黄昏姫と蛆の悪魔2
その晩、アメリアは父に報告するため、事細かに屋敷の様子を手紙にしたためていた。女史の手入れによって、屋敷の状態に劣化は見られないこと。シュティンフレア家所縁の品物は殆ど無く、祖母の個人的な募集品が僅かにあるのみであること。(アメリアは品々を列挙し、小さな字で祖母と親密な仲であったらしい侍女にそのいくらかを譲り渡すことを提案した)
そして、事前に渡された間取りなどの屋敷の情報が正確であったことも書き添えた。これは確かなことであった。アメリアは見取り図を片手にメモをとりながら屋敷中をぐるりと一周した。それから外へ出て銀の門、白樺林と半ば同化したような茨を模した柵、南側の井戸、と順に歩く。屋敷を回り終えたあとで最後に訪れた裏庭も、寸分たがわず見取り図通りであった。
アメリアの手が不意に止まる。裏庭に植えられた薔薇は数も少なくささやかではあるものの、様々な品種が身を寄せ合っている様がとても優雅で、などと書きかけたまま、続きはいつまで経っても綴られない。
とうとうアメリアは女性らしい感性で薔薇を褒めたたえることを諦めてしまった。インク壺にペンをつけ、やや癖の強い字でペチュニアの白昼夢が一つ、とだけ書き加える。そうしてから丁寧に紙を小さく折りたたんで端に寄せた。
アメリアは父に報告するための目録に、昼間に裏庭の小屋で見た物は一切書き連ねなかった。シャンデリアも、キャビネットも、由来のわからない甲冑も、二度目に女史と共に訪れた狭い裏庭には、影も形も無かった。状況から鑑みて、あそこで見た物は幻覚に違いなかった。仮にそうではないのだとしても、アメリアは淑女はそのように奇妙な体験はしないものだろうと考えており、自分がそのような体験をしたことを父に知られるのを避けようとした。
白昼夢であったのだと、それがアメリアの出した結論であった。アメリアが昔読んだ絵本の中に、愛猫ペチュニアと寄り添って森の中を歩くうちに猫と体が入れ替わってしまった男の話があった。男は猫の体で軽快に跳ね回り、鼠を追い、のろまな人間をからかい、愉快に遊ぶのだが、それは男の優雅な白昼夢であった。陽が落ちて幻覚から醒めた男はのろまで融通の利かない人間の体に閉じ込められていることを思い出し、自殺した。
「そう具合の悪い話でもないはず。あの男は現実より良い夢を見たから絶望してしまったけれど、私が見たのは甲冑に押し潰される夢だから」
アメリアは声を潜めて言った。独り言をぶつぶつと呟くのは褒められた行いではなかったが、アメリアは動揺していた。
気取った手紙を書くような気分でもなくなってしまったので、アメリアはペンを置いた。蝋燭を吹き消す。
部屋の暗がりがぐっと膨らんだ。夜だ。人間たちを寝台の中に押し込めようと闇が蠢く。枕元の常夜灯だけが頼りなさげに揺れている。アメリアの足は自然と月明かりの下へ向いた。
両腕をぐっと伸ばしてカーテンを掻き分け、窓を開く。生暖かい夜の空気が頬を撫でる。同時に、胸いっぱいに薔薇の香りが広がった。
アメリアに与えられた部屋のすぐ先が裏庭だった。裏庭を気に入ってくれたのなら、と女史が特別にこの部屋を空けてくれたのだった。アメリアは考えなしに窓を開けたことを悔やむかのように表情を暗くしたが、しばらく動かずに月の光を浴びていた。
この地に着くまでに、随分と列車に揺られていた。慣れぬ旅先で、早く寝るべきだと考えていても、気分は一向に落ち着かないらしい。アメリアの暗褐色の両目はしっかりと月を見据えて、目蓋は一向に落ちてこない。
静寂がいたいほどに、静かだった。アメリアの暮らす街の空気とは何もかもが違う。空に輝く無数の星が、音をみんな吸い取ってしまうのだろうか、どちらにせよ人里離れたこの屋敷で、アメリアの祖母はひっそりとその命を終えた。ごく親しい仲の女史と、数株のの薔薇を遺して。
遺体は村の教会に安置されている。明日はそちらへ出向く予定だった。アメリアが窓の向こうに教会の十字架の先端が見えやしないかと背伸びしてみたところ、月が陰った。
にわかに闇に包まれた裏庭で、仄かに光るものがあった。祖母たちが丹念に愛してやった、赤や白の薔薇たちが、うっすらと輝いて揺れている。薔薇は蜃気楼のように増殖して視界を埋め尽くす。強い芳香が煙となって立ち昇り、屋敷の外に広がる白樺林を飲み込んだ。薔薇の奔流が柵や白樺の幹を薙ぎ倒すうちに群れを成し、色とりどりの薔薇同士も荒々しく食い合って、とうとう見えるのは白薔薇だけになってしまった。
一面の薔薇、それも透き通るように青白い薔薇が、ほころぶ。惜しげもなく花弁を散らす。花弁がアメリアの部屋の中へと吸い込まれる。
アメリアは咄嗟に窓から離れ、寝台の傍に座り込んだ。
窓の木枠に楕円形の花弁が一枚乗って、小さく蠢く。苦し気にのたうつうちに次の花弁が飛んできて、部屋の床にぱたりと落ちた。
アメリアは花弁を摘まんで捨てようと、身を屈めた。その途端、アメリアの親指程の大ぶりな花弁が、ぶるぶると震え始めた。アメリアの呼吸が早まり、床に腰をつけたまま後ずさる。アメリアは自分で自分の口を塞ぎ、じっと異変を見つめた。
その間にも青白い花弁が次々と侵入し、アメリアの周囲を取り囲んでいた。アメリアは無意識に後ろについた手に花弁が触れたので、ぞっとして急いで引っ込めた。
花弁は震えながら丸まっていった。振動が弱まり、むくりと起き上がる。
アメリアの周りに、点々と蛆が這っていた。青白い虫は身をくねらせ、互いに寄り集まって、塊をつくっていく。
団子状の虫たちは中へ中へ入りこもうとして、締め付け合った。蛆が潰れ、残骸も他の蛆で見えなくなる。
蛆はアメリアの方には見向きもしなかったが、それは救いにはならなかった。部屋中が蠢いていた。
アメリアの顔が蒼褪め、唇がわななく。悲鳴の出し方を忘れてしまったかのように、頑なに押し黙り、微動だにしない。
耳にかけていた髪がはらりと落ちる。夕陽色の髪が片目の視界を塞ぐ。一瞬無防備になった心は髪に触れようと腕を上げた。衣擦れの音がやけに大きく響く。
蛆の塊が動きを止めた。
虫たちは原型を留めぬほどに潰れてひしゃげていた。アメリアと同じくらいの大きさになった塊は、まるで一匹の大きな大きな怪物のようだった。
青白い体表が常夜灯に照らされると、中途半端に形の崩れた蛆の残骸が透けて見えた。それは白い内臓のようだった。
アメリアは父が好んで牛の内臓を引きずり出したものを食することを思い浮かべたが、どちらもアメリアには受け入れがたいことだった。
アメリアはわざわざ鏡で見ずとも、背後にも同じような蛆がいるのだろうと勘付いていた。アメリアは見えないところにある脅威を見えるところの脅威より嫌ったので、猫背になって蛆に顔を近づけた。揺れる前髪越しに蛆の目も鼻も無い顔が見えた。腐臭のような汚らわしい匂いはしなかったが、アメリアが厭う薔薇の香りがした。
巨大な蛆は、やさしく口づけるような素振りで、アメリアの方へと這ってきた。床に広がる裾に、蛆の体が触れる。
力いっぱい突き飛ばす。ドアを乱暴に閉めて他の部屋へ逃げ込む。あるいは屋敷から裸足で飛び出していく。なんなら窓から飛び出しったって、怪我はしない。ここは一階の部屋だった。
選択肢のどれをも、アメリアは選ばなかった。忌まわしい生き物に魂を吸われる瞬間を虚ろに目を開いたまま、待っていた。
薔薇が強く香る。鼻の粘膜を刺すような、かぐわしい空気が肺を満たす。
「何をしたんだ」
アメリアの白い喉が、は、と息を漏らした。向こう側ですこし掠れた声が聞こえた。その言葉の意味を理解する前に、アメリアの目の前にいた蛆の顔から手が突き出た。蛆の体を鷲掴み、堅く握る。拳が開かれると、魔法のように薔薇の花弁が舞い散った。途端に蛆の塊が解けて床に散らばる。床一面が花園のように彩られる。それらはもうぴくりともしなかった。
蛆がいなくなると、白い外套を着こんだ人物が立っていた。魔術師のようにも、修道士のようにも見えた。いつのまにか雲は消え、月の光が降り注いでいた。影になって顔は見えなかったが、アメリアは相手の姿を見上げて肩の力を抜いた。その人物はアメリアと同じか、そうでなければやや劣る程度に小柄で、少年か、少女か、どちらにせよ大男でなかったというだけで、アメリアにとってはとても幸いなことだった。
彼は、もしくは彼女は、喉に手を当てて小さく発声を繰り返した。何らかの不調を感じているらしいが、水を飲ませるだとか、火にあたらせて体を温めるだとか、そのような配慮はアメリアの頭から抜け落ちていた。刺激を加えないよう相手の動向を固唾を飲んで見守るのが、アメリアの精一杯だった。
不意に、首を傾げて先の言葉が繰り返される。
「何をしたんだ、お前は」
今度は、アメリアにも少年の声だと判別できる程度の冷静さが残されていた。熟考して賢明な答えを考えるよりも、間を置かずに返事をする方を選択し、アメリアが口を開く。
「いいえ。何も。たったいま薔薇を握りつぶしたのは、私でなく貴方でしょうから」
「俺が?何をしたっていうんだ」
あまり言葉が通じていないようだ、とアメリアはぼんやり思った。喉をさする手つきや虚空を滑るような声の調子が、彼が不安定な状態にあることを物語っていた。意識が朦朧としているようだった。どこか恍惚として、病人じみていた。
少年は片手で顔を覆い、暫く押し黙っていたが、また何のきっかけも無く床に膝をついた。少なくともアメリアには少年が何を起因として行動しているのか全く読めなかった。
床にへたり込んだアメリアと視線の高さが合って、自然と交わる。少年の空色の眼に、アメリアの暗褐色の眼が映っていた。常夜灯も月明かりも闇を晴らす強さを持たないというのに、アメリアには見慣れた自分の眼が鮮明に見えた。少年の眼が光っているのだろうかと遅れて気が付く。
異様な状況に、異様な事態が続いていた。何か言わなければ、この光景に対して何か指摘しなければならないというような義務感がアメリアの首をじんわりと絞め、段々と呼吸が難しくなっていった。
少年が手を伸ばす。薔薇の花弁の山に手を入れて、花の形を保っている部分を崩す。爪を立てて握り、床に押し付け、無感情に花を潰した。アメリアはそのやり方が執拗で偏執的だと感じたが、何も言わなかった。
やがて少年が顔を上げ、人好きのする表情でニッと笑った。
「薔薇は好き?嫌い?」
「あまり、好みません」
「俺も嫌いだ。この匂いがとにかく癇に障る。今夜は部屋を変えた方がいい」
「ううん、一晩くらい薔薇の寝台を試すことにします」
「そうか。よい夢を」
少年は端的にそう言うと、立ち上がった。そうして、姿をくらませた。アメリアはずっと少年のいた方を見て、気を逸らさずにいたはずだというのに、少年がどの瞬間、どんなふうに消えたのか、認識することができなかった。




