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黄昏姫と蛆の悪魔1

 その屋敷は村はずれの白樺林の中に息をひそめるようにしてひっそりと建っていた。この館の女主人の死に追悼を述べるかのように、しんと静まり返った空気は冥界のようでもあったが、銀の茨の門に取り付けられたベルが鳴ると、木々の萌芽がほころび始めて、客人を迎え入れようと屋敷が活気づくのだ。


 客人は若い娘であり、ひと時ばかりではあるものの、屋敷の新たな女主人となるべくして訪れた者であった。

 アメリア・シュティンフレアは夕陽色の赤毛を背まで伸ばした、伏し目がちの令嬢だ。歳は十五、相手も知らされていないけれど、婚約披露を間近に控えている。深窓の姫君というほど世間知らずでもないけれど、世間ずれしているとは言い難い、自分の身の回りの世界から飛び出して見ようとは夢にも思わないような、大人しく従順な娘だった。


 アメリアはここまで荷を運んでくれた村の子供にいくらかの駄賃を与えると、小ぶりな旅行鞄を受け取り、もう一度ベルを鳴らした。一回、二回、走り去る村の子供の背が見えなくなる頃ようやく小柄な老女が姿を現す。


 「アメリアお嬢様!」

 「お久しぶりです、シシィ」


 祖母を看取ったシレーヌ女史は既に老いに大分侵されて、女主人の後を追うのもそう先ではないように思われた。この年になるまで結婚もせず子供ももうけずに仕えた彼女の生き方を、世間は時代遅れの忠誠心だと嘲笑うだろうことをアメリアはよく心得ていたが、決してそれを表には出さなかった。もうじき暇を出される彼女にあえて嫌な思い出を作らせるものではない。


 「遠路はるばるよくお越しくださいました、お嬢様も浮かばれます」

 「いえ、私のような小娘一人で心苦しい限りです。けれど私しか体の空いている者がおりませんので、祖母には申し訳ないと父より言付を預かっております」


 「ええ、ええ結構です、私にはお嬢様のお気持ちは手に取るようにわかりますもの、かわいい孫娘がそのように顔を暗くすることをお嬢様が喜ばれる筈がありません。さあ、中へご案内いたします」


 アメリアは礼を言って老いた女史の背について行った。




 うら若き女主人が屋敷を訪れたのは、祖母の埋葬及び遺品整理のためだった。アメリアの父はこの屋敷を他人に売ってしまうつもりだったが、その前に一族の者が直接手元に残すべきものを選り分けなければならなかった。

 といっても非力な女二人にできることなどそう多くは無いので、目下アメリアの仕事は家に伝わる物品の目録を作ることだった。既に侍女がある程度は作成していたということで、アメリアは午前中のうちにできあがっていた分の目録に目を通した。


 アメリアの祖母は財を傍に置きたがるような人物ではなかったらしく、古びた宝飾品がいくつかと絵画が数点、その他こまごまとした物品が報告されているのみであった。アメリアとしてはこの通りに処理をしてしまえばそれでいいだろうと考えているのだが、自分の目で屋敷中を見分して来いというのが父の言いつけであったので、午後はそのための時間に当てられる手はずだった。女史は用心深い父の性格に気分を害するでもなく、長旅でくたびれたアメリアの体調を気遣って明日に予定をずらしてはどうかと勧めてきたが、アメリアはその提案を辞退した。

 侍女は、では、と口を開いた。


 「すこし早いけれど、もうひと働きなさる前に裏庭で昼食はどうです。薔薇が綺麗に咲いていますから」

 「はい。是非いただきます」


 アメリアは軽食を用意しに行った女史を見送って、裏庭に出た。ガゼボに設置された金属製のテーブルの上に真白のテーブルクロスをかけてから、椅子には腰かけずに裏庭を見回す。

 ローズガーデンは目には美しかったが、アメリアは辺りに充満する薔薇の強い香りに眩暈を起こしそうになって、眉を寄せた。女史がやって来るまでの間だけでも、と避難場所を求めて裏庭を彷徨う。

 芳香に耐えるうちに目蓋の裏がちかちかするようになって、アメリアは自分の黒いドレスの裾を握りしめた。


 アメリアが祖母に会ったのは幼少期に一度きりで、恰好こそ黒い衣で取り繕っているものの、アメリアは自分が心から喪に服しているなどとはとても思えなかった。その程度には、アメリアにとって辺境に引きこもって暮らしていた変わり者の祖母は、他人だった。

 祖母が何を考えて自分たちと都会で暮らすようにという父の誘いを拒んだのか、アメリアには皆目見当もつかない。そもそもアメリアにとって父の言葉は絶対であるので、それも当然のことだった。

 アメリアは深く考えずに、この小さく閉鎖的な館には此処なりの秩序があり、それが特別祖母に馴染んだのだろうと思った。歳をとって視界の狭まった祖母に都会の暮らしは何もかもが広すぎるのだろうと。


 アメリアの出した結論とは裏腹に、薔薇が敷き詰められた箱庭は意外にも広く、どこまで行っても終わりが見えなかった。薔薇の群れから遠ざかりたい一心で歩いてきたが、もしかして案内が無くては迷うほどの広さなのだろうかと不安になりかけて、考え直す。

 あらかじめ父に見せられた館の見取り図では、裏庭の広さなどたかが知れていたはずだ。猫の額のような広さしかなく、きっと館からはみ出た物が放置されている、裏庭とは名ばかりの空き地だと予想していたというのに、実際はどうだ。アメリアは祖母がシュティンフレア家の土地を超えて庭を広げたのかと疑った。

 そのうちアメリアが耐えきれずに手巾を取り出して芳香を遮断しようと目論んだとき、薔薇の花の彩色でも葉の緑色でもない、煤けた茶色が視界に入った。アメリアは花弁が敷き詰められた壺に漬け込まれたような気分で胸焼けしそうになっていたので、足をそちらに伸ばした。


 薔薇が咲き誇る花園に、恥じ入るように小さな物置小屋が建っていた。天井の庭園のような光景にはひどく場違いで、瞬きすると消えてしまいそうなほどに存在感が薄かったが、アメリアは午後の見分の下見がてら小屋の戸に手をかけた。

 建付けの悪い戸を半ば力づくで開け放つ。埃っぽい空気を吸い込んでしまって、アメリアは咳き込んだ。それでも薔薇の香りよりはましだとでも考えたのか、奥へ入っていく。

窓のない室内では、開け放たれた戸口が唯一の光源だ。アメリアは自分の影の上を、埃が舞い上がらないようゆっくりと進んだ。


 物置小屋には、えんじ色の布を被せられた姿見やガラス張りのキャビネット、山と置かれた胸像、カバーをかけられたクリスタルのシャンデリアなどが雑多にひしめき合っていた。アメリアが本棚だと思って近づいた物体には薄く横長の引き出しがついていて、中には蝶の標本などが飾られていたりするものだから、アメリアは次第に愉快な心地になってきて、宝探し気分で小屋の中を探索した。

 アメリアが古き品々に手を伸ばすほどにドレスの裾は汚れていった。普段父親の愛情深くも高慢な視線によって抑圧されている好奇心が顔を覗かせて、アメリアから慎重さを奪い取った。蜜を求める蝶のように、ふらふらと奥へ誘い込まれていく。


 突きあたりの壁からはぼんやりと陽の光が漏れていた。アメリアが手探りで布の束を払いのければ、小さな明かりとりの窓が設けられていた。少々歪んだ窓枠に、薄汚れたガラス。白っぽいしみの上を這いまわる黒っぽいヤモリ。

 アメリアは逃げるヤモリのすばしこい動きに驚いて、後ずさった。その拍子に、傍にあった甲冑に右脚をしたたかに打ちつけてしまった。

 痛みに息をのみ、崩れ落ちる。

 アメリアが顔を歪めて甲冑を見上げる。不安定な飾り方をされていたようで、銀の甲冑はぐらりと傾いた。


 落ちてくる。大きな鎧が、倒れこむ。

 金属の塊がアメリアの方へ倒れてくるというのに、アメリアの体はちっとも言うことを聞かず、這って逃げる時間すら与えられない。アメリアに許されていたのは、分厚い埃と幾重にも連なる蜘蛛の巣で執拗に飾り立てられた甲冑が、陽光に弾かれるようにして地面に叩きつけられるのを傍観することだけだった。

 視界が徐々に銀色の金属で一杯になって、陽が遮られたために暗くなる視界を感じながら、アメリアはなんでもないようなことを考えていた。


 (あんなふうに甲冑を飾るなんて、ものを知らない人のやり方だ。後ろの支柱にわかりやすく括り付けてしまうものだから、真っすぐに立ってこそいるけれど、腕を中途半端に横に固定して、肘から先は垂れ下がってしまって……まるで磔にされているみたいに……)




 誰かに肩を揺すぶられた衝撃で、アメリアはゆっくりと目を開けた。柔らかな睫毛で縁取られた暗褐色の瞳に、優し気に目を細めた老女の顔が映り込んだ。


 「アメリアお嬢様。お目覚めになりましたか。うたたねには丁度良い陽気でございますね」


 アメリアは顔を赤らめた。分別のない振る舞いをしてしまった時には、決まって父に分別のつかない子供を叱るようなやり方で窘められるので、消え入りたいほどに自分が恥ずかしくなってしまう。

 しかし、女史の視線は慈愛深くやさしいものだったので、アメリアの顔の紅潮はほどなくして引いていった。アメリアの気分が落ち着いたのを見て取ると、女史は言葉を続けた。


 「お怪我はありませんか、小さな棘など、傍目にはわからないものです」

 「はい、私はどこも、痛くはありませんが……」


 どうしてそのようなことを尋ねるのか、と続けようとして、アメリアは小さく震えた。自らの痛覚は何も訴えずとも、侍女の眼に何かおかしなものが映っているのだろうかと不安げに視線を彷徨わせる。


 「それならよいのです。薔薇を気に入って頂けたようで、ようございました。アメリアお嬢様のお住まいでしたら、豪勢な庭園がいくらでもあるのでしょうが、なにぶんこちらは老いた女が二人だけ。それでも、珍しい品種のものもいくつか咲かせることに成功したんですよ、ほら、例えばアメリアお嬢様が捥いでいらしたこの薔薇は……」


 アメリアはその言葉にはっとして手元を見た。先ほどアメリアが敷いたテーブルクロスの上には、白い布と区別がつかないような白薔薇が一輪身を横たえていた。

 侍女は珍しい品種だと言ったが、アメリアの目にはこの薔薇が異様な奇形に映った。乳白色の花弁の縁は産毛が生えているかのように毛羽立っていて、微かに蠢いて見える。そっと指で触れると、砂糖菓子のようにあっけなく崩れてしまい、楕円形の花弁がテーブルに散らばった。

 人間には感じ取れないような微風で蠢く花弁がどうにも気色悪く見えてしまって、アメリアは侍女に気づかれない程度に身を引いた。

 胸のあたりが重く、毒霧を吸い込んだかのように気分が苛まれた。侍女の解説をどうしても集中して聞くことができずに、殆ど聞き流してしまう。そのことが罪悪感を掻き立て、余計にアメリアの心を波立たせた。


 「シシィは本当に薔薇が好きなのですね。それにきっと、祖母も」

 「ええ、お嬢様と薔薇の話ばかりして過ごす時間はとても楽しく心地よいものでしたとも」


 女史はそう言って顔の皺を深めた。長く連れ添った相手を失ったばかりとは思えぬような、柔らかな笑顔だった。

 女史がアメリアに背を向けて、脇に止めた台車から軽食を給仕する。アメリアは女史の視線が逸れた隙をつき、手巾を使ってテーブルから薔薇の花弁を払い落した。


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