黄昏姫と蛆の悪魔12
朝食は味がしなかった。部屋に運び込まれた食事は湯気を出していて、丁寧に調理された食材は艶を放っていた。食べ慣れた料理であったからなんとか喉を通ったものの、食事中ずっとアメリアは自分が吐き戻してしまわないかという不安に駆られていた。
アメリアは起こしにきた使用人を見て、悲鳴を上げかけた。悲鳴を飲み込めたのは、ひとえにレオナルドが部屋にいたおかげだった。彼は何ら異常を感じていないらしく、平然とアメリアを遠巻きに眺めていた。
至極当然という素振りで部屋に入って来てアメリアの顔を覗き込んだのは、昨日メインバルト市を闊歩していたのと同じ、巨大な蛆だった。つやつやとした肉感的な、しかし床に臥せる病人のように青白い体でワゴンを押して、朝食を運んで来たのである。
シュティンフレア邸にこんな使用人はいない。少なくともアメリアが村へ旅立つまでは絶対に存在していなかった。アメリアがいない間に雇い入れられたとでもいうのか、けれど父がそんな悪趣味な真似をするはずもなかった。
まともに口をきけるはずもない、ただ押し黙っていると蛆は訝しむように体を震わせていたが、しばらくして諦めたのか立ち去った。
アメリアは食事におかしなものが、そう例えば白い花弁のようなものが混ぜられていやしないかとスープやサラダをかき回してみたが、異常は見当たらなかった。上品な仕草とはいえず、異変がなかった以上無駄な不作法でしかない。アメリアは顔を赤らめつつ、口に運んだ。
自室に食事が運ばれて来たこと自体は不自然ではない。未だアメリアの婚約相手とその親族が滞在しており、父は彼らと食事を共にするのだろう。しかし、堂々と屋敷を徘徊しているらしい蛆の存在はとても看過できるものではなかった。
食事を終えて、アメリアの表情もいくらか冷静さを取り戻した。
「レオナルド、先程部屋に入ってきたものを、ご覧になりましたか」
「ああ、何か都合が悪かったのか。彼女の言葉に一言も返事を寄こさないで、随分熱心に話しかけられていたのに」
「彼女?」
「若い女の使用人。新顔か?」
「貴方はあの時の庭でもそんなふうに言いましたね、きっと、私が……」
その先の言葉は飲み込まれた。アメリアがゆるく微笑む。ともすればそれは無気力な笑みにも見えた。
「すこし、付き合って頂けませんか」
「無論、構わない」
アメリアの方からレオナルドを連れ出すのは珍しかった。アメリア自身もそのことを自覚している。出会う度に手を引かれていた、その記憶は強烈に焼き付いて、掻き消えそうもない。
書き物机に置いて出たはずの手紙は見当たらなかった。大方使用人が見つけて先に父へ渡したのだと思われた。アメリアは手紙を運んだのが、人の形をした使用人であるよう祈った。
自室を出る。アメリアはびくびくと怯えながら廊下を進んだ。婚約相手と出くわしてはいけないのは勿論、今は他の使用人の顔を見るのも怖かった。本来なら自室を出るのは誰か呼んで人払いをしてからの方が父の意向に沿うであろうことはわかっていたが、呼ばれて来たのがレオナルドの言う若い女の使用人のような、異様な容貌の者であったらと思うとベルを鳴らすのもままならなかった。
レオナルドが肩を叩く。
右手から誰かが来ると手振りで教えられて、アメリアは迂回する道を選んだ。
屋敷の絨毯がやけに足に絡みついた。毛足の長いものだ、けれど沼の中を歩いているかのように感じられるのは、アメリアの心情が大いに関係しているに違いなかった。
重厚感のある暗い木製の扉を、そっと叩く。
返事はなかった。もう一度叩こうと持ち上げた手は空をきる。扉が中に開き、アメリアが抱きすくめられる。
腕を伸ばして首に抱きつきながら、アメリアが問うた。
「どうしていつも私だとおわかりになるのですか」
「お前の手は柔らかい。叩き方と音でわかる……久しいな、よく戻った」
「はい、ご挨拶が遅れました、お父様」
レオナルドが親子の脇をすり抜けて書斎に入っていった。父がアメリアを人形のように抱き上げてそれを追う。音もなく扉が閉ざされた。長椅子に腰を下ろす。
父は猫の機嫌を取るように丁寧な手付きでアメリアの髪を梳いた。膝の上に乗せられたアメリアは従順にそれを甘受し、父の胸に頬を当てた。父の顔を見上げる。
昏い目をした、壮年の男だ。陰気と言ってもいい。背が高く偉丈夫の父は威圧的な雰囲気に反して語気を荒立てることはまずない。何事も淡々と、無感情にこなして生きてきたとでもいうような。その割に顔には艱難辛苦が刻み付けられ、影を落としている。
夕陽色の髪を、筋張った指が撫でる。爪は短く整えられていた。天辺から頭の形をなぞって下り、指を差し入れて髪の束をすくう。指の腹で僅かな束をほぐしながら、毛先まで指を滑らせる。
低い声が髪をくすぐる。
「手紙は受け取った、話は聞いている。予定より早く帰って来るから空気が合わなかったかと案じたが……司祭が聡明な娘を持ったと褒めていらっしゃった」
「お会いになったのですね」
「昨夜の会食に顔を出された。これから派手な動きも増える、より緊密な連携が必要だとお考えだろう」
父は髪を梳く手を止めて、思わしげに息を吐いた。アメリアを抱えなおし、また手を動かす。
「問題が起きた。今日以降屋敷を出ないように。お前は何も案じることはない」
アメリアが淀みなく首肯する。
「あの地は気に入ったか。母……お前の祖母についても聞かせてほしい」
「シレーヌ女史がすべて良いように整えてくださいました。最期も穏やかに看取っていただけたようです。最期まで美しい姿だったと。村は、ええ、とても気に入りました。良いところです、空の色がメインバルトとは全く異なっていて、それが物珍しくて……あんなことが無ければ滞在期間を延ばしたいくらいだったのです、女史にも大変良くしていただきましたから」
「ならば、もう少し手元に置いておくか。村の者に管理を、いや女史が管理を希望してくれるかもしれない。早計だったな、私はあの村の……母のことになると、あまり冷静でいられない。母のものであったのだ、ならば母亡き今はお前のものだ」
父が片手で顔を覆い、緩慢に首を振った。もたれていた体が揺れ、父を窺おうと身を起こしかけると、父は髪を梳いていた方の腕でアメリアを抱き寄せ、背中を撫でた。完全に体を預ける恰好になって父の顔は見えなくなった。
父と娘は寸分狂わず同じ色をしている。覆い隠された父の暗褐色の瞳は空虚なまでに乾ききっていた。それをアメリアが知覚することはない。まだ大人とは言えないアメリアにとって父の顔はいつも遠いところにある。
「お前の婚約については滞りなく進んでいる。夫人らはあと一週間もすれば屋敷を出る。それまでは相手に顔を見せることのないように。少々不愉快な興味を抱いているようだ、夫人に諫めさせるが……不便を強いる、許してくれ」
アメリアはこれも首肯した。
「数年のうちに旗色は変わる。メインバルトは、モザイク画のような街になるだろう」
「モザイク画、ですか」
その呟きは宙を彷徨った。
「……すこし落ち着いたら、また旅行に出よう。街を離れて、国を離れる。世界にはまだ美しいものがある。お前には及ばずとも」
アメリアは目を伏せて小さく微笑むに留めた。父の中ではアメリアはいつまでも掌中の珠ということらしかった。
「楽しみにしております、お父様」
父は最後にアメリアを一度強く抱きしめると、いつでも部屋に来いと常の言葉をかけて、腕を離した。
書斎を出ると、いつの間に退出していたのか、レオナルドが腕を組んで窓の外を見下ろしていた。傍に寄ろうとしたアメリアを片手で制する。
「見ない方がいい。顔を合わせてはいけないんだろう。お前の顔が向こうから見えてもいけないし、見ても不愉快な思いをするだけだ」
アメリアは咄嗟に言葉に詰まった。レオナルドが窓から離れて歩き出した。それを追いつつ、躊躇いがちに声をかける。
「書斎で姿が見えなかったから、いなくなってしまったのかと」
レオナルドの進みに迷いはなく、既に屋敷の中を把握しているようだった。特別速くもないが、アメリアは横に並んで歩くのを後込みした。いくつか部屋を通り過ぎてから、レオナルドが口火を切る。
「お前の父は娘を地を這う獣に投げ渡すような男か」
アメリアの足が止まる。同時にレオナルドが振り返る。彼は憤怒に顔を歪めてはいなかったし、悲哀に暮れてもいなかった。ただ、潔癖なまでに透き通った空色の眼差しが突き刺さった。
「可哀そうに。我が身の不自由を疎むばかりだ」
「お父様は!」
反射的に叫ぶ。慣れない発声をして喉が引き攣り、咳き込んだ。アメリアは呼吸を整えてから、毅然とした態度で相対する。
「私の父はいつでも正しい。間違っているとすれば、それは貴方の方だ、レオナルド」
「お前は父に命じられれば、あの汚濁に染まった人間もどきを愛するのか、あの宙の向こうの虚無を塗り固めたような藍色の獣を?我々の戦いには何の意味もなかった。我々はやり損じた……少なくともお前のような娘を前にして、どうして最善を尽くしたと誇れようか」
「私は貴方が憎む者を憎まない。何も恐れることはない、簡単なことです。父が愛せと言うのなら、私は父を愛する気持ちを費やして、誰であろうと愛しましょう」
言い切る頃にはアメリアの顔に微笑みが浮かんでいた。
向き合った少年は、アメリアを見下ろしていた。今や彼の魂がどこにあるのかは問題ではなかった。彼はアメリアと同じ年頃の少年の背格好をして、彼女を見下ろしていた。
沈黙が場を支配した。空気が粘性を持って動作を阻害する。
先に動いたのはアメリアだった。廊下の向こうに影が巣食っていた。廊下に立ち尽くすアメリアの背を陰湿に注視する。
毅然とした姿勢が崩れ、目を泳がせる。レオナルドの方を一度窺ってから背後を確かめる。
ずんぐりとした虫の胴体が壁からはみ出していた。それも、何体かが寄り集まってアメリアを観察している。
アメリアはうまく息ができなかった。
「ごめんなさい、部屋に戻ります」
それだけ告げて去ろうとすると、レオナルドは追ってこないまでも表情を和らげた。
「……すまない、不躾だった。戻るなら西の階段を降りて二階の廊下を通るといい」
つっかえながらも感謝を述べて、早足でその場を離れる。レオナルドの言葉通り、アメリアは部屋に辿り着くまで気分を害するようなものには遭遇しなかった。