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 精神病院にいた頃のことはよく覚えていない。客観的にいえば、幻覚や幻聴を引き起こし、錯乱して人に迷惑をかけるから入院させられたわけだが、万里の意識でそれは普通のことで、一週間前の夕食の献立を覚えていないようにすべてがただ漫然と過ぎていた。


 病室には彼と同じ病気の患者が六名いたが、最初のうちは暴れたり叫んだりしていた人間も、薬の効果で徐々に症状がおさまっていく。その光景は、万里の目には人が魂を抜かれていくものとして映った。あり余る自由が奪われ、心を無くすこと。自分も同じめに遭っているのだが、そうした意識はなく、彼は他の入院患者を可哀想に思った。おれが元気を取り戻せれば、病院のスタッフをぼこぼこにしてやれるのにと。


 万里が精神を病んだのはラフロイグが原因だ。当時住んでいたアパートに転居してきたラフロイグは、眉毛の上に深い切り傷の跡があり、落ち武者のような長髪をたなびかせる、とうてい堅気には見えない男だった。彼は毎週、大量のラフロイグのウイスキー瓶をゴミ箱に捨てていた。表札もないから本名は知らない。ラフロイグと呼んでいたのは万里だけだと思う。


 見た目が怖いだけではなく、ラフロイグは部屋でときおり絶叫を発し、原稿にむかう万里の邪魔をした。物音はそれにとどまらず、クラシックを大音量で流すこともしばしばだった。部屋に押しかけてぶん殴ってやろうと思ったが、すぐに思い止まった。これほど公然と迷惑をかけられる人間にろくなやつはいない。社会経験を重ねた万里の嗅覚が危険を感じとったのだ。


 ようやくラフロイグの正体を知れたのは、通いつめていたアクアガーデン鹿無木町店の店長からだった。

「髪が長くて眉毛の上に切り傷のある男といったら津田組の組員に知り合いがいる」と店長はいった。相手がやくざと知ったとき、万里は露骨に困り顔となった。半ば予想したとおりであったが、やくざと事を構えると仲間がぞろぞろ出てくる。親分が恫喝して問題をあえてこじらせる可能性だってあった。万里はアクアガーデン鹿無木町店の店長を頼って、津田組の人間と交渉の場を設けて貰うことを考えた。けれどすぐに思い止まった。やくざは相手の言い分をのむかわりに慰謝料を要求するという話を聞いたことがあった。店長に余計な借りをつくるのも後々遺恨を生みかねない。


 結局、万里はラフロイグの蛮行を放置した。本来なら死ぬまで殴りまくりたいという衝動を押し殺した結果、彼は甚大なフラストレーションをためこんだ。やりたいことを我慢する。そんな単純な心の働きが精神の破壊をもたらすことは世間ではまったく知られていない。


 ある日、万里の怒りは決壊した。ラフロイグは性懲りもなくワーグナーを大音量で流し、おまけに奇声をあげはじめた。感情が溢れ出すとともに、今度はラフロイグが襲ってくるという恐怖が湧いた。やられる前にやろうと考え、万里は隣室のチャイムを押し、ドアから顔を覗かせたラフロイグの長髪をふん掴み、アパートの廊下に引きずり出した。そして殴る蹴るの暴行をくわえたが、このとき万里の精神はすでに壊れていた。大音量のワーグナーは本物でも、ラフロイグの奇声は幻聴で、彼を襲いにくるという恐怖は妄想だったからだ。

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