黄昏姫と蛆の悪魔5
昼間と同じように、白樺林の間を歩いていく。葉擦れの音ではなく、雨粒が葉を打つ音が賑やかだった。老婆の代わりに少年に手を引かれ、陽光の代わりに雲の合間を縫う朧気な月明かりを浴びる。柔らかな緑の絨毯は棘を備えた白薔薇の布地に化け、汚泥の上を歩いているかのような不快な心地がした。
レオナルドは夜空をじっと見ていた。足下に注意を払うでもなく器用に林を抜けていく。
「もう星の名前は変わってしまったか。すると、俺の知っている星はもともと多くないというのに、悲劇的だな」
空には分厚い雨雲が立ち込め、暗い鼠色の隙間から少し月が覗いているだけで、星などアメリアには一つも見えなかった。
「あまり天体のことには明るくないのですが、星の名前は変わるものなのですか」
「凶兆が見えれば名前を変えて別の星にしてしまう。そういうのは時代の流れだとか、文明の枝葉だとか……俺のような目の開かれていない大衆には関係のない話だ。王の領分になる」
王、とアメリアは呟いた。レオナルドが肩越しに視線を寄こす。空色の眼が輝く中に、星を見て取る。
「その王は、この国の中心に立つ将軍閣下のことを指してはいないのでしょうね」
「ああ」
レオナルドはアメリアの言葉に肯定を示したが、次の瞬間にはこの話題について興味を失ったらしかった。皮肉っぽく唇の端を上げ、うたうように低い声を出す。
「魔女の話を、しなければ」
何か相槌を打って、続きを促さなければならない。アメリアが問うたことへの答えを話そうとしているのだから。アメリアはそう考えつつも、不吉な予感に苛まれて何も言うことができなかった。
不吉で、不気味で、鬱屈とした、人の形をしたもの。アメリアは少年に抱く違和感を言葉にしようとしたが、うまくまとまらなかった。強いて言うならば、彼は狂人じみていた。
「アメリア嬢」
レオナルドが笑って言った。少年の眼は今もぼんやりと光っている。アメリアは呼びかけに応えて傍へ寄ろうとした途端、足を踏み外した。体が薔薇の中へ沈む。一瞬レオナルドが小さく口を開けて驚いた顔をしたのがアメリアの目に映った。
視界が白く塗りつぶされる。想像したような、薔薇の棘で身を裂かれる痛みはやってこない。代わりに、頭が割れるように痛んだ。容赦なく流れ込む薔薇の香りが体の内側を焼き爛れさせる。息を止めてもなお、逃れることは叶わない。体が落下していく浮遊感が脳を犯す。
背中を軽く叩かれる。次の瞬間には、アメリアを飲み込んだ薔薇の海は消え失せていた。
「大丈夫か?ゆっくり息をするんだ」
アメリアを案じる声に言われるまま、深く息をしようとして咳き込む。床に手を突いて震えるうちに、喉から花弁が滑り落ちた。呼吸が楽になり、アメリアは顔を上げた。
午前に訪れた教会の地下堂が広がっていた。床にまばらに白いものが落ちているほかは何も変わらないように思われた。いや、もう一つ、退室した際に神父が消していったはずの燭台に火が灯っている。夜だからか、火はどこか暗く、闇が広がって地下堂がずっと広く感じられた。
アメリアは気怠そうに濡れた髪をかき上げ、軽く絞った。雫が石の床に黒い染みを作る。夕陽色の髪は雨に濡れて炎のように鈍く輝いた。それは死んだ星の色だった。
アメリアが人心地ついたと見ると、レオナルドは立ち上がって部屋の奥へ向かった。白い棺の前でアメリアを招く。
「ここへ来たかったんだろう?」
レオナルドがあまりにも当然のように言うので、アメリアは深く考えずに頷いた。点々と散らばる白薔薇を避けて棺に近付く。
白い棺だと思ったものは、硝子張りの箱に収められた大量の薔薇だった。硝子板越しに、蠢く薔薇の中で老婦人が美しい顔で眠っている様子が仔細に観察できた。
アメリアはおぼつかない手つきで首から下げたロザリオを手に持とうとして、取り落とした。鎖が引っ張られて、首が締め付けられる。その衝撃ではじめて自分が何をしようとしていたかに気づいたとでも言いたげに、アメリアは小さく戸惑いの声をあげた。
その様子を黙って見ていたレオナルドが、茫然自失とするアメリアの顔を見遣ってから、手を出した。
ばちりと大きな音がして、火花が走る。
世話を焼こうとしてロザリオを掴んだレオナルドの手から煙が出ていた。しかしそれには頓着せず、豪奢なロザリオをアメリアの手に握らせてやる。ロザリオは鎖が切れてしまっていたが、今度はアメリアも力を込めて強く握りしめた。
レオナルドは棺から離れ、燭台の備えられた壁の横に立った。アメリアが祈り始める。彼女が祈りを終えるのを待たず、おもむろに呪詛を吐き出す。
「……呪われるがいい、我らの地に足を踏み入れたまつろわぬ民。その黒き脚で麦畑を踏み、その黒き腕で星に手を伸ばす蛮族ども。黒きマリアがどのようにして彼らを扇動したか、我々がどのようにして彼らを殺戮したか」
レオナルドの声が段々と大きくなるにつれて、棺の中の薔薇が震え出す。棺に寄り添って祈るアメリアは何も気づいていないかのように微動だにしない。
レオナルドの方も、アメリアに問われたからではなく、語らなければならないから語っているという様子で、彼女の反応を確認したりはしなかった。声は途切れることなく朗々と地下に響いた。
「我々の王は星を見る者であり、魔女もまた同じものを見た。黒きマリアは星見の王を殺すため、あらゆる呪術を行使した。毒を降らせ、陽を陰らせ、地を腐らせた。王の身を金属に蝕ませ、薔薇の種を植えた」
レオナルドがその言葉を言い終える間際、地下堂の戸が力強く叩かれた。ノックが三度続き、一瞬間を置いてから神父の声が届く。
「アメリアさん、アメリア・シュティンフレア!そこにいるのですか」
戸が強く押されたが、かんぬきが掛けられていたために神父の侵入は拒まれた。神父はアメリアがここにいるという運命的な確信を持っているらしかった。再び戸が叩かれ、アメリアの名が呼ばれる。しかしアメリアも、レオナルドも、何も聞こえていないかのように神父の声に注意を払わなかった。
レオナルドの顔には薄く笑みが浮かんでいた。この憤怒と憎悪を笑うよりほかに表す方法が無いとでもいいたげに、微笑んでいた。その表情はおおよそ彼のような年頃の少年に許されたものではなかったが、唯一見咎めることのできる少女は未だ熱心に祈りに逃避していた。
戸を忙しなく叩く音が地下堂を揺らす。レオナルドが低い声で魔女を呪う。アメリアはそれらを一切関知せずに俯いていた。目を伏せ、ロザリオを握り、祖母の棺に縋りつく。
アメリアと祖母とを隔てる硝子板は薄かった。触れれば溶ける氷のように澄んでいて、曇りない。殆ど頬を押し付けるようにして、アメリアは棺に顔を近づけた。棺の上に身を乗り出して、上半身で蓋を押さえる。棺はことことと揺れていた。
アメリアはロザリオを握る自分の右手を見て、それから何も握られていない左手を見た。硝子板の向こうの老婦人は上品に胸の前で手を組み、その指には金の指輪が嵌められていた。質の良い深緑色のドレスをまとい、首元に白薔薇の刺繍が刺された白いショールを巻いて、濡れたように輝くカフスのブローチで留めていた。詩集や手紙は、薔薇に埋もれてしまって見つけることができなかった。決壊の時は近かった。
「星見の王は呪術に屈し、魔女はその死体を磔にした。その十字架は黒い山の上に立てられた。黒き腐肉の山で王冠を奪い、そうして魔女は身を翻した」
アメリアはレオナルドの声を分厚い石壁の向こうのもののようにぼんやりと聞いていた。語られた内容は詩のようだというにはあまりに陰惨で、神話のようだと言うにはあまりに神の影がなかった。彼はきっと歴史を語っていたけれど、それが本当にあったことなのかレオナルド自身にも確信があるようには思えなかった。
アメリアは揺れる棺の上で祈り続けた。呪詛はひどく耳に心地よかった。しかしもう一つ聞こえ続けていた音が止んだ時、アメリアは祈りを止めた。
神父のアメリアを呼ぶ声が、小さくなっていく。代わりに不明瞭な呻き声が戸から忍び寄り、ノックの音は弾力のあるものを激しくぶつけるような重い音に変わった。
アメリアが顔を上げた。かんぬきが軋み、戸が大きく揺れた。呼応するように、棺の蓋が膨れ上がる。その勢いに弾かれてアメリアは棺から手を離した。
甲高い破裂音が空気を裂いた。硝子の棺は一瞬で粉々になり、床一面に白い薔薇が溢れた。熟れた花の芳香が空間を埋める。
アメリアの背筋に悪寒が走った。弾かれるように立ち上がり、壁に背をつける。借り物の靴の爪先に白い薔薇が触れ、形が崩れる。花弁が震え、むくりと起き上がる。
一際大きい音がして、アメリアは咄嗟に戸の方向を見た。
戸は破られていた。向こう側から、雨の庭で見たのと同じような人間大の蛆が這いずって来る。それは急いでアメリアの傍へ寄ろうと下腹部を忙しなく動かしていたが、非常に鈍足だった。あるいは、アメリアはこの瞬間を時間が止まったように感じていた。
戸を破った蛆とアメリアとの間には、棺から現れた蛆が寄り集まって、大小の塊を形作っていた。石の床の上に青白い塊がぽつぽつと這っている様子は水疱に侵された病人の肌のようだった。
アメリアは蛆が思い思いに蠢く様子を、部屋を俯瞰している心地で虚ろに眺めた。彼女の視界に、レオナルドがふらりと入り込んだ。
無造作に蛆を踏み潰す。レオナルドはこの芳しい虫に触れることに何の躊躇いもないらしかった。例のように、レオナルドに潰された蛆は花弁に戻り、床に散らばる。
先ほどまで多様な音で満たされていた地下室は、静寂に包まれた。蛆は音を立てずに動くことができたし、レオナルドは何も語らなかった。粛々と近くの蛆から順に花弁へ戻していった。
アメリアの前に、とうとうあの一番大きな蛆がやってきた。蛆の頭にゆっくりと穴が開く。アメリアにはこれが口だと分かった。蛆の口の中は薄暗く、奥まで青白い肌がずっと広がっているのが見て取れた。
蛆はアメリアを飲み込もうとするのでなく、口を大きく開いてから横に伸ばしたりすぼめたりして、何かアメリアの理解の及ばない行為に耽っていた。
ロザリオが音をたてて落ちた。アメリアは手から滑り落ちたロザリオにも気づかず茫然と立ち尽くした。背に当たる石壁の冷たさが、濡れた服を通して体を刺した。
硬直するアメリアとは反対に、蛆は段々と口を広げていった。頭部と思われる部位の殆どが裂けて穴になった時、蛆に影がかかった。
レオナルドは蛆に手をかけたままアメリアをちらりと見た。意思を探ろうという考えがあったのかは定かではないが、アメリアの暗い赤色の眼にはレオナルドの行動に干渉するほどの思念は浮かんでいなかったらしく、最後に残った蛆もあっけなく引き裂かれ、押し潰された。
壊れた戸の残骸の向こうから、風が恐ろし気な音をたてて吹いていた。床の花弁が風に弄ばれて僅かに浮かび上がっては力なく落ちる。
アメリアが、体の力を抜いて目の前の少年を見た。
「あの、レオナルド。さっきはロザリオを、ありがとう」
「いや……鎖を壊してしまった、申し訳ない」
きまり悪そうにふいと視線が逸らされる。レオナルドは床に落ちたロザリオを拾おうとしたが、アメリアはその手を制した。身を屈め、慎重に薔薇の彫られたロザリオに指を絡める。アメリアはその行為に不自然なほど時間をかけたが、レオナルドは急かすでもなく彼女を見下ろしていた。
アメリアは鎖の切れたロザリオを、手巾に包んでしまい込んだ。それから躊躇いがちにレオナルドの顔を見てから、目を伏せた。
「指が、爛れています」
それを聞くと、レオナルドはくるりと目を回して肩をすくめた。
「そうだな。俺は一部の金属と相性が良くないらしい」
「それは……随分と苦労なさったでしょう」
「気にしちゃいられない。すぐに治るさ」
レオナルドは手を外套の袖の中に隠してから、わかりやすく話題を変えた。口角をあげて、励ますように笑う。
「さっさと出よう。此処にいる理由もなくなっただろう」
理由、とアメリアは口の中で反芻したが、声には出さなかった。花弁を踏んで、戸の残骸を越える。アメリアが後にした地下室には、硝子の破片と白い花弁のほかには何もなかった。