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黄昏姫と蛆の悪魔9

 駅員が慌ただしく走って、いくつかある乗降口を端から占めて回る。アメリアは列車が動き出す前に、件の花婿たちを探さねばならなかった。貨物が乗っている車両の一つ前から始めて、順番に客車を歩いていく。

 車内は閑散としていた。発車もまもなくというのにコンパートメントは空室が多く、ドアにカーテンがかけられているのは四つだけだった。

 アメリアはカーテンのかかっていない窓を順に見て回った。しかし一向に花婿たちの姿は見当たらなかった。列車が揺れる。アメリアは近くの客室に入った。


 列車の揺れがひどく、アメリアはふらつきながら座席に座った。硬い板の上でこれから随分と揺られ続けることを想って少々憂鬱になりながら、アメリアは花婿たちと合流するための算段を立てた。

 立ち歩けないほど揺れるのはこの列車がいまロクに利用者が乗ってこない田舎にほど近い場所を走っているせいで、次の駅のある町に近付いてくれば多少はマシになるはずだった。補修が行き届いていない悪質な線路に別れを告げたら、勝手に別の駅で降りられてしまう前に花婿たちを見つけなければならない。

 気鬱になったアメリアは、そこでようやく向かい合った座席の上にぽつんと黒い紳士帽が置かれていることに気が付いた。良く手入れされた、上等なものに見えた。忘れ物だろうかと手に取りかけた瞬間、ドアが開く。アメリアがドアの窓にカーテンを掛け忘れた後悔に襲われる間もなく、現れた紳士が大げさに驚いて見せる。


 「おや。失礼しました。なに、わたしはすぐに退散いたしますから、レディの部屋に立ち入った不作法は見逃していただきたい」


 紳士はアメリアの父と同じか、それより少々年かさに見えた。白髪の混じる髪を上品に撫でつけ、後ろに流している。おろしたてのように皺のないコート、ぴかぴかと輝くステッキ、けれど頭の上にたった一つだけが欠けている。


 「いいえ……いいえ、貴方が使っていらっしゃったのに、勝手に入ってしまって……」


 アメリアは戸惑って目を伏せた。アメリアの手には、ちょうど灰色の頭に乗せたらしっくりくるような紳士帽がある。アメリアは注意深くそれを持ち上げ、そっと手渡した。紳士は愛想よく会釈するとひょいと帽子を受け取って、アメリアの向かいの席に腰かけた。


 「失敬、失敬。実はこの路線の端っこからずっと乗っていたのですが、駅員と世間話をしましてね、席を外しておりました。本当は気が向いた駅でふらりと降りては村人を捕まえてこのあたりの暮らしぶりや噂話なんかを尋ねて回りたいものだが、なにせ私は追われている、そう生まれた時からずっとずっとやつは私の背中を狙っているのだ、時間という怪物がね!だが時々思うのだ、所詮これは選択に過ぎない。私を追う怪物とは、私が作り出した「はりぼて」に過ぎない。つまりだ、私は同じ対価を払うなら、田舎の泥臭い男衆や乳飲み子を山ほど抱えてくたびれた女よりも、ちょっとばかし気の利いた、都会の分別を弁えた男や君のような……美しく清らかな女性と語り合いたい、そのような醜くも浅ましい選民意識が怪物となって私の背中を追い立てているのではないかとね!」


 アメリアは消極的な相槌を打ちながらこの紳士の長広舌を聞いていた。紳士は一旦口を閉じてアメリアの顔を意味ありげに見つめた。

 アメリアは紳士の言う怪物について意見を求められたのだと察して、少々居心地の悪い思いに駆られた。アメリアは時間などという紳士が頭の中で作り上げた怪物についてもっともらしい意見を述べる自信は全くなかった。けれどこの紳士が父とは違って一般に話し上手で冗談好きの社交的な人物と評されるであろうことはよくわかったので、意外な場所で決まりの悪い再会をする羽目にならぬよう、非凡すぎず、かつ上品な反応をする必要があった。


 「ええ。時間はいつも人を忙しなく追い立てます。それは羊を追う者も、山を掘る者も、列車に揺られる者も、同じように。けれど時間を紡いでいるのは天の処女だというではありませんか。彼女たちの紡ぐ布地を指して怪物だなんて、私にはとても飲み込めなくて……ひどく驚いてしまいました。ごめんなさい、私には難しいお話だったのでしょう」


 躊躇いながらそう言うと、紳士は残念そうな顔を作って、そうかね、と言った。切り揃えられた髭を撫でつける指先は緩慢で、満足そうなもう一つの仮面が透けて見えるようだった。


 「うん、突然わけのわからないことを言ってすまなかった。どうか気ちがいじみた男だとは思わないでくれ。わたしはここから幾分か東の方に土地を持つ家の者でね……」


 再び長々と話し始めた紳士を、凛とした、それでいていじらしく可憐な声が遮った。


 「もし。お花はいかがですか」


 声はコンパートメントの外から聞こえてきた。アメリアはこのようなことに遭遇したのは初めてだったので、ただ息を押し殺していた。

 見ると、いつのまにか戸がほんの僅かに開けられていて、隙間から少女と思しき人影の血色のいい肌と一筋のブロンドの髪が覗いていた。紳士が落ち着き払った仕草で髭を撫で、入りたまえ、と許可を出す。

 可憐な声に似合いの、可憐な少女がにっこり笑って扉を開けた。少女は日焼けして色褪せた赤いケープを羽織っていたが、それが健康的な赤い頬とよく似合っていてとても可愛らしかった。後ろ手に提げていた花かごを前に持ってきて、中が良く見えるように傾ける。


 「お花はいかがですか」


 花かごは紳士に向かって傾けられていたが、アメリアの眼にも花かごの中の赤や黄色の薔薇が見えた。注視すると乾燥して色褪せてしまった薔薇が底の方に隠れている。香気はとうに散ってしまっていたようで、アメリアが厭う花ではあれど特に不快感は覚えなかった。


 「頂こうか」


 紳士が硬貨を一枚取り出して花売りに渡す。花売りは硬貨をスカートのポケットに無造作に入れた。そうしてから、紳士の方に身を乗り出す。


 「ありがとうございます。あなたの旅路に祝福がありますように」


 胸元まで伸ばされた柔らかい金色の髪がふわりと揺れた。花売りは紳士の頬にやさしく口づけると、花かごから一輪の赤薔薇を取り出す。赤薔薇は一番美しい瞬間に摘まれ損ねたといった風体で、花弁がだらりと外側に広がっていた。花売りは棘で指を刺さないように器用に薔薇の茎を摘まんだ。紳士が静止をかける。


 「代金の分の薔薇はこちらの令嬢に。彼女の美しい赤い髪に似合うものを頼むよ」


 そこで初めて、花売りはアメリアに目を向けた。花売りは恥ずかしそうにはにかんで、赤い薔薇を引っ込める。代わりに差し出されたのは、少しくたびれた白薔薇だった。花弁の先端部分は萎れて変色しかけている。

 花売りは躊躇いがちにアメリアに顔を近づけると、紳士に聞こえないように囁いた。


 「ごめんね、綺麗なお花は扱っていないの」


 アメリアは怯んだように沈黙してから、ゆっくりと唇を微笑みの形に釣り上げた。アメリアは安堵していた。花売りはアメリアには口づけなかった。瑞々しい瞳が目と鼻の距離でこちらを窺っていた。


 「ありがとう。こんなに素敵な香りの薔薇は初めてです」


 アメリアの黒い手袋が薔薇を受け取る。花売りはもう一度はにかんだ。

 向かいの座席で、紳士が手荷物を持ち上げた。おどけたふうに、大げさな身振りで荷物と帽子と杖を確認している。忘れ物がないことを確信すると、花売りに視線を投げかけた。


 「今日は籠ごと買うという男はもう見つかったかい」

 「見つかっていないんです。まだあまりに人が乗っていませんからね、次の駅を過ぎた頃にまた尋ね回ることにします」

 「そうか、そうか。では私は一両目の一番後ろのコンパートメントに行くからね、困ったらおいで」

 「嬉しいわ、そういたします」


 紳士は最後にアメリアに向き直ってお辞儀をした。アメリアも立ち上がって礼をしようとするも、列車の揺れがひどく再び座席に吸い込まれる。紳士のぴかぴかと光る靴は床から浮いているのだろうかと思われるほどに、滑らかに動く。


 「それでは、失礼いたします。ひとときの逢瀬ではありましたが、愉快な時間をありがとう、貴女に祝福がありますように」

 「ええ、とても楽しい時でした。あなたにも祝福がありますようお祈りしています」


 アメリアは目礼に留めたが、紳士は気にすることなく機嫌のよい足取りで退室した。紳士の姿が見えなくなると、そっと袖を引かれる感触があった。

 アメリアは息を呑んだ。想像よりも花売りの小さな顔がずっと近くにあった。薄桃色に色づいた頬が少女の顔を幼く見せていたが、緩められた目元があだっぽくアメリアを覗いていた。ごく近い距離で、花売りの体の熱が乗り移ったかのように錯覚する。花売りはいたずらっぽい笑みを浮かべてくすくすと笑ってから、不意に離れてコンパートメントを去っていってしまった。


 茫然と自分と同じくらいの年の少女の背を見送る。アメリアを一人取り残して、列車は未だ激しく揺れていた。

 言葉が拙いばかりに、人が使っていたコンパートメントを奪ってしまったかと思うとどうにも気が重く思われた。やらなければならないことと、やってはいけなかったことと。自分は何一つ上手くできないのだという考えが葉喰い虫のようにアメリアを蝕む。

 堪らなくなって俯くと、夕陽色の髪が視界を檻のように遮った。自分の喪服の黒でいっぱいになった視界に、一つ真白の花が映る。


 急にまざまざと、花売りの白い顔の下で巡る血潮の揺らぎが強く思い起こされて、脈打つ血に飲み込まれそうなくらいだった。混乱したアメリアは、薔薇を取り除こうとして花のがくを摘まむ。

 掌に痛みが走る。強く握りすぎたか、薄手の手袋では薔薇の棘を遮るには足らなかったらしい。咄嗟に手を引っ込めると、白薔薇は膝から床へ転がり落ちる。

 薔薇がアメリアの体を離れた途端のことだった。たちまち、白樺の館の如き、濃密な薔薇の香気が立ち込める。目の前が真っ白になる。


 「ご機嫌いかが?」


 その声は麻痺毒を耳に流し込まれたかのような錯覚を覚えさせた。背筋が粟立ち、身震いする。拍子に夕陽色の髪でできた檻に少し隙間ができ、黒い脚が垣間見えた。深い群青色の、しなやかな脚。爪が金色に染められており、星の上に立っているかのようだった。衣服を身につけていないのか、黒い肌が惜しげもなく晒されている。

 アメリアは目の前の脚を爪先から視線で辿っていって、腿まできたところで我に返った。美しく整った女性のシルエット。顔を伏せて夕陽色の檻に籠る。

 声が笑った。黒い指先がアメリアの髪をかきわけて侵入する。爪に輝く黄金の星の輝きが眩しい。優しく頬を撫でながら、蠱惑的で陰湿な声が忍び寄る。


 「結婚式、素敵ね。招待するから、是非いらっしゃって」


 熱くはなく、冷たくもなく、ただ滑らかな肌の感触が与えられる。


 「ああ、あの騎士に言っておいてくださる?己の敵を愛せよ、と」

 「騎士?」


 アメリアは自分の声に驚いた様子で、素早く口を覆った。手が手袋越しに黒い手と触れ合って、体が硬直する。星を持つ指はアメリアの手の上から顔の輪郭をなぞると、引いていった。

 アメリアは硬く目を瞑り、心の中で十数えた。顔を上げると、アメリアは一人きりだった。

 列車の揺れは静まっていた。もうすぐ次の町に止まって、いくらかの乗客が乗り込んでくるだろう。その前に花婿たちを見つけなければならない。アメリアは焦燥した面持ちのまま、コンパートメントを出た。誰もいなくなった空間に白い薔薇が一輪置き去りにされていた。


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