第十二話:見えない綻び
翌日。
空は一日を通して、“かけら”に触れないよう気を張っていた。
ポケットに入れてはいたが、意識して手に触れることすら避けている。
前夜の白い影の言葉が、心のどこかに引っかかっていたから。
(……使うな、って言われたけど……そもそも、使おうと思って使ってたわけじゃないんだけどな)
教室の窓から外を眺めながら、空はぼんやりと考える。
(でも、たしかに。昨日、朝陽と話してる最中……あの一言で巻き戻った気がする)
思い出すたびに、妙な感覚が胸の奥をざわつかせた。
気がつくと、朝陽が自分の席に座っているところだった。
「おはよう、朝陽」
「……」
空は朝陽に挨拶をするが、まるで声が届いていないかのようであった。
「朝陽…?」
空の声に、朝陽は一拍遅れて顔を上げた。
「……天音くん?ごめん。気づかなかった」
空は少し眉をひそめる。朝陽の耳には、たしかに届いていたはずの声。
(……考えごとしてた、だけ?)
⸻
昼休み。
伊織が苦虫を噛み潰したような顔をして、空の机までやってきた。やってきた。
「あー、これ見てくれよ。実は肝試しの日にお前らの写真をこっそり撮ってたんだよ。その写真、ちょっと変なんだけど」
「写真なんて、いつ撮ったんだ?」
「あのヤバい音楽室に入ったとき、ちょっとな…」
「お前…勝手な…」
「まーまー、それはいいじゃん、素晴らしい青春の一ページだよ…って言いたいのはそこじゃなくてさ。写真だよ、写真。」
「あー…写真がどうしたって?」
伊織が差し出したスマホを受け取り覗き込む。
そこには、懐中電灯の光に照らされた教室の一角と、少し顔が強張った空と——空に寄り添っているように見える朝陽が写っていた。
……いや、“写っているはず”だった。
「……なんか、ぼやけてないか?ここ」
空が指差したのは、朝陽の立っていた位置。
写真のそこだけが、まるで霧がかかったように白く滲んでいる。輪郭も曖昧で、顔がほとんど判別できなかった。
「ほらな?俺の手ぶれかなって思ったけどさ、他のと比べてもこれだけなんだよ。なんか不気味でさ…」
「……うん、確かに」
「な、なぁ…これって心霊写真ってやつかな…?俺、この写真持ってたら呪われるんじゃないか…?消した方が良いよな?な?」
「伊織、落ち着けって。とりあえず心霊写真かもしれないなら、消しておけばいいんじゃないかな?」
「そうするわ…!助かった、空!こんなん相談できんのお前しかいないからさー…。よし、消えた…!呪われませんように!」
伊織は本当に心配していたのだろう、心底、安心した顔をして笑う。
「うん…大丈夫だよ…たぶん」
空は喉の奥がきゅっと締めつけられるのを感じた。
(…心霊写真ってより、“存在”が、ぼやけてきてる?)
⸻
五時間目の授業が終わり、先生が課題の回収を依頼していたときだった。
「日直は集めた課題を職員室に持ってきてくれ」
「今日の日直って、誰だっけ…?」
クラスメイトの1人がそう言うと、一瞬、教室がざわついた。
「…わかりました」
朝陽が返事をすると、空はハッとして、朝陽の席を見る。ちゃんと、そこにいる。
でも…声を聞く、その瞬間まで、確かに“いたこと”を忘れていたのだ。
⸻
その日の放課後。
「朝陽、一緒に帰らないか?」
「天音くん、良いよ」
空は朝陽と校門を出てから、ふと立ち止まった。
「なあ、朝陽……俺たちって、昨日も話したよな?神社で」
「……うん?ああ、うん。確か…行った…よね。……でも、なんで?」
その“言い方”が、また引っかかった。
昨日の話の詳細が、朝陽の中で薄れている——そんな印象。
いや、それだけじゃない。朝陽自身もどこか、宙に浮いたような反応だった。
「いや……なんでもない」
(なんだろう、この感じは…何かとても嫌な…)
⸻
空はその晩、寝る前にスマホのアルバムを開いた。
肝試しの夜、記念に3人で撮った写真を何度も見返す。
——やっぱり、朝陽の姿だけがぼやけている。
そして、もう一枚。数日前の教室での写真。伊織やクラスメイトを何気なく撮ったもの。
そこにも、画面の端に朝陽の姿が写っている。いや、写って“いた”。
(……こっちも……?)
ほんのわずかに、姿が薄い。
色が抜け落ちているような、透明になっていくような——そんな違和感。
(なんで…朝陽にこんな異変が…?)
⸻
翌朝。
登校途中の坂道、空は自分でも気づかないほど小さな「後悔」をしていた。
(あ、ノート忘れた……)
その瞬間——
風が、一瞬止まる。
耳の奥で、遠くの音が逆流するような違和感。
ふと顔を上げたときには、すでに数分前の道を、空はまた歩いていた。
「……嘘だろ……」
思わず立ち止まる。
巻き戻った、たった数分。
(やっぱり”かけら”は時間を……?でもなんで勝手に…いや、無意識に……使われてる?)
ただ、「困ったな」と思っただけだった。
ただ、それだけで——
ポケットの中の“かけら”が、妙に重く感じられる。
石の質量以上に、何か“引きずられている”ような感覚だった。
⸻
ふとした瞬間、指先がしびれたような感覚に襲われる。
“かけら”に触れたわけでもない。
なのに、その冷たさだけが、皮膚の奥まで染みこんでくる気がした。
日常の綻びは、すでに目に見えないところで始まっていた。
(朝陽の声が、たまに届かないときがある。目の前にいるのに、ちょっとだけ遠くにいるような……そんな感覚)
そう考えると、ポケットの中の“かけら”が、微かに熱を帯びている気がした。
(……やめてくれよ。何もしてないのに)
空は無意識にポケットを押さえる。
何かが始まりそうな気がして、怖かった。
空はようやく気づき始めた。
この”かけら”を使ったせいだ。
あの白い影が言っていた、言葉。
⸻“身を滅ぼす”
“かけら”の力を使えば、時間を巻き戻せる。
だけど、そのたびに……何かが“薄れて”いく気がした。
⸻
その日の夜、空は夢を見た。
夢の中で、空はバス停にいた。
あの夕立の日——屋根の下、肩を濡らしたまま、手を離したあの瞬間。
手に残る体温、頬に落ちた雨のしずく。すべてが、現実と変わらないほど鮮明だった。
隣には、誰かが立っていた。
白いシャツ。濡れた髪。視線をそらしながらも、どこかで気にしてくれているような——
(……朝陽)
そう、呼ぼうとした。
けれど、その名前が、口からこぼれなかった。
声にならなかった。息さえも止まっているような感覚。
視線を向けると、そこだけ霧がかかったようにぼやけていて、顔が見えない。
輪郭すら、どこか曖昧だった。
そして、目の前のその存在は——
まるで風に削られるように、徐々に、輪郭を失っていく。
(……朝陽、朝陽っ!)
叫んだはずの声は、雨音の中にかき消された。
空は必死に手を伸ばした。けれど、その手は、何にも届かない。
彼女の姿は、ゆっくりと、世界から剥がれ落ちるようにして——
消えた。