第87話 若旦那?
「では、『山成手旅篭屋』。本日も『江戸1番のおもてなし』ができるよう、従業員の皆さんも、気を引き締めて頑張りましょう」
またしても江戸の自分の前世の身体に入ってしまった響太。
涼しい笑顔で、内心心臓をバクバクさせながら、眼下に広がる50人ばかりの従業員たちに向かってそう挨拶をした。
『山成手旅篭屋の若旦那』として。
『はい!』
従業員たちも慣れているらしく、綺麗に声を合わせる。
(いや〜! 頼むからみんなこっち見るな〜!!)
人前だとどうしても緊張してしまう響太は、従業員たちからの視線を冷や汗を流しながら受け止めた。
「では、いただきます」
……言い忘れていたが、今は朝食の時間である。
この旅篭屋の方針らしく、朝の食事は従業員全員で取るらしい。
『いただきます』
(あー……な〜んか小学校の頃にやった給食の号令係みたいだな〜
あの時は『いただきます!』の号令を誰がやるかで結構もめたけど、な〜んであの時はこんな面倒なことをやりたがったんだろうな〜)
とか半分意識を飛ばしかけながらそう現実逃避をしていると……
「……響さん? どうしました?」
隣で不思議そうに首を傾けている千鶴に声をかけられた。
ちなみに千鶴は「若奥様」らしい。
「い、いや! なんでもないよ!!」
千鶴の声にアハハと空笑いをしながら、響太は慌てて目の前のおいしそうな汁物に手をつけた。
(……入ってるのはいわしのつみれかな?)
ずずっと一口すすると、
(うまっ!!)
これがびっくりするほどおいしい。
(なんでこんなにうまいんだ!?)
魚の新鮮さがスーパーで買ったものとは段違いであるせいなのだが、響太はそれに気づかず目を丸くして他のものにも手をつける。
ご飯は麦飯だったからともかく、おかずはカボチャの煮物、お茶に至るまでうまかった。
(うまー!)
そうやって舌鼓をうっていると、ふと響太は自分の後ろの方、部屋の隅で、立ったまま少しうらやましそうにみんなを見ている、割烹着姿の雪を見つけた。
(……あれ?)
「ユキナ……じゃなくて雪」
「はい?」
響太が呼ぶと、雪はすぐに響太のそばに寄ってくる。
「若旦那様。どうしましたか?」
「いや……」
(若旦那て!!)
自分の呼ばれ方に、改めて心で『なんじゃそりゃあああ!!』と突っ込みながらも、響太は言葉を続けた。
「雪は一緒に食べないの?」
「と、とんでもございません!!」
雪はびっくりしながらそう言うと、ぶんぶんと首を横に振った。
「私はみなさまのお食事の後で、残り物を頂きますから………」
「へ………?」
響太はぽかんと口を開けた。
「なんで?」
「な、なんでと申されましても………」
「そうですよ、響さん」
何を言っているんだ、という風に隣の千鶴が響太をたしなめる。
「主人と使用人が食事の時を違えるのは当たり前じゃありませんか」
「………………はぁ」
響太は気のない返事を返した。
(……そんなもんなのかな? いや、けど、ねぇ……?)
食事は一緒にやった方が断然楽しいのでは?
しきりに首を傾げながらも、その場はしぶしぶ「わかった…」と頷いた。
***
朝食は済み、朝の仕事だということであてがわれた部屋で響太は台帳とにらめっこしていた。
……のだが。
(………楽なもんだな)
響太は仕事だと言われあてがわれたことを淡々とこなしながら、そう感じていた。
だって、やることは台帳のチェックだけなのだ。
計算違いしてないか確かめてね、とか、いついつにこういう人が来るからとか確認してね、とか。その程度。
簡単すぎるにもほどがある。
こんな仕事をやっていて、自分の前世は退屈だとか思わなかったのか?
(……いいのか、こんなに楽してても)
生来、ワーカーホリックの気がある響太は、ほとんど終わりかけた仕事の後を見て、あーうーと落ちつかなげに周囲を見渡した。
すると………
「あ………!」
障子越しにシルエットが見えた。
小さな身体に自分が見えなくなるぐらい重そうな布団を抱えて、ゆらゆらと歩いている人が、目の前を通り過ぎている。
(あぶな……)
響太は深く考えもせずに、その人を手伝おうと腰をあげ、部屋から出た。
……その瞬間。
「響さん!」
偶然廊下にいた千鶴に「何をしているのですか!」と止められた。
「いや、あのさ………あれ」
よたよたと進む少女を見ながら、響太はぼそぼそと言った。
「危なくない?」
「いいじゃありませんか。あの程度」
(あの程度って………)
明らかにあの子が持てる範囲を越えている。
布団7、あの子3って感じだ。
「どう見てもあの子ができる範囲の仕事量じゃ……」
……とそう言いかけた瞬間。
(………あ)
響太は布団を運んでいるのが誰なのか、ようやくわかった。
(雪………)
響太が言葉を止めている間に、千鶴はどんどん話を続ける。
「いいのですよ、そんなこと。やらせておけば」
「…………けど、俺はちょうど手が空いてたし、少し手を貸すぐらい」
「いいですか、響さん」
反論しようとした響太に、千鶴はずいっと詰め寄った。
「ここは老舗の旅館『山成手旅篭屋』で、あなたはここの若旦那なのですよ?
あなたの仕事はどっしりと構えて、従業員たちに威厳を示すことです。
あのような末端の使用人を特別扱いなどしたら、他の者に示しがつかないでしょうし、あの子も逆に困るでしょう?」
そう諭すように千鶴は言った。
「………むぅ」
そう言われたら、反論のしようがなかった。
理論的には、圧倒的に千鶴が正しいからだ。
………だけど。
(………やっぱり気になる)
あー手伝いたい手伝いたいと心で呪詛のように繰り返していると、「さあさあ!」と千鶴に背中を押された。
「台帳の確認は終わったのですか? あなたがいるべきところはここではないのですから、お部屋にお戻りくださいな」
「あ、ちょ………」
千鶴に部屋の中にむりやり戻されるのだった。