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黄昏姫と蛆の悪魔10

 列車から一組の男女が降りてくる。男は頬に痣を一つ作っていて、二人は奇異の目を向けられた。女の方は怯えたようにびくびくとして、男の背に身を寄せながら歩く。二人の後から、喪服の令嬢が降りて来た。二人に声をかけ、先導する。

 メインバルト市に着いたのは、村から列車に乗って四日目の夕暮れだった。アメリアの懸念に反して、花婿たちは途中で行方をくらますこともなく、式を挙げたら村に帰るつもりであるというのは真実のようだった。


 しかし、アメリアは疲弊していた。夜ごとに町で宿をとり、アメリアは二人とは別の部屋で休んだが、彼らは頻繁に口論をした。まれに大きい物音がしたかと思うと、次の朝には決まって花婿の顔に痣ができていた。とはいえ、アメリアの目の前では仲睦まじくしているためにそのことに触れるのは躊躇われ、少し多く料金を払う羽目になることがあれどアメリアは何も訴えなかった。

 俯きがちに前を歩くアメリアに、花婿が声をかける。


 「まさか教会まで紹介して頂けるとは、望外の喜びです。アメリアさま、この御恩は必ずお返しします」

 「私は貴方がたの長に対して、二人の婚姻に責任を持つと誓いました。これは言わば私たち一族から勤勉な村への恩返しのようなもの。どうか私ではなく、貴方がたを送り出した村に奉仕することで満足してください。それが私たちの利益にもなりますから」

 「成程、やはりアメリアさまは聡明な方だ。白樺の方も貴女さまを誇りに思っておられるでしょう」


 なあ、と花嫁に同意を求めるも反応がないので、花婿は足を止めて振り返った。

 花嫁は花婿よりいくらか後方で、怯えと懐疑の表情を張りつけて立ち尽くしていた。アメリアは彼女の視線の先を見て、すぐにその原因に思い当たった。

 花婿が手を引いて花嫁を連れてくる。花婿に窘められ、花嫁は青い顔で謝罪した。


 「アメリアさま……申し訳ございません……愚かなわたくしをお許しくださいませ、どうか……申し訳ございません……」

 「村を出ずに育ったのでしたら、彼らを見るのは初めてでしょう、戸惑う気持ちは充分に理解できます」

 アメリアは花婿にもわかるように、視線でその集団を示した。

 「私にも……身に覚えがあります」


 そう続けて、両眼を瞑る。

 列車の荷下ろしをする労働者の群れに、ぽつぽつと黒い背中が混ざっていた。黒、それも日の光を反射せず、一切を飲み込むような艶のない黒だった。肌が血の色を透かすこともなく、蒼褪めてすらいる。日に焼けた男たちの中でも群を抜いて異色の彼らは、口もきかずに黙々と働いていた。時折仲間内で一言二言、愚痴を交わすような素振りがあれど、花嫁たちにはそれがひどく耳障りな音に聞こえて、言語の体をなしているとは到底思われなかった。


 「マクウェル閣下も、もうメインバルトで議員を務めて何年になりますか、近頃は彼らについて、そう、あのちょっと変わった見目の働き者たちに関して、少々複雑な立場におられると伺いましたが……」


 花婿は好奇心をひらめかせて踏み込んだが、アメリアは顔色を変えなかった。


 「父が立派に役目を果たせるのも貴方がたがいてこそなのですから、どんな事態に陥ろうと村に影響は及びません。シュティンフレアの誇りにかけて」

 「我が村は安泰ということですか、アメリアさまにそう仰っていただくと、霧が晴れるように不安が払拭されてしまうものだから、不思議ですね。魔力のようだ。なあ?」

 「はい、その通りです」


 今度こそ、花婿が促した通りに花嫁が追随した。アメリアはそれ以上の会話を打ち切ろうと、早足で歩きだした。

 花婿は背後から虎視眈々とアメリアの様子を窺い、会話の糸口となるきっかけを見落とすまいとしている。花嫁ばかりが、置いて行かれぬようにと四苦八苦して肩を揺らした。

 とうに日は落ち、ひょろりとした街灯が光を灯し始めた。家路を急ぐ人々の波をかきわけて、教会へ向かう。

 旅の疲れや旅行鞄の重みがのしかかり、快適とはいえなかったが、一行はそれほど労せずに進んでいった。先頭を行くアメリアには、人々が道を譲りたくなるような雰囲気があった。威圧感とも違うその空気は、アメリアが目を伏せて静かに歩いていても損なわれぬものだった。




 アメリアは知古のシスターに花婿たちを預け、シュティンフレア家の邸宅に帰還した。出迎えた使用人はしきりにアメリアを急き立てて素早く自室に放り込み、旦那様からの言伝があるまで部屋を出ないようにと申しつけた。

 久しぶりに入った自室は見慣れぬ装飾で飾り立てられていた。すなわち、薔薇の花である。シャンデリアには薔薇の茨が巻きつけられ、寝台の脇の花瓶にも大輪の花、硝子の向こうのベランダは今にも溢れそうな鉢で埋め尽くされている。早足で通り抜けた屋敷の中も、至る所がこの忌まわしい花で彩られていた。

 大事な一人娘を送り出すのを見越してせめて最後にこの屋敷で過ごす時間を美しいものにしてやろう、という気遣い故の措置であったなら愚策もいいところであったが、そうではないことをアメリアも察していた。その証拠に、祖母の影響でどちらかというと白薔薇を用いることの多いこの家で、此度摘まれたのは赤薔薇ばかり。

 社交界でメインバルトの薔薇と称えられるメローテ夫人が訪れているのだ。そして、彼女のような大人物が訪れるのが生中な用事であるはずもない。十中八九、今この屋敷にはメローテ夫人に伴われたアメリアの婚約者が滞在しているはずである。


 父はアメリアを気遣って、婚約者と顔を合わせないよう取り計らっているに違いなかった。祖母の遺品の整理だって、アメリアを遠くにやる名目としての意味が強い。婚約披露の直前まで互いの顔を知らないなどというのは当世風ではないものの、此度は少々趣が異なり、火種を抱えた契約である。

 アメリアはこのような身の上で他人の結婚の世話を焼いている自分を思って憂鬱になった。とはいえ、明日の午前に執り行われる式に出ないわけにはいかない。アメリア・シュティンフレアの名を結婚証明書に記さねばならないのだ。

 アメリアは気分を落ち着けようと深呼吸をして、思いきり噎せこんだ。まるで工場地帯の煙空のように、薔薇の芳香は喉を傷めつけた。意識が朦朧として、寝台に倒れる。


 「どうも居心地が悪い。此処はいつもこうなのか」

 「いいえ……いいえ。今日と、これから暫くの間は特別です。いつもは……こうではないけれど、でも、皆知らないのです。私が薔薇を好まないだなんて」


 霞む視界に、いつか見た人が映った。誰だっただろうかと疑問が首をもたげるのも一瞬で、アメリアはすぐにまた言った。


 「ごめんなさい。続きはまた明日に、レオナルド」

 「すまない、よい夢を」


 奇妙だった。アメリアはそれが当然であるかのように返事をしたが、誘われるまま瞼を下ろしかけたのを一旦止めて、不安げに自室を見回した。修道士の恰好をした少年騎士は、彼女を案じるように首を傾げた。彼は突き抜けるような空色の眼をしている。

 祖母が暮らしていた村は、それと同じくらいに澄んだ空が広がっていた。けれどアメリアが最後に見たのは列車の吐き出す黒雲で塗りつぶされていく空で、あの村だっていつかメインバルトの空とそっくり同じになるに違いなかった。メインバルトの空は蒼穹を知らない。晴れた日もどこか淀んでいて、けれどそれを父は誇れと言った。あの空の色は、人が空を征服した徴のようなものであり、文明の繁栄を告げるオリーブの葉なのだと。

 いつか空が真っ暗になったなら、夕暮れは無くなってしまうだろう。

 アメリアはゆっくりと息を吐き、体の力を抜くと、外出着のまま眠りに落ちた。




 陽が頂点に昇る頃、恰幅の良い司祭が教会に入ってきた。礼拝堂の窓辺に腰かけていたアメリアを見つけると、汗を拭いつつ挨拶をする。


 「お久しぶりです、アメリアさん!随分お待たせしまして、いや申し訳ない。なにぶん、最近は近くの地区をいくつか掛け持ちさせられておりまして、こちらの方はシスターに任せきりもいいところ、なんとかならんかと上にせっついてはいるんですがね……おおっと、愚痴のようになってしまいました、お許しください。話は伺っておりますよ、喜んで協力致しましょう。若い者が愛を交わすのを取り持つ、こんなに幸せな仕事はない。勿論、神の御名の下で行う営みは全てが幸福なものですけれども!」


 司祭の声は朗々としておりよく通る。この司祭はメインバルト次期司教に目されている人物で、シュティンフレア家と古い付き合いがある。アメリアの婚約披露にも司祭として立ち会うことになっていた。そのことを思い出したのか、アメリアの表情が一瞬陰る。


 「私の我儘を聞いてくださってありがとうございます。それから、司祭にお願いしたいことがもう一つありまして、こちらを」


 取り出されたのは、一通の封筒だった。差出人の欄にはシレーヌ女史の名前の隣にアメリアの名が書き加えられている。


 「教皇庁に取り次いで頂けませんでしょうか、実は今日式を挙げる二人がはるばる遠出をする羽目になったのも、この厄介事のせいなのです」

 「ほお、して内容は?」

 「……悪魔祓いの召喚要請です」

 「ううむ、物騒ですな。ご心配なく、お引き受けしましょう。杞憂に終われば良いですが。骨折り損となることを祈りましょう」


 司祭は茶目っ気たっぷりに片目を瞑り、手紙を懐にしまった。アメリアが小さく頷く。

 シスターが奥の扉からこっそりと顔を出した。目くばせされたのを合図に、司祭とアメリアも所定の位置につく。

 天井近くに設けられたステンドグラスから、色鮮やかな陽光が落ちていた。青、赤、緑、それらは花嫁のまとう質素な衣装を無邪気に飾り立てる。

 花嫁も花婿も、まっとうな婚礼衣装を用意できる余裕にも時間にも恵まれず、その恰好は昨夜の旅装より幾分かマシという程度であったが、たった一つだけこの非日常に見合うものがあった。花嫁の頭には教会から貸し出されたベールが被せられていた。使いまわされてところどころ擦り切れそうなレースの被り物が、花嫁の身にまとう中で最も高価な代物だった。それはもしかすると、花嫁自身を含めたとしても。


 腕を引くはずの父も、涙を流して祝福してくれるはずの母もいない。横で見守るはずの親族も、親しく関係を結んだ友人も、顔なじみの村人たちも誰一人いない。ただシュティンフレア家の人間が一人、やや距離をおいて視線を投げかけるばかり。花嫁は花婿に腕を引かれて、ゆっくりと司祭の前までやってきた。

 司祭は血色の良い顔で穏やかに二人を眺めていた。花嫁は茫然として、唱えられる聖句が耳に入っているかも疑わしい。花嫁が上の空である様子はよくわかるだろうに、司祭はそれでも上機嫌そうに微笑んでいた。司祭がいくつか問いかけて、それに花婿が迷いなく答える。終いに、司祭が上等な紙を広げた。代筆が要るかと尋ねると、花婿は首を振って花嫁の分までさらさらとペンを走らせた。アメリアとシスターが音もなく歩み寄り、ペンを受け取る。流麗な字が二つ付け加えられ、ペンは司祭の手に戻ってきた。


 司祭が署名しようと腕を上げた瞬間、花嫁が小さく声を漏らした。動揺を必死に押し殺そうとしているかのごとく、隣の花婿を見て、アメリアを見て、司祭を見て、それからもう一度花婿を見た。唇がわななく。声にならない言葉は、何より雄弁だった。今すぐ振り返って逃げ出せば岐路をやり直せる、などという突飛なことを花嫁が思いつく前に、司祭が花嫁の手をとった。

 虚をつかれた花嫁が我を取り戻す間もなく、労働で荒れた指に、結婚証明書に記された花嫁の名をなぞらせる。書けずとも、己の名前くらいは読めるらしい。それで花嫁の狂気も消えてしまった。

 司祭は能筆である。彼が巧みに文字を刻んだ途端、薄っぺらい紙片は鎖と化す。時には薬に、時には油に、パンに、ナイフになるのだ。

 司祭は新たな夫婦に祝福を授けると、慌ただしく教会を出ていった。アメリアはシスターと共に多忙な司祭を見送った。シスターが夫婦にやさしく声をかける。


 「お疲れでしょう。すこし教会で休んでいかれてください。お腹に子を抱えているのですから、無理はいけません。もう一晩泊まっていっても構いませんよ」

 「ありがとうございます。夜までにメインバルトを出ようと考えていますから、それまでお言葉に甘えさせてください」

 「まあ、とんぼ返りですか、観光などはなさらない?良い街ですよ、メインバルト市は」

 「承知しております、けれど、今回私たちがここまでやってきたのは、罰のようなものですから。だというのに、こんなに良くして頂いて……」


 花婿は花嫁の顔を隠しているベールを慎重に持ち上げた。途端、花嫁が大きく目を見開いて身を固くした。構わずベールを剥ぎ取る。繊細なレースの細工を傷めないよう丁寧に抱えると、シスターへ差し出した。


 「なんとお礼を申し上げていいものか、私は口が回るくらいしか取り柄のない男なのです、繊細で美しい彼女には本来釣り合わないのだ、だというのにその唯一の長所すら失われてしまいました。いたずらに同じ言葉を繰り返すことをお許しください、ご厚意に感謝いたします。ああ、司祭さまにもちゃんとお礼を申し上げたかったのですが、私のような身分の者がお時間をとらせるわけにはいかず……」

 「お気になさらないでください、貴方がたの謝意は充分に汲み取って頂けていますよ。私からも伝えておきますからね」


 シスターはベールを受け取ると、花嫁に再び被せてしまった。癖のない黒髪の上をそよ風のように軽やかにレースが滑っていく。

 花嫁は肩を跳ねさせて、不躾なまでにシスターをまじまじと見つめた。


 「驚かせてごめんなさい、司祭さまは遊び心に富んだ方だからうつってしまったのかしら。このベールは貴女の曇りない美しい髪によく似合っていて素敵だから、もう少し見ていたいと思ってしまいました。せめて教会を出るまで被っていてくださらない?」

 「あ、あ……シスター、ありがとうございます」


 花嫁は表情を和らげて、なんとかそれだけ言った。そわそわとベールの縁を持ち上げては光に翳す。浮足立つ花嫁の肩を抱いて奥の部屋へ消える直前、花婿はアメリアに向かって深く頭を下げ、教会堂を後にした。


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