黄昏姫と蛆の悪魔4
屋敷のことで何か手伝えることはあるかと侍女に尋ねた数分後、アメリアは傘をさして裏庭に立っていた。
祖母の日課は薔薇たちに話しかけ、慈しみ、愛を注ぐことであったのだという。侍女は雨の日に屋敷に籠っていても気分が滅入るでしょう、と穏やかに微笑んで、上等な造りの靴と傘を貸してくれた。
軽い傘だった。持ち手は使い込まれていてよく手に馴染む。これなら年老いた女が使ってもそう苦労は無いだろうと思われた。
雨粒が傘に跳ねる。アメリアの傘の周りでだけ、雫がぱたぱたと鳴った。花壇の前に辿り着く。薔薇の茂みは粛々と雨を浴び、水を吸い込む。
アメリアは傘の中を見上げて布地を観察した。白い傘に白い糸で、薔薇が刺繍されていた。この屋敷についてから、薔薇が目に入らないことはない。ここはアメリアの家ではない。父が厳格に支配している、あの屋敷ではない。
「ご機嫌いかが?」
アメリアが頼りなく呟いた言葉は、雨と一緒に花壇に落ちた。雨に打たれる薔薇はガラス片を被っているかのようで、その濡れた花弁とガラス片のような水滴がなにかとてもむごたらしいもののように感じられた。アメリアはどうしたって薔薇が好きになれなかった。薔薇の方もアメリアに対して親切に振る舞うつもりはないようで、アメリアの挨拶に返事も返さない。
「私はあなたがたがよく御存知の女性の孫娘で、父の名代としてここへやってきました。私の容姿に祖母と似通ったところがあるかは存じませんが、あなたがたの御心を慰めることができればと思います」
慈しみ、愛を注ぐとは?アメリアはそれ以上何を言えばいいのかわからなくなって途方に暮れた。薔薇は沈黙していた。アメリアも本当に薔薇が挨拶を返すことを期待していたわけではなかったが、自分が満足にこの美しい花々を愛すことができない負い目から目を伏せた。沈鬱な空気に薔薇の香りが漂う。まるで香水の中を泳いでいるかのように、雨足が強まるほど香りも強くなった。
アメリアの視界には、借りものの靴と薔薇が少しだけ映っている。奇しくも花壇の一番手前に植えられた薔薇は、昨夜アメリアの部屋に無遠慮な訪問をした白薔薇に、酷似していた。
ふちの毛羽立った、大ぶりな花弁。陽の下では羽毛のように見えたかもしれない。雨に濡れてしまえばどうにもみすぼらしい。そのみすぼらしい花が、ぐしゃりと踏み潰された。
アメリアが傘を取り落とす。水溜まりの上に落ちた白い傘に泥がはねた。
少年が立っていた。空色の眼をした、アメリアよりすこしだけ背の低い少年。濁った曇り空の下で、曇りのないスカイブルーの双眸が星明りのようにぼうっと光っていた。
少年は屈んで傘を拾い、何気ない顔で差し出した。遠くから響くような、独特な調子の声で言う。
「ご機嫌いかが?」
アメリアは困惑した。みるみる顔が紅潮する。からかわれているのだろうか?アメリアは怒って抗議するべきなのか?それとも不幸な偶然でアメリアが先ほど薔薇に話しかけた言葉と一致してしまっただけなのだろうか?
アメリアの頭の中をぐるぐると色々な事柄が駆け巡り、羞恥が湧き起こった。同時に、酷い裏切りを責め立てられているかのような罪悪感に駆られる。アメリアが薔薇はあまり好きではないといった口で、愛しているふりをして、薔薇の機嫌取りをしたことを不愉快に思われたのだろうか、などと考えていると、再び少年が口を開いた。
「すこしふざけすぎたか?ほら、早く傘に入らないと。といっても、もう大分濡れてしまったけど」
「ありがとうございます」
アメリアはなんとかそれだけ言った。少年の言葉通り、アメリアの長い赤毛はすっかり水を含んで重たく張り付いていた。服も濡れたが、アメリアはあまり惜しいとは思わなかった。飾りのない黒いドレスは、十分な替えがある。
少年はアメリアがぎこちなく傘を受け取るのを待ってから、腕を伸ばして握手を求めた。
「レオナルドだ」
簡潔に名乗った表情には陰がなかった。アメリアはおそるおそる少年レオナルドの手に自分の手を重ねた。
「マクウェル・シュティンフレアが娘、アメリアです」
重ねた手が強く握られる。アメリアは驚いて引き抜こうとするも、叶わない。レオナルドは手を顔の前まで引き寄せて、何かを探り取ろうとしているように、じっと見た。
アメリアは何をしているのか尋ねようとしたが、青く輝くレオナルドの眼を見てしまうと、そんな気も失せた。動揺を鎮めようと雨音に意識を集中させる。アメリアの腕が疲労を訴える頃、レオナルドは手を解放してそっと下ろした。小さく呟く。
「お前は白い手を持っている。肌が白い。気づかなかったな、それは幸運な報せだっただろうか?」
「それは、多くの場合良い意味として用いられるように思います」
「そうだろう、俺もあまり転がっているところを見ていない気がする」
アメリアは要領を得ない言葉を理解することができなかったが、疑問を言葉にはしなかった。あまり言葉が通じていない。昨夜も、まともに意思が疎通できていたとは言い難く、この少年を全て理解しようとすることに意味は無いように感じた。
代わりに、遠慮がちに誘う。
「こちらに来て、傘に入りませんか。手がとても冷たくなっていました」
「冷たい……?悪かった、不愉快だったろう。それには及ばない。自分じゃよくわからないし」
レオナルドは自分の両手を見て、空を見上げてから、雨が降っていたんだった、と言った。それから視線を下ろして足下を見る。踏み潰された白薔薇が無残な形で散らばっている。
「どうか動かないでください。私には、いくら厭おうとこの屋敷の薔薇の花を散らす権利は与えられていませんから、どうか踏まないでください」
それを聞くと、レオナルドはおかしそうに笑った。
「そう言われれば善処はするが、なかなか困難な頼みだぞ」
アメリアは首を傾げた。レオナルドが、だってそうだろう?と困ったように囁く。
促されるままによく周囲を見回すと、花壇から溢れかえった薔薇が辺り一面に咲き誇り、あの美しく忌まわしい光景を再び目にすることになった。
アメリアは咄嗟に、屋敷があるべき方向へと歩き出した。傘を投げ捨て、降りしきる雨に身をさらす。ふらふらとした足取りで、三歩も行かないうちに、腕を掴まれ止められる。
「待った、ここで転んだら目も当てられない」
地面には隙間なく白薔薇が這っている。アメリアの後ろに点々と踏み潰された花弁が落ちていたが、それも目立たないほどに薔薇が狂い咲き、雪崩のようだった。
ローズガーデンを歩いているというよりも、薔薇の茂みの上を歩いている状態だった。足を踏み外せば棘が薄い肌を穿ち、アメリアの血が白い薔薇の上に赤々と滴るだろう。
淑女が一輪の薔薇を持ち指先に小さな怪我をすることはあるかもしれないが、薔薇の上で転んで体中に傷をつけるような真似を父が歓迎するはずもない。
アメリアは足を止めた。努めて冷静に振る舞おうとして、心を静める。気分が落ち着いてくると、アメリアはとうとう目を逸らしていた問いを堪えきれなくなって、ゆっくりと尋ねた。
「レオナルド、あなたは私に何をしたのかと尋ねましたが、私は一体何をしてしまったのでしょうか。この白い薔薇も、虫も、あなたについても、私には何もわからない」
レオナルドはその問いにすぐには答えなかった。アメリアの前に出て、軽快な足取りで先導し始める。アメリアは先駆者に踏まれた花の上をなぞるようにして、少年についていった。
レオナルドの後ろ姿を眺めるうちに、アメリアは不安げに目を伏せた。目の前にあるブロンドの頭はちっとも雨に濡れていなかった。つまり、先程のアメリアの誘いはまったく無意味に彼を煩わせただけであった。
傘は投げ捨ててきてしまった。今更取りに戻る気にもならなかったので、アメリアは雨の檻にたった一人捉われたような気分で、じっとりと湿った髪をかきあげた。長い髪が首筋にはりつく感触が不快で、水を吸った服も体にまとわりついて鬱陶しいことこの上ない。
(でも一番不快なのは地面を踏む感触だ、花弁の上だからと言っても、こんなに柔らかいものだろうか。熟れきった果実を踏みつぶしているかのような、いいやもっとおぞましい……)
無言で進むうちに、遠くに屋敷の影が見えて来た。考えをまとめていたのか、問われたことをやっと思い出したのか、ようやくレオナルドが口を開いた。
「……それに答えるには時間が必要だ。何か知っているか、黒きマリアについて。おそらく何も知らないはずだし、そうでなければ我々のやったことがうまくいかなかったことになる。我々はたんに、そう、魔女と」
空が一段と薄暗くなりつつあった。夜が近い。レオナルドは一旦言葉を切って、振り向いた。前方を指差す。
「雨足も強まってきたところだ、ちょうどよかった。迎えですよ、お嬢さん」
レオナルドは安堵の見える表情で、親し気に笑った。アメリアは強張った顔で、少年の服の裾をつかまえた。
「あれは私を迎えに来たのですか」
のそり、と白い塊が近づいてくる。のっぺりとした顔のない体がアメリアの方へやってくる。蛆だ。人間くらいの大きさの蛆が、薔薇の上を這ってくる。雨に激しくうたれようと苦にすることなく、まっすぐにアメリアを目指していた。
蛆が這いずった後は花弁の一枚一枚が虫へと姿を変えていった。地面が蠢く。
アメリアは待った。アメリアを迎えに来たという蛆が自分を連れて行くのを待っていた。雨に体温を奪われた体が、一層冷え切っていった。唇から色が失われ、堅く引き結ばれる。異常な事態に際していようと、唯一アメリアに許された選択はいつもと何も変わらなかったためである。じっと待ち、耐える。それ以外をアメリアは持たない。
レオナルドが困惑をあらわに言う。
「俺はそんなにおかしなことを言ったか。とても愉快ではなさそうだ。賢明な選択肢ではないだろうが、いいだろう、さあ、手を」
アメリアが差し出された手に戸惑い、ここで白くぶよぶよとした迎えの手を受け入れるか、また別の場所へ連れて行こうとしている手に従うのか決められずにいると、レオナルドはアメリアの意志を問わずに手をすくって早足で引き返し始めた。ひどく冷たい手だった。
「行こう」
レオナルドにとっては、アメリアがどちらを選んだところで大した問題ではないようだった。雨を掻き分けて歩く顔つきに気負いの類は見られない。選択をしたという自覚すら薄いようだった。
アメリアはレオナルドが迎えと言った者を正体もわからぬまま拒絶したのだという自責の念に苛まれたが、その気持ちもじきに洗い流されていった。