リップシンクの瑣末な身上 Action 10ー10(Haruichi's short story.)
「さて…、他に何か聞きたいことはあるかな?さっきまで上の部屋に居たんなら、その辺りで気になることがあったんじゃないか?」
「あ、はい。あの部屋は春一さんが私の為に用意してくれた…、ってことでいいんでしょうか?」
僕の問いかけに対し、寧勇さんは迷うことなく『聞きたいこと』を挙げた。その『聞きたいこと』には、寧勇さんの何かしらの希望が込められている気もしたが、僕はありのままの事実を答えるしか出来そうになかった。
「いや、あの部屋を君に用意したのは勇編だ。勇編が『部屋を探している』と言っていたから、僕は退去が決まっていた部屋をキープしてあげたってだけだ。部屋を借りる目的がを聞いたら『妹の為だ』って言うから、オーナー権限を使って勝手に家賃を下げさせてもらった。僕のしたことはそれだけだよ。」
「じゃあ、部屋にあった諸々の契約書は、全部兄が代わりにしてくれたってことでしょうか?」
「そうだね。そもそも、あの部屋を借りた理由の一つに『【折坂寧勇】名義の請求が、僕の元に届かないようにする為』っていうのがあったらしいから、勇編は僕に寧勇さん分の税金とかを払わせたくなかった…ってことなんだろうね。未成年時はともかく、二十歳を過ぎてから寧勇さんにかかる国への税金なんかは、全部勇編が払ってくれてたはずだよ。」
僕が払っても良かったのだが、それだと寧勇さんが僕に金銭的恩義を感じてしまうことだろう。勇編のことだから、きっとそうなることを予見して寧勇さん用の住所と部屋を用意したのだろう。僕と寧勇さんの関係がフラットなものになるようにという、勇編なりの気遣いなのだと思う。
「…そうですか。色々教えて下さりありがとうございます。戸籍の件も、その…、どう言っていいのか分からないのですが…。」
-(まずい…。)-
その、明らかに言葉を探っている様子を見て、僕は慌てて寧勇さんの発言を遮った。
「いいよいいよ。無理に言葉にする必要は無い。君も言わば巻き込まれた側の人間なんだから、言い訳も謝罪も必要ないはずだ。」
「え…?」
「そのー…、君達兄妹が何かしらの『事情持ち』っていうのは最初から分かってることだから、それを受け入れた僕が『変わり者』ってことで、ここはお互い納得しておこうよ。」
寧勇さんが自ら墓穴を掘ってしまわないよう、あえて僕の方から事情の縁を触りにいった。ガッツリ触れられたくないことは百も承知だったが、僕はあえて『歯止め』として触れることを選んだ。
「『事情』について…、兄から何も聞いていないんですか?」
「うーん…、今となっては恥ずかしい話なんだけど、勇編と出会ったときの僕は、自分のことでいっぱいいっぱいで、他人の事情なんてどうでもよかったんだ。結局僕は勇編の『事情』を掘り下げないまま、ここまで来てしまったという訳だ。」
-(それに…、僕を注意を促してくれる人なんて、周りに誰もいなかったし…。)-
「私から言うのも何ですが…、気にならないんですか?」
不安なのか疑心なのかは分からないが、寧勇さんは僕に対し、あまり良い表情を向けていなかった。そうなる理由も当然分かるが、これが僕の性分なので、どうにかして理解してもらおうと思った。
「もう『今更?』って感じかなぁ。それと、僕はあの日の事故以来、他人に干渉することが苦手みたいなんだ。だから聞かないっていうのも、一つの理由かもしれない。」
「そういえば、さっきも言ってましたね。『干渉するつもりはない』って。私はてっきり程よい距離感を保つ為の言葉かと思ってました。」
「同じことだよ。君達の周りにもいないかな…?遊びに誘われたら参加するけど、決して自分からは誘いをかけない友達。」
「「あぁ~…。」」
-(良かった…。例え話が上手くはまったみたいだ…。)-
「本当は遊びたいんだど、怖がって人を誘えない。だから誘われたときは嬉しくて、無駄にテンションが上がる。僕はそういうタイプの人間ってことだよ。」
「だから兄と必要以上の会話をしてないってことなんですね。」
「そういうこと。『気にならない』とか『興味が無い』とかではなく、どこまで踏み込んでいいのか…距離を測るのが苦手ってだけさ。だから、仮に君から話しかけられることがあれば、僕はきっと嬉しいしと思うだろう。干渉もお節介もするつもりはないけど、相談事があればいつでも頼ってもらいたい。実際に力になれるかはわからないけど、とりあえず話だけならいくらでも聞いてあげるよ。」
「ありがとうございます。では、また今度改めて、お茶菓子持参で伺わせてもらいますね。春一さんとの会話は、まだまだ話し足りませんので。」
「それは楽しみだな。僕もお茶と長い首を用意して、寧勇さんがまた来るのを待っているよ。」
そう告げた瞬間、部屋に置いていた仕掛け時計が六時の合図を鳴らした。話も一段落していたので、幕引きには丁度いい場面だと、ここに居る誰もが思ったのだろう…。二人は自然と席から立ち上がり、『そろそろ帰りますね』と言って、椅子を綺麗に元の位置へと戻した。
僕は玄関へと向かう二人の後をついて行き、扉から出て行く姿を見送ることにした。靴を履く後ろ姿に、僕はあの部屋の行方を訊ねた。
「今後、寧勇さんは上の部屋を使うつもりかい?」
「そうですね…。折角なので使わせてもらおうかと思います。何だか私仕様に改造されてるみたいですし、タイミングも……、悔しいけど一致していたので。」
「そっか。……。」
「……。もし、私に保証人が必要な場面が来たら、春一さんを頼っても良いですか?この先、私は色んなことを始めるつもりなので、そういう場面が何度か来ると思うんです。」
「勿論良いよ。僕の意思としてもそうだけど、実は勇編からも頼まれてた。『何かあったら俺が責任取るから、頼む』ってね。」
「…兄には敵いませんね。でも、私のしりぬぐいを兄にさせるなんて今生の恥になるので、絶対にさせませんけど。」
「…だろうね。」
そう言った後、僕達は顔を見合わせ笑いあった。玄関の扉を開けて外に出た二人は、こちらに振り向いて一礼をした。
「じゃあ、また今度。」
「はい。近いうちに必ず連絡します。」
「籠崎さん…、君は寧勇さんのことが心配でついて来てくれたんだろ?」
「あ…、はい…。」
「だったら、君もまた来てくれて構わないよ。心配してくれる友達がいることは良いことだ。今日話したことだけでは納得出来ないだろうし、気になることがあれば随時心の中にでも書き留めておいてくれ。」
「…はい、ありがとうございます。」
二人は再び一礼すると、そのままゆっくりと扉を閉め、この部屋を後にした。久しぶりにこの部屋で人と話したせいか、二人がいなくなった部屋はいつも以上に静かに思えた。
僕はテーブルに残された三人分の茶碗を回収し、キッチンに残されていた急須と共にそれらを洗い始めた。そのときに頭上の戸棚が開きっぱなしになっているのに気づいたが、泡だらけの手で閉める訳にもいかず、洗い物を終わらせることに専念した。
-(戸棚…、開けっ放しだったの見られてたかなぁ…。)-
じわじわと恥ずかしさが込み上げてくる中、僕は洗い物を終えると、ようやく戸棚に手を伸ばした。しかし、根本で何かが引っ掛かっているらしく、手で押さえても戸棚は閉まってくれなかった。僕は軽くため息をつきながら、さっきと同じように椅子に上り、中の様子を確認した。
「…なんだ、これ。」
茶托が入っていた箱を取り出した際、奥にあった紙袋を一緒に引きずってしまっていたらしい。何かが入っている紙袋は横倒しにされていて、その持ち手の部分が扉に引っ掛かってしまっていた。
僕は中身が気になり、その紙袋を戸棚から降ろした。このマンションには最低限の荷物しか置いていないが、グラスやカップなどは来客用の為にいくつか自宅から持ち込んでいた。この紙袋も一緒に持ち込んだものだと思うのだが、使う場面がなかったせいか、何が入っているのか忘れてしまっていた。
-(微妙な大きさの箱だな…。一個にしては大きいし、二個入りにしては小さいような…。)-
紙袋から取り出した箱は、重さからしてグラスが入っているを思われるが、箱の外装や大きさを見ても中身が思い出せなかった。僕は箱の爪部分にあったテープをはがし、箱を開けた。中に入っていたそれを見て、僕はこれを購入したときの記憶をようやく思い出した。
-『ねぇ春一君。これくらいの大きさだったら、私も晩酌付き合って良いよね?』-
どこかワクワクしながら、彼女がペアグラスを指差す姿…。それは、僕がお酒を飲むことと共に忘れていた、ささやかな日常の記憶だった。箱の中に並んでいる小さなペアグラスは、何とも言えない僕の表情を映して見せていた。
「勇編も人が悪いよな。本当にユウカの生き写しみたいじゃないか…。」
面と向かって話しているときは、特に何も思っていなかった。
だけど、寧勇さんが帰り際に見せた横顔は、僕が思い出した彼女の横顔にそっくりだった。