黄昏姫と蛆の悪魔3
翌朝、アメリアは酷い悪夢にうなされて目覚めた。寝汗をかいて体が冷え切っていた。肝心の夢の内容も忘れてしまったので、アメリアは消化しきれない気味悪さを感じた。
おそろしい邂逅の夜を過ごした後、何もせずに眠ってしまったので、寝具の中や枕の下にはびっしりと薔薇の花が敷き詰められたままだった。アメリアは朝になれば全て煙のように消え失せているのではないだろうかと仄かに願っていたが、期待は打ち砕かれた。
アメリアはまず胸元から服の中に入り込んだ花弁を出し、次に髪に絡まった花弁を丁寧に一つ残らず取り除いた。アメリアの長い髪は癖のある毛質ではなかったため、比較的容易に事が済んだ。
とはいえ、アメリアは異様な量の花弁を女史に見せるのは気が進まなかった。あのちっぽけな柵の中の薔薇園の花を全てむしったところで、これだけの量にはならないだろうと思われた。
憂鬱そうなため息が零れる。
アメリアは女史に気取られぬよう、部屋を掃いて花弁を集め、部屋の隅の使われていない花瓶に押し込めることにした。窓から捨てるにしても、風に飛ばされてわからなくなってくれるとはとても思えなかったうえ、目の届かない場所へやるのはうまいやり方ではなかった。ここならずっと見張っていられるだろう。アメリアはおそろしいものから目を背けることを嫌った。誇り高き勇気の心からではなく、いくら逃げて忘れたところで、必ず追いかけてくるのだと知っていたからである。
アメリアはおそろしいものをおそろしいと思わなくなるように、自分を変えようとした。アメリアはそうして今日まで生きてきた。
処理を済ませて鏡の前に立つと、自分の青白い顔が鏡に映った。アメリアは女史に余計な心配をさせまいと重く沈む気分を取り繕った。はたしてそれはうまくいったとは言い難かったが、女史は何も言わなかった。
女史がアメリアの部屋を訪れた時、アメリアは寝台に腰かけて何をするでもなく視線を彷徨わせていた。女史は、白い布に包まれたものを差し出した。アメリアがそれを受け取り、静かに布を開く。
銀のロザリオだ。透かし彫りの薔薇がたっぷりとあしらわれ、豪奢で重い。両手にずしりとのしかかる重さは、首を通せば窒息してしまいそうなほどだった。
「アメリアお嬢様、気分が沈むのも無理はありません。けれど、思い出してくださいませ。肉の器こそこれから向かう教会の棺に眠っているけれど、本当のお嬢様は、神の御座にて悲しむ私たちを慈しんでいらっしゃるのだと。さあ、支度をなさってください。参りましょう」
アメリアは女史の言葉に頷き、弱々しく微笑んだ。
二人は林を抜けるために朝早く屋敷を出た。教会へと歩く道すがら、アメリアは目を伏せて口をきかないでいたが、女史が野ばらを見つけて微笑んだのを見て、そっと尋ねた。
「祖母の棺には、何を添えたのでしょうか」
「お嬢様の特にお気に召した詩集や、手紙、指輪をいくつか、カフスのブローチを一つ、それからあたたかなショールを選びました」
「薔薇の花は?」
「そうですね、薔薇に埋もれて眠るお嬢様はとてもうつくしいだろうことは私にも目に浮かぶように想像できたのですが、死者のために命あるものを手折るものではないでしょうし、お嬢様も私の考えに賛同してくださるでしょうからね……」
女史はゆっくりと目を細めた。死者への深い愛情が窺えて、かえってアメリアは戸惑ってしまった。自分だったら。父の棺に入れるものを選ぶ権限を全て自分に預けられたとしたら。アメリアはつらつらと考えこまずにはいられなかった。
白樺林は下生えがまばらで、アメリアのような、長い距離を歩き慣れていない者でも歩きやすい。緑色の絨毯と陽光を浴びる葉とを繋ぐ白い幹がのびやかに立ち並び、葉擦れの音がくすくすと聞こえる。
爽やかな空気だった。アメリアは屋敷を離れてやっと部屋の中にすら薔薇の芳香が蔓延していたのだと気づいた。そのために、深く息ができずにいたのだった。
先を歩く女史の足取りは、年老いた肉体には見合わぬほど闊達だった。アメリアの方を振り返り、励ますように語りかける。
「ほら、もうすぐ見えてきますからね」
アメリアは頷き、遠くに見える白い屋根の建物を眺めた。
白髪が上品な壮年の神父は親切に話をしてくれた。教会の地下に棺が安置されていると言い、燭台を手に案内した。
先を歩く神父とその後ろを歩く二人の影が、蝋燭に照らされて順番に伸びたり縮んだりした。
「白樺の方はね、決して数多く姿をお見せになるわけではありませんでしたが、稀に村の方へおいでになった時には、非の打ちどころのない気品高く心やさしい女性でした」
神父の背後で、黒い服に身を包んだアメリアが囁くような声ではい、と相槌を打つ。
「わたくしどもは確かなことは何も聞いてはおりませんが、あの方が身分ある女性だということを疑うものは誰もいませんよ。アメリアさんは、何も心配なさることはありませんよ、白樺の方の棺を担いでくれと頼まれて嫌な顔をする者なんかいませんからね。長い葬列になるでしょう。うんと長い列が、村の横を通って墓地の方へと、ゆっくり歩きます」
その時アメリアは葬列に混ざってベールを被り、顔を伏せて歩いていくのだ。
足音が段々と大きく空間に響くようになっていった。空気が冷たく透き通り、まとわりつくような冷気に肌が粟立つ。
神父が足を止めた。燭台を壁に埋め込まれた棚に置き、戸を開く。蝶番が軋んでわななく。
アメリアは一度背後を振り返った。ところどころに燭台が設置されていたので、たった今下りて来た階段を見て取ることはできたが、視界の端々に薄暗闇がのたくっていた。手を広げて招き入れる神父にぎこちなく笑いかけ、アメリアは一番最後に部屋へ入った。
神父が壁際を沿って歩いて回り、部屋の燭台に火を移す。その間も落ち着いた口調で、アメリアに語り掛けた。
「シレーヌさんが私を呼びに来てくださって、私は大慌てで白樺林を走り抜けました。シレーヌさんは隼のように巧みに木々を縫って走り、私も必死に遅れぬよう駆けていきました。ちょうど私たちの姿を見かけた村人たちもつられて走り出して、けれど彼らは屋敷には入らずに外で待っていてくれたのです。高貴な方の臨終が騒がしくてはいけませんから。
白樺の方は寝台に横になっていらして、脇には白薔薇が飾られていましたが、花弁と同じくらい真っ白な顔をしておられました。色が抜けて白く透き通った髪が、痩せ衰えた首から肩へと小川のように流れ落ち、寝台に溶けこんでしまいそうなほどでした。それから肌のしわは薔薇の葉脈のようで、それがどうにも神々しく美しく見えました。
シレーヌさんが右手を握り、私が左手を握りました。白樺の方は私たちを、いえ、正直に申しますとシレーヌさんが帰って来るのを待っていたかのように、その瞬間静かに息を引き取ったのです」
神父は一旦息をきって、女史の方を見た。女史は神父に直接何か反応を返すことはしなかったが、アメリアの傍に来てそっと抱きしめてくれた。
「私たちは祈りました。白樺の方の手がすっかり冷たくなるまで祈り続けて、それからようやく外で待つ者たちのことを思い出したのです。彼らには悪いことをしましたが、私たちが出ていくと怒るでもなく、神父さん、何が入用だい、と尋ねてくれたので、棺をこしらえるよう頼みました。
彼らは優れた職人なので、出来上がった棺は白く、滑らかで、芸術品のように美しいものでした。どうぞ、ご覧になってください」
アメリアは、目の前の棺をぼんやりと見つめながら神父の話を聞いていた。つややかな棺は冷たい空気の中にぼんやりと白く浮かび上がっていて、その部分だけ四角い穴を通して別の世界を覗き見ているかのようだった。
アメリアは崩れ落ちるようにして棺の横に膝をついた。アメリアの白い指が木製の表面をつつ、となぞり、確かに棺がここに存在していることを確かめた。暗い室内で神父と女史の表情はわからなかったが、二人ともアメリアのことをじっと見ていた。アメリアは何か聖なるものを仰ぎ見るような、ちょうど彼らが祖母に向けていたかのような視線を向けられている気がして、居心地悪く感じた。
女史がアメリアの横に跪き、祈り始める。その痩せ衰えた力強い手に簡素な木の十字架が握られているのに気づいて、アメリアは朝に侍女から渡されたロザリオを思い出した。
思い出した途端に、ロザリオの重みに息がつまった。震える手でロザリオをすくい、侍女の真似をして祈る格好をする。アメリアは女史が立ち上がるまで、悟られないようにロザリオの表面を親指でなぞっていた。
然るべきのちに、再び神父が先導して退室する間際、アメリアは背を震わせた。白い棺の上に、数枚の花弁が乗っていたような気がしたけれど、真偽を確かめることなく地下室を後にした。
埋葬の日取りを打ち合わせ、なるべく早くがいいが、これから明日いっぱい雨が降るようだと神父が助言したので、明後日の午前に執り行うことに決まった。村人たちには神父の方から人を出すように報せるというので、そのまま屋敷に戻ることになった。
アメリアと女史は再び白樺林の中を歩いて行き、二人が屋敷の中に入った時ちょうど雨が降り始めた。アメリアが驚いた顔で空を見回すと、女史はうれしそうに、神父さまの仰ることは何でもよく当たるんですよ、と笑った。
父に言いつけられた役目は既にあらかた終えてしまったので、アメリアは今日と明日を、突然降ってわいた長い待ち時間のように感じた。手紙は結局目録だけのものを書き上げて封蝋を施した。女史が次の列車で運ばれるよう手配してくれるらしい。祖母の埋葬に関しても、その遺品の処理に関しても、アメリアにできることはほんの僅かであり、それ以上のことを期待されていないこともよく理解していた。
与えられた部屋で物思いに耽っている時、アメリアはふと、部屋の隅の花瓶に眼を留めた。両腕で抱きかかえなければならないような大きさの白い陶器には、近づかなければわからないほど細い線で、黄金の薔薇の意匠が施されている。その金色の細工があまりにも繊細なので、ひび割れているようにも見えた。
この花瓶は祖母の個人的な募集品として、目録にも記載されている。一定以上の価値があるものではあったが、シュティンフレア家が守ってきたものではない。それはつまり、アメリアを守護するものではない、とも言えた。アメリアを助けて腹の中に終生大事に花弁を抱えておく義理がないのだ。
朝に隠蔽した物が確かにそこにあるのか、不安に駆り立てられる。
不可視の何者かの視線を気にしてでもいるのか、アメリアは無人の室内で足音を立てないようにゆっくりと花瓶に近寄っていった。幸いにも絨毯が靴の音を隠したので、アメリアは花瓶の前まで労せず行くことができた。
顔面蒼白で身を乗り出し、花瓶を覗き込む。
花瓶の首が窄まっているために中は暗く、しかし花弁は確かに存在した。暗闇の中に、青白い輝きが幾重にも見えた。それらは静かに降り積もり、微動だにしない。
アメリアは、安堵の息を漏らした。その息を覆い隠すように、頬に手が触れた。
アメリアは硬直した。今、彼女の腕は花瓶を覗き込む姿勢を支えるために両方とも花瓶が乗せられた台の上に置かれていた。
頬を撫でた手は、顎に沿って輪郭を撫で、耳に触れた。くすぐるように耳の先端を触り、耳の裏側にそっと触れてから、再び頬へと戻る。
アメリアの目に映ったのは、黒い腕だった。黒い腕が、花瓶から伸びていた。じっと見続けているとそれが限りなく黒に近い群青色であることがわかった。黒い肌は夜空のように美しく、また頬に触れる感触は絹を肌にあてられているかのように滑らかだった。
アメリアはこれが女性の手だと直感した。繊細な手つきでアメリアに触れる指はほっそりとしていて美しく、華奢だった。
頬を撫でていた手が、滑り落ちるように顔から離れる。黒い手の爪は、金色に染められていた。五枚の爪は一枚一枚が星のように輝いていた。五つの星が、花瓶の中へ戻っていく。
金色の輝きは、青白い花弁に埋もれて次第に見えなくなった。
アメリアは息を止めていたことに気づき、噎せながら呼吸に集中した。震える手で自分の顔に触れ、爪を立てそうになるのを必死に堪える。
アメリアは悲鳴の代わりに小さく吐息を漏らした。それは言語の体をなしていなかったが、どの言葉よりも雄弁に彼女の恐れを表した。それから侍女が部屋の戸を叩くまで、アメリアはその場に立ち尽くしていた。




