黄昏姫と蛆の悪魔6
窓枠に腰かけ、じっとローズガーデンを見張っている白い背がふいに動いて、迷い込んだ蛾を右手で弾く。蛾は窓の外に落ちて行き、見えなくなった。少年は規則的に足を揺らして、月の光を浴びている。時折、建物に足がぶつかってとん、とん、と軽い音がした。
そんな光景が昨夜に本当にあったことなのか、アメリアには現実だとも幻覚だとも断ずる必要を感じられなかったが、少なくとも朝になるとレオナルドは姿を消していた。
代わりに、強張った顔の女史がアメリアを待っていた。屋敷の廊下で朝の挨拶をした途端に、強く抱きしめられる。アメリアは咄嗟に何も言えず、女史が一気に老け込んだかのようなしわがれた声でアメリアお嬢様、と繰り返し囁くのをただ聞いていた。
老女の体は枯れ木のように細かった。大らかに微笑み、闊達に林を行く姿に覆い隠された、女主人の死を嘆く一人の女の姿が見え隠れした。
しばらくそうしていると女史の様子も落ち着いてきた。女史はアメリアを解放すると、彼女の手をぎゅっと握った。
「よく、無事に帰り、無事に目覚めてくれました。何度己を悔いたことでしょう。あなたが裏庭へ迎えに出た私を見て、傘を放り出して林の奥へ駆けて行ってしまった時、心の臓が凍り付くようでした。まして、あなたの錯乱し、怯えた顔といったら!どうか、愚かな老婆を許してください、若い娘が家から遠く離れて死に触れたのだから、私はずっとそばにいてやるべきでしたね」
「い、いえ。いいえ、シシィ、あなたは賢く情深い女性です、私は、そんなことを……」
アメリアは激しく動揺して、しきりに首をふった。それは女史の言葉を否定したいというよりも、あまりに大それたことを受けいれられない少女の反射的な反応だった。目を伏せ、女史に強く握られた手から力を抜く。それは気ちがいじみた自分に誰かが触れるのが恐ろしいと考えたゆえの行動だった。
アメリアはつっかえながら、必死に言葉を紡いだ。
「どうしてあなたに非などありましょうか、私は、目を塞がれていました、私は蒙昧の徒であり、気狂いのような真似を」
「アメリア、アメリア、どうか間違えないでください」
女史は、アメリアの暗褐色の瞳に自分のオリーブ色の瞳がちゃんと映り込むように、顔を近づけてやさしく囁いた。
「あなたの若くしなやかな心は、おそろしく繊細にできているのです。あなたはそのことを知って、自分を愛さなければなりません。どうか恐れず、気負わずに。あなたの心はとても美しいものです」
アメリアは沈黙した。女史はアメリアに何か返事を促すことはしなかった。女史が背中をさすって上品に笑いかけてやると、アメリアは僅かに微笑み返したが、顔色は蒼然としていた。
「さあ、さあ、暖かいものを食べて、もう少しお話しましょう。お嬢様の大切な孫娘であるあなたを、私にも愛させてください」
「……はい、シシィ、喜んで」
女史はアメリアに食事を与え、それがひと段落すると革張りのソファに並んで腰かけた。主に話していたのは女史であり、アメリアは心ここにあらずといった様子で、穏やかな屋敷の暮らしについて聞いた。女史の話には、祖母と、薔薇がたくさん登場した。
女史はアメリアにも何か話をさせた方が良かろうと考えたようで、此処へ来るまでの列車の様子や日頃の暮らし方についてひかえめに尋ねた。アメリアは答えて喋りだすのだが、長く話すと父のことに話が及びそうになって咄嗟に口を噤む羽目になり、うまく話すことができなかった。
父は祖母の子であったが、祖母は夫を持つことが無かった。アメリアは自分が父ではなく、目の前の老女も祖母その人ではないと理解していても、彼女がどのように考えているのかを推し量り、どこまで言及してよいものかと探りながら語る行為は、消耗したアメリアには荷が重かった。
居間の時間が段々と沈黙で占められるようになった時、澄んだ音色のベルが鳴った。一つ、二つ、何度も鳴らすうちに耐えられなくなったのか、おうい、シレーヌさん、と野太い男の声が聞こえた。アメリアの体が熱を失う。来客だ。女史はまあ、と呟いて出ていった。
アメリアは窓に近付いて雨の降り続ける外を見た。濡れ鼠になった村の男を女史が出迎え、屋敷に招き入れようとする。男は首を振って断ると、大げさなほどに身振りをつけながら何かを必死に伝えていた。
男の顔つきまではよく見えなかったが、よい報せでないらしいことは明白だった。何か、人々が血相を変えて方々を走り回るような、恐ろし気な出来事がアメリアの身に迫っていた。
アメリアは躊躇いを覚えつつも、部屋を出た。二人のもとへ向かうため傘を借りようとして、昨晩庭に放り捨ててしまった傘が立てかけられていることに気づいた。白い傘は綺麗に拭われていて、泥水や草の欠片などはどこにも付いていない。アメリアは深く恥じ入りつつ、傘の柄に手をかけた。
恐る恐る屋敷の大きな扉を開く。ぎぃ、と金具の軋む音が鳴ったが、雨音に掻き消されて話し込む二人の耳には入らなかった。
傘を差し、門へ向かう。ひっきりなしに雨粒が傘に落ち、弾かれて地に落ちる。石畳が黒く塗れ、アメリアの足跡をすぐに塗り替えた。
二人の声が聞こえる距離まで来ると、アメリアは足を止めた。アメリアには話を盗み聞こうという意図はなかった。しかし、何と声をかけたものかと躊躇するうちに雨の隙間から漏れ聞こえた言葉は、彼女の足をその場に縛り付けて余りあるものだった。
「では今、神父さまのご遺体はどこに?」
「そりゃあ、あんな場所にいつまでも置いておくわけにゃいかないことはわかってるんですが、何しろ本当にひどい有様でして、まず御姿を整えないと運び出すこともできねぇような状態なんでして、ひとまず白樺の方の棺を先に運び出したところです。棺は村長の家にあります、どちらにせよその手はずでしたもので」
「わかりました、お嬢様の棺のことはありがとうございます。それで、相談というのは何なのです、あまりのことに打ちのめされた心地ではありますが、私にできることなら何でも致しましょう」
「いえ、いえ、直接シレーヌさんに何かして頂きたいというわけではないんですがね、助言を頂ければ、と。村の一同パニックになっちまって、どうしたらいいもんだか、てんでわからんのです。とりあえずお前、シレーヌさんに相談して来いと言われたんで一目散に走って来た次第でして……」
「そうですね、動転するのも当然のことです、そのような惨劇がどうして許されましょうか。なんにせよ、神父さまが安らかにお眠りになれるようにしなければなりません。私が行きましょう、村からも、心が落ち着いた方を呼んでください。それから棺がいります……教会に届けてください、地下室まで運んで頂くことになりますが、棺ができあがるまでには多少整えることができるでしょう」
本当ですか、という男の縋りつくような声はアメリアに届かなかった。アメリアは来た道を駆け戻った。姿を見られぬように隠れる余裕もなく、直感的に何かを感じ取ったらしい女史に呼び止められる。
「アメリアお嬢様?そこにいらっしゃいましたか?」
くるりと振り返った時、アメリアの表情は落ち着き払っていた。悲しみを湛えた瞳には薄く涙の膜が張っていた。
それ以上女史が言葉をかける前に、アメリアは言った。
「シシィ、どうか私にも手伝わせてください」
アメリアは涙ぐみながら微笑んだ。取り乱した様子もなく、静かに悲しんでいるように見えた。女史は顔を曇らせたが、目の前に村の男がいることを思い出したのか、よく仰ってくださいました、と言い、男に改めて向き直った。
「支度をして参りますから、中に入って少々お待ちください」
「それはたいへんありがたいお話ですけれども、ここで待たせてもらえませんか、雨に打たれていた方が頭が冷えるってもんです、ああ、勿論、お気になさらず。ゆっくり支度なさってください」
男はそう言うと、門の外へ向かった。門や植物などに体が触れないよう、その動作は注意深かった。極力石畳を踏まないようにと少々滑稽なほどに大股で歩いている。男の古ぼけた黒い靴には、雨に打たれて赤い水が滲んでいた。
屋敷の中に入ると、女史は開口一番アメリアに考え直すよう訴えた。それは無理からぬ話であった。
しかしアメリアはつい先ほどまでの不安定さが嘘のように落ち着いていた。落ち着き、悲しんでいた。アメリアは視線を落とし、静かに睫毛を震わせた。暗褐色の瞳に影が落ち、一瞬光が曇る。そうしてから、アメリアは女史の瞳をまっすぐに見据えて微笑んだ。
「シシィ、私の心を案じてくれて、安らかであるようにと願ってくれて、これ以上に嬉しいことはありません。でもどうか、行かせてください」
扉一枚挟んだ向こうでは、未だ雨が降っていた。雨音は激しくも穏やかにもならず、扉の隙間から同じ調子で響いてくる。立てかけられた二本の傘から水滴が滴り、点々と屋敷の床を黒く染めた。
女史は何か言いかけては口を閉じることを繰り返していた。彼女の顔には深く悲哀が刻まれていた。知古を奪われた苦しみに喘ぐ心の内を隠そうとする努力は痛々しく映った。
彼女は賢明な女性だった。彼女の眼にアメリアは幼く映った。毅然として申し出を退けようという気持ちと、娘子を目の届くところに置いておこうという気持ちを、悲しみで弱った天秤にかけて、決めかねているらしかった。
シシィ、と愛称を囁いてアメリアが更に言葉を重ねた。
「もう大丈夫、とは言いません。でも、神父さまとシシィのお役に立てたら、私は私をもっと好きになることができそうだと、そんなふうに思っただけで、こんな利己的な娘は神父さまの御身体に触れるに相応しくありませんか」
アメリアの声はよく透き通り、嘆きが美しく織り込まれていた。女史の唇がわななき、そして強く引き結ばれた。
「アメリアお嬢様、私もまだこの目で見たわけではありませんから、彼の言う状態がどれほどむごいものなのか、想像することしかできません。私から離れないでください。あなたの愛らしい顔を見ていると励まされます、試練に挑む老婆を傍で励ましてください。けれど、もしも私がすぐに屋敷へお帰りなさいと言ったら、あなたは帰らねばなりません」
「はい、シシィ。親愛なるシレーヌ。私は今この時をあなたの忠実な娘として仕えましょう」
アメリアは深く頭を下げ、女史から見えないようにドレスの裾を握りしめた。アメリアは喪服に身を包んでいた。それは女史も同じだった。この館は未だ女主人の死を引きずっており、それは新たな死を迎える用意がいつでも整っているということだった。