不可侵の楽園 〜アンタッチャブル・ゾーン〜
徴税官を物理的に放り出してから数日。 村は、戦争の恐怖に包まれる……どころか、奇妙なほど平穏だった。 いや、以前にも増して活気に満ちていた。
「キ、キオ様……本当に防壁を強化しなくて良いのですか? 男爵軍が攻めてきますぞ」
村長が心配そうに尋ねるが、Kioは作業の手を止めずに答えた。
「不要だ。敵戦力の動員速度および兵站(食料事情)を計算した結果、ここへの到達には最短でも20日を要する。 その期間を憂慮に費やすのは、計算機資源の無駄遣いだ」
Kioにとって、まだ起きてもいない事象に怯えるのは非効率の極みだ。 彼は、防衛準備よりも優先すべきタスクを実行に移した。
「隣村ベルクへ『技術支援団』を派遣する。 あそこの住民のスペックは低すぎる。こちらの商流に接続するには、教育によるOSアップデートが必要だ」
* * *
隣村ベルク。 かつては交易の中継地だったが、Kioの村の発展により、経済的に下請けとなりつつある平凡な農村だ。
そこに、Kioの村から一台の馬車が到着した。 荷台には、見たこともないほど高品質な「黒光りする農具」と、大量の「教科書」が積まれている。 そして降りてきたのは、Kioによって教育された「少年官僚」たちだった。
「これより、農業技術および基礎数学の無償講習を開始します」
少年の一人が宣言すると、ベルクの村人たちはざわめいた。
「無償だって? こんな立派なクワをタダでくれるのか?」 「読み書きまで教えてくれるなんて……キオ様はなんて慈悲深いお方なんだ!」
彼らは感激し、涙を流して感謝した。 だが、Kioに「慈悲」などない。あるのは「合理性」だけだ。 『取引相手が計算もできず、契約書も読めないと、説明コストがかかりすぎる』 Kioは単に、周辺地域の知能レベルを自分たちが使いやすい水準(共通規格)に引き上げようとしているに過ぎない。
だが、結果として目の前で繰り広げられているのは、「幸福な文明開化」だった。
「おじさん、肥料の配合比率が違うよ。これじゃ収穫量が3割落ちる。この式を覚えて」
10歳の少年が、黒板を使って農夫に化学肥料の調合を教えている。 大人が子供に頭を下げ、必死にメモを取る。 その光景は、この世界の身分制度や常識が、音を立てて崩れ去る音でもあった。
* * *
その様子を、村外れの森の中から監視する影があった。 バシュ男爵が放った敏腕密偵、通称「影鼠」だ。
彼は、Kioの村の弱点——防壁のほころびや、兵士の数——を探るために潜入していた。 だが、観察すればするほど、彼の背筋には冷たい汗が流れた。
(……なんだ、ここは。異常だ)
影鼠の目は、プロとして「軍事力」以外の脅威を感じ取っていた。
まず、労働者の質が違う。 元野盗と思われる男たちが、整然と畑を耕している。 彼らの肉体は、適切な栄養と科学的なトレーニングによって、彫刻のようにビルドアップされていた。しかも、彼らの表情には「やらされている感」がない。 「俺たちがこの国を支えているんだ」という、奇妙な誇りと活気に満ちている。
次に、インフラの質。 泥一つないコンクリートの道路。整備された水路。 子供から老人まで、全員が徹底した衛生管理(手洗い・うがい)を行っている。 病気や飢えの気配が一切ない。
(兵士は一人もいない。だが……ここには『隙』がない)
影鼠は戦慄した。 もし、貧しい暮らしをしている領主軍の兵士が、この光景を見たらどうなるか? 「毎日美味いパンが食えて、清潔で、子供が勉強できる村」 そんなものを目の当たりにしたら、剣を振るう前に、心が折れる。いや、全員がこちら側に寝返るだろう。
これは戦争ではない。文明による一方的な侵略だ。
* * *
数日後。領主の館。 執務室でイライラと貧乏揺すりをしていたバシュ男爵の元に、影鼠が戻ってきた。
「遅いぞ! で、どうだ? あの生意気なゴーレムの弱点は見つかったか?」
男爵が身を乗り出す。 だが、影鼠は青ざめた顔で、静かに首を横に振った。
「閣下……。あそこは、攻めてはなりません」
「なんだと? 兵が足りないのか? ならば増援を……」
「兵数の問題ではありません」
影鼠は、震える声で告げた。
「あそこにあるのは『未来』です。 彼らは武器を持っていませんが、全員が高度な知識と規律で武装しています。 もし我が軍が攻め込めば、兵士たちは瞬く間にあの村の豊かさに魅了され、我々に牙を剥くでしょう」
「ば、馬鹿な……。たかが農民どもに……」
「それに、もし焼き払えば、あの『白い粉』や『美味い野菜』を作る技術は永遠に失われます。 支配することも、破壊することもできません。 あれは……触れてはならない、毒のように甘い『不可侵領域』です」
密偵の報告は、事実上の敗北宣言だった。
「……下がれ」
男爵が力なく告げると、影鼠は一礼して闇に消えた。
一人残された執務室。 男爵は、屈辱と怒りで拳を震わせた。 プライドとしては、反逆者を許しておけない。今すぐにでも軍を差し向けたい。
だが、彼の視線は、机の上に置かれた朝食の皿に吸い寄せられた。 そこには、Kioの村から輸入された「純白のパン」と、新商品の「イチゴジャム」が載っている。
男爵は、悔しそうに顔を歪めながら、そのパンを手に取り、口に運んだ。
「……くそっ」
ふんわりとした食感。広がる甘み。 王都の宮廷料理人ですら再現できない、圧倒的な美味。
「なぜ……こんなに美味いんだ……!」
悔しいが、体が、舌が、あの村を求めてしまっている。 経済は依存し、民心は奪われ、今や武力制圧すらリスクが高すぎる。 攻め込むこともできず、かといって無視することもできない。
「おのれ、キオ……!」
夕闇が迫る部屋の中で、絶対権力者だったはずの領主は、キオのパンを齧りながら、胃の痛みに耐えることしかできなかった。 それは、剣を交えることなく勝敗が決した、静かなる敗北の夜だった。




