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黄昏姫と蛆の悪魔15

 リンネは夜更けに家を抜け出し、白樺林の中に身を潜めた。予め取り決めた待ち合わせ場所は何回かごとに変える。今夜は沢の近くの茂みだ。目印として白樺の幹に触れればわかるような傷をつけてある。朧げな月明かりだけを頼みに、夜の林を歩く。

 珍しいことに、サラは先に来て待っていた。すぐにリンネに気づいて近づいてくる。


 「どう、驚いた?ほら、今は弟がいないから、家で何も気にしなくていいのよ」

 「すごいわ、シレーヌさんに伝えなきゃ」

 「褒めてくれるかしら」

 「きっとね」


 抱擁が交わされる。そうしてから、二人は慣れた足取りで歩き出した。木々は少女たちの歩みを妨げることなく、枝葉を動かして道を譲った。サラは林の下から垣間見える星々を一つ一つ指で追って数え上げた。リンネがその順番に星の名前を謳い上げてやる。

 銀の茨の門が見える場所に差し掛かった時、サラがにわかに気色ばんだ。ふくれっ面で胸を反らして、大股で裏庭へ侵入する。声もかけずに方向転換して行ってしまったサラをリンネが追うと、井戸の前で姉弟が言い合いをしていた。


 「あの人はとっくに気が狂っているんだぞ」

 「ばか!わからずや!心無い言葉を信じるなんて!だいいち、シレーヌさんは何も変わっちゃいないのに。私たちはあの日の後すぐ会いに行ったけどね、ずっと、ずーっと、やさしいシレーヌさんのまんまなんだから!」

 「ずっと?今日が初めてでもなく、あれからもずっと通い続けた?」

 「そうよ!神さまに誓って、私たちは悪いことなんてしてないわ!」


 食い気味のサラの肯定を受けて、リンネは気取られないように歯噛みした。ルカは明らかに最後の問いかけをリンネに向かって投げかけていた。まんまと言質を与えた形になったが、ルカはしたり顔をするでもなくこちらを観察している。

 リンネは綺麗に微笑んだ。雲の隙間から降りる月の光に照らされた笑みは、あのアメリアの真似をして作った表情だった。


 「ルカ。いっしょに行きましょう。四人で手を握り合って、方々の安寧を祈りましょう。私たちは一人で乗り越えるにはあまりに沢山を失いましたから」

 「おれのことも言い包めるつもりか?できるつもりなのか?」


 言い返そうとして、サラは言葉を呑んだ。自分の弟であったはずの少年の瞳に、異様な光を見る。咄嗟にリンネの顔を見るも違和感に気づいた様子はない。いつもサラのことは何でもわかってくれるリンネであるのに、この時ばかりは目を合わせて安心させてはくれなかった。


 「落胆したんだ……うちの姉で人形遊びをする分には見苦しいが構わないと思っていたのに……結局アンタはおれの家族を誘惑し、堕落させる」


 身体が冷えていく。足が地面に縫い留められて、サラはリンネが井戸の傍まで後ずさりするのをただ見ていた。サラにはルカが何故落胆したなどという言葉を使うのかわからなかったし、ルカが自分の言葉に従わないはずもないと思っていた。誘惑。堕落。リンネのことをまるで魔女かなにかのように悪しざまに言う心無い言葉を咎めなければという気持ちが逸る。

 ルカがリンネに近付く。サラを激しい動悸が襲い、空気を求めて不格好に喘ぐ。リンネの悲鳴が途中で掻き消えた。ルカがリンネの首を絞めて井戸に押し込もうとしている。


 「やめて……」


 見慣れた背の向こうで、ほっそりとした脚が暴れている。


 「おねがいよ、言うこと聞いて……」


 ルカが動きを止めた。井戸を背にして無感動なそぶりで振り返る。事は済んだ。サラは濡れた眼をしていた。彼の姉は覚束ない足取りで連れ合いの名を呼びながら井戸を覗き込み、そのまま転げ落ちた。ルカは最期まで姉に指一本触れなかった。


 井戸から距離を取り、屋敷を見上げる。裏庭に面した部屋の窓は、昼間と同じように外から板が打ちつけられて封鎖されている。梢の影が真新しい板を舐め、不気味に揺らめいて見えた。

 深く息を吐いて呼吸を整えると、気にも留めていなかった花の香りが今になって胸を抉った。ささやかな薔薇の庭は感傷的な記憶と強く結びついていた。すぐに立ち去るべきだと直感が警鐘を鳴らすのを感じながら、ルカはもう一度井戸に視線をやった。


 白いものが視界に映る。穢れを知らぬ少女の肌のような、滑らかな白さだった。白い腕が井戸の縁から緩慢に這い出てくる。それが姉のものか、魔女のものか、判別をつけられないまま形が崩れ、花弁となって散らばる。白い断片がルカの周囲を漂い、窓を閉ざす板の隙間へ吸い込まれていく。

 ルカは花弁を追って窓へ腕を伸ばした。ささくれだった木の板に触れ、背伸びして細い隙間から部屋を覗く。


 「見えますか?ほら、こっちを見てください。私の手が、見えますか?私の薔薇色の、美しい手が……真っ赤な色をしているでしょう?」


 背後から抱きしめるように、ルカの両腕が掴まれる。陶然とした声が吹き込まれる。まるで少女のような声だった。夢見がちで、うっとりとした囁き。ルカの肌を這う白薔薇のように青白く萎えた手は白昼夢の中の出来事で、現実のルカは見知らぬ少女の膝の上で微睡んでいるのではないかと錯覚を起こすほどの。

 ルカにできたのは体を硬直させることだけだった。


 「同じですね、同じ色……私と……お嬢様はよくこの腕をとって手首から指先まで念入りに口づけをくださいました。この誉れ高き腕は、お嬢様を孕ませた男を殺した腕なのです。お嬢様とあの男の逢瀬で給仕役をしていた私は酒に薬を混ぜて、男を眠らせました。男は赤い顔でよく眠りこんでいました。それから私はお嬢様の前で、私の親愛の証を立てるために、ナイフで男の喉を掻っ切ったのです。見てください、私のこの赤い腕を、見えますね、ルカ、よく見てくださいね」


 腕がルカの首にかかった。狂女は滔々と語り続ける。


 「あの罪なき少女たちはまるで、私とお嬢様のよう。仲睦まじく、それでいてどうしようもなく……愚かで、可愛らしくて……私たち二人、世界で一番美しかったあの時……ああ……ルカ、それをあなたは……」

 「あんたは狂人だ。おれが生まれる前からの。白樺の方だって、サラだって、あの魔女だって。おかしいんだ。あんたたちは排斥されるべきだ」

 「かわいいルカ。あなたはとびきり利口な子でした。もしかするとあの鬱屈としたリンネよりずっと。それでもあなたは愚かです」


 がむしゃらに暴れ、ルカは狂女の拘束を振りほどいた。林に下りた闇の帳へ潜り込む。狂女は追ってこなかったが、ルカは走り続けた。


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