあるだけだった。
「もうすぐ家に着くから、天音くん、また明日ね」
「あ…うん、そうだな…。朝陽、また明日」
そう言って、2人は別れた。