プロローグ
蝉の声が、うるさいほどに響いていた。
ここは青岐町。山と畑に囲まれた、小さな田舎町だ。県の端っこにあって、電車は一時間に一本、コンビニより自販機の方が多い。人口は一万に満たないらしい。娯楽施設なんてほとんどないけど、夏になると空はどこまでも青くて、蝉の声が空気の隙間を埋めるみたいに鳴いている。
退屈だけど、悪くはない。
四時間目の授業中、俺——天音空は、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
夏の陽射しが白くて、遠くの山がゆらゆらと揺れて見える。空を見ていると、不思議と時間の流れが緩くなる気がした。
「天音!」
不意に名前を呼ばれて、心臓が跳ねた。
「空ばっかり見てないで、問題解け!」
「あ、はいっ……すみません……」
教室の空気が、ざわっと揺れる。後ろの席の誰かがクスクスと笑い、前の席の誰かが振り返った。
やっちまったな、って思いながら、俺は黒板に目を向けた。でも、頭の中にはさっきまで見ていた空が、まだぼんやりと残っていた。
放課後。
蝉の声と、自転車のチェーンの音が響く帰り道。
「でさー、結局誰も肝試し付き合ってくれないわけよ!なんでだよ!」
前を走る波瀬伊織(はせ•いおり)が振り返りながら愚痴をこぼす。俺の親友で、お調子者。だけど、たまに妙に鋭いところがあるやつだ。
「俺ひとりで幽霊に遭遇したらどうすんの!」
「自業自得だろ、それ」
「うわ!冷たいなー、最近ちょっとクールぶってね?思春期?」
「うるさいな。そういうお前は、また誰かに振られたんだろ」
「ぐっ……それはタイミングが悪かっただけで……」
くだらない会話をしながら家の近くまで来たとき、ふと、引っ越しトラックが止まっているのが見えた。
「あれ、空んちの近くの空き家、引っ越し?」
「……ああ、そうみたいだな…」
荷台が開いて、一人の少女が降りてくる。背中まである長い髪が風に揺れ、陽射しの中でその輪郭がきらめいた。
一瞬、時間が止まった気がした。
少女は、この町には似合わないくらい都会的で、それなのに、なぜか目が離せなかった。
その視線に気づいたのか、彼女がふと顔をこちらに向けた。
目が合った。
慌てて目を逸らす。
「ん?どうした?知り合い?」
「…いや、知らない。でも、たぶん転校生だろうな」
俺は誤魔化すように笑った。
「ま、良いや。早く帰ろうぜ」
2人は各々の家へと帰っていった——。
その夜の食卓。テレビの音が遠くでぼそぼそと流れている。
「今日、部活なかったの?」
「うん、午前中だけだったから」
「そういえば、あそこの空き家、誰か引っ越してきたの?」
「……うん、そうみたい。帰り道に見かけた」
「珍しいわね、こんな田舎に。どんな人だったの?」
少し迷ってから、
「……別に。普通の人っぽかったよ、ご馳走様、母さん」
俺はそう言うと箸を置いて、2階の自分の部屋に向かい、ふと思い返した。
——普通なんて言葉で、あの光景を片づけるのは、ちょっと無理があったかもしれないな…。
夜。
虫の声と、テレビの音を聴きながら、俺はベッドに寝転んでスマホをいじっていた。画面には天気予報。明日は晴れ。
「普通の人っぽかった」なんて、自分で言っておいて、どうにも落ち着かない。
——本当はもう、あの瞬間から何かが始まっていたのかもしれない。
突然、ドアがノックされた。
「お兄ちゃーん!しろがいないの!」
「えっ?」
ドアを開けると、パジャマ姿の妹——天音あかり(あまね・あかり)が半泣きで立っていた。
「さっきまで部屋にいたのに、ベランダから出てっちゃったみたいで……探してもいないの!」
「……夜にベランダを開けっ放しにするなって言っただろ。……わかった、俺が探してくるよ」
「ほんと?ありがと……!しろ、鈴の音がするから、きっとすぐ見つかると思う!」
しろは、あかりが半年前に拾ってきた白い猫だ。俺にはあまり懐かないけど、あかりにはべったり。そんな猫が、こんな夜に出ていくなんて。
草のざわめき、微かな鈴の音。
「しろー……どこ行ったんだよ、まったく……」
歩きながら、俺は懐中電灯を揺らしていた。
そのときだった。
遠くで、鈴の音が聞こえた。
「……ん?」
音の方へ向かっていくと、見覚えのある古い神社の前にたどり着いた。
——気づけば、足は勝手に神社の方へ向かっていた。
この神社は子どもの頃、父さんと母さんに連れられて初詣に来たっきりの場所。なのに、懐かしいような、不思議な感じがした。
鳥居の向こう、御神木の前で、しろがひょこっと姿を見せる。
「しろ……こんなとこにいたのか」
そっと近づこうとした、その瞬間。
足元で、何かがきらりと光った。
キィン――と、耳の奥で鳴るような、不思議な音。
小さな、小さな光が、地面に落ちていた。
まるで星のかけらが、ここに落ちてきたみたいだった。
「……なんだ、これ……」
まるで息をしているように、拾い上げた空の掌の上で揺れていた。
と、その瞬間だった。
風が止み、音が消えた。
世界が、変わった。
視界の輪郭がふわりと歪み、草の匂いが淡く遠のく。まるで、水の中に沈んでいくように現実が霞んでいく。
空は立ち尽くしたまま、ただそれを見ていた。
——気がつくと、そこは見知らぬ場所だった。
淡い空。赤でも青でもない、透明な光が空全体を包んでいた。風が吹くたびに、どこか懐かしい音がした。
そして——
一人の少女の背中が見えた。
背中まである髪が、風になびいている。ワンピースが、かすかに揺れた。
その姿は、どこかで——
「……見つけて……」
少女の口が、たしかにそう動いた。
空は思わず声を漏らした。
「え……?」
少女が振り向こうとした、その瞬間——
「にゃあ」
柔らかな感触が足元に触れた。
現実の音が、一気に押し寄せてくる。蝉の声、木の葉のざわめき。鼻先に草の匂いが戻ってきた。
「うわっ……!」
空が驚いて目を落とすと、白猫のしろが足に身体を擦りつけていた。
「お前……どこ行ってたんだよ……」
しろは何も言わず、ただ一声「にゃあ」と鳴いた。
そして、神社の石段をすたすたと降り始める。まるで「ついてこい」とでも言っているように。
「お前、待てよ!」
俺は慌てて、しろの後を追おうとしたが、もう一度、振り返るようにあたりを見渡す。
だが、さっきまでの幻は跡形もなかった。
ただ、夜が明けはじめていた。
東の空に、薄紫と茜色と、夜の青が混ざったような淡いグラデーションが広がっていた。
空は、ただそれを見上げる。
——まるで、夢を見ていたみたいだった。
ふと、遠い記憶が揺らめく。
あの神社には、小さい頃、初詣にも来たことがある。父さんと。母さんと。
そう、あのとき俺は迷子になったんだ。父さんも母さんも見つからなくて。
でも、誰か…名前も、顔も思い出せない。迷子になった俺の手を握ってくれた。心細くて、まるで世界の終わりが来たかのように泣いた俺に、やさしく差し出された、あたたかい手…。
その手が、その姿が、今日見た少女の幻と重なって、胸の奥に静かな波紋が広がった。
時間の隙間に、記憶のかけらがひっそりと落ちていたような——そんな感覚だった。
「……なんだったんだ、あれ……」
ポケットに入れた“かけら”を握る。
じんわりとした温かさが、指先から伝わってくる。
「……気のせいか……」
空はゆっくりと歩き出す。
時々立ち止まっては、こちらを振り返る様に歩く、しろの後ろ姿を追って、朝の光の中へ。
——空の下で、何かが、静かにそして確かに動きはじめていた。
初投稿、手探りです。
お手柔らかに、そしてよろしくお願い致します。