ケインと皇后陛下
さて、卒業を二か月後に控えたある日、ケインはセルティスに連れられて、レティアス皇子殿下が住まわれる水晶宮を訪れていた。
生後五か月とはいえ、一応相手は未来の皇帝である。
非常に畏れ多い気がしますとセルティスに言ってみたら、「皇弟殿下を呼び捨てにしているお前が言うな」と、呆れた顔で返された。
という事で、まだ騎士の叙勲も受けていない身で、未来の皇帝に拝謁する栄誉を与えられたケインであったが、乳母のビエッタ夫人の胸に抱かれた皇太子殿下はと言えば、両手を万歳の形に挙げて大層幸せそうに眠っておられた。
妹や弟たちを見慣れているケインにはさほど珍しくない光景だが、セルティスは初めてのこの甥っ子が大層もの珍しく、気になって堪らないようだ。
時々指で赤子の頬をつついては、「起こしてはなりませんわ」とビエッタ夫人に注意されていた。
「最初にレティアスを見た時、余りに薄毛だったからびっくりした」
「あー、そうだったんですか」
「産毛が少しある程度でほとんど髪の毛がなくてさ。生まれたばかりなのに、もうハゲたのかと……」
「うわっ、何てひどい誤解を」
「赤子を見たのが初めてだったのだから、仕方がないだろう? それにあの時は、何だか顔もへちゃむくれていてサルっぽかった」
生まれたばかりの子は皆そんなものだが、今まで赤子を見た事もなかったら、そりゃあ驚くかもしれない。
「……まさかその場では言わなかったでしょうね」
「私だって、時と場所は弁えている」
ぼそぼそとそんな風に言い合っていれば、ビエッタ夫人から軽く睨まれた。ハゲとかサルという言葉がピンポイントで耳に入ったらしい。
「そのうち貴方も父親になるんですから、いい経験になったじゃないですか」
「そのうち……?」
セルティスはものすごく嫌そうな顔をした。
「まだ私は十六だぞ。そんなに早く父親になってたまるか」
「でも、ものすごい数の縁談が貴方に届いてるって聞いてますけど」
「全部断ってもらっている。十二まで紫玉宮に閉じ込められていて、その後はアントーレでの宿舎生活しか知らないんだぞ。ようやく自由を手にできるのに、このまま結婚という檻に入れられるのは悲し過ぎる」
「なるほど。それもそうですね」
その気持ちは何となく理解できたので、ケインは大きく頷いた。
「そういうお前はどうなの? 実は婚約者がいるんですって話の流れじゃないだろうな」
「いませんよ。私もしばらくはこの自由を謳歌します」
それを聞いたセルティスがちょっと首を傾げた。
「そういや、ケインは何で婚約していないんだ? カルセウス家くらいの家格の家なら、そういうのがいて当然な気がするけど」
「うちは財政的に安定していますから、焦ってどっかと縁を繋ぐ必要がないんです。野心とか権力志向とかもあんまりない家なので、のんびり構えてていいって言われていますし。
多分、二十代後半に、十六、七くらいの女性と結婚するようになるんじゃないですかね」
「そんなに年が離れていて、話が合うものなの?」
「相手にもよると思いますけど。要は話が合う女性と結婚すればいい訳でしょう?」
「お前ってちゃっかり、そういう相手を見つけそうだよな。……要領良さそうだし」
何とも答えようがなかったので、ケインは軽く肩を竦めておいた。
「……なあ、結婚話で思い出したんだけど、お忍びの時に出会ったシアの事、覚えてる?」
ややあってセルティスがそんな風に言ってきたので、懐かしい名前ですねとケインは瞳を細めた。
「勿論覚えています。そろそろ結婚された頃でしょうか」
シアは自分たちと同い年のようだったから、もう十六の筈だ。貴族女性は大体十六から十八で嫁ぐものだから、結婚していてもおかしくない。
「あの時、聞きそびれていたんだけど、寄り親って一体何なんだ?」
ケインはどう説明して良いものかと、ちょっと考え込んだ。
「アンシェーゼには莫大な数の貴族がいて、その約七、八割が下級貴族です。皇都から離れた不便な場所に小さめの領地を持ち、ですから社交もままならない訳です。
そうした貴族たちに人脈を作るための社交の場を提供したり、あるいは良縁を取り結んでやったりするのが寄り親と呼ばれる貴族なんです」
「ああ、そういう貴族がいるんだ」
「別に法令化とかはされていなくて、自然発生的に出来上がったって感じですけど。
寄り親たちの家の格はまずまずですが、金銭的にはさほど裕福ではない家が多いです。なので、寄り子と呼ばれる下級貴族からの付け届けが大事な収入源となっているようですよ」
「なるほどね」
「彼らはとにかく広い人脈を持っています。寄り親同士の交流もあるようですし、カルセウス家が情報を集めたい時は、分家を通して最終的には馴染みの寄り親を頼ると聞いた事があります」
「シアの家は寄り親に圧力をかけられたみたいだった。
そういう寄り親と寄り子の関係は解消できないものなの?例えば、寄り親を変えるとか……」
セルティスの言葉に、ケインはうーんと考え込んだ。
「難しい気がします。寄り親は寄り子を手放す事を嫌がるので、逃げようとすればとことん相手を追い詰める筈です。他の寄り子たちに対する見せしめもあるでしょうし、余程力を持った繋がりを別に持っていない限り、その寄り子は潰されるんじゃないですかね」
「そんな構図、おかしいだろ」
「ええ。本当は、何か困った事が起きた時、寄り子を守るのが寄り親の役割なんですけどね」
ケインは小さくため息をついた。
「でもシアの家の場合、本当のところはどうだったんでしょうか。
かなり格上の貴族との縁組だったようですから、もしかすると寄り親は、いい縁組を紹介してやったくらいの感覚でいたかもしれません」
あの時会ったシア嬢がどこの誰であるかもケインは知らなかった。オルテンシアという名前だったが、住んでいる地方も家名もわからないという状況では、特定する事はほぼ不可能だった。
「幸せになっているといいな……」
セルティスがぽつんとそう言うので、ケインは「そうですね」と頷いた。
願い続けていればいつか叶うと、そんな風にセルティスの心を慰めてくれた少女だった。
少女の言う通り、セルティスは姉との再会を果たし、あの時望んでいた未来を手に入れた。
強い眼差しで未来へ進もうとしていたあの少女もまた、思う未来を手に入れていればいいとケインは心からそう願った。
そのまま二人でらしくもない感傷に浸っていれば、やがて皇后陛下のお渡りが伝えられ、それを聞いたセルティスが嬉しそうに顔を上げた。
というか、今日ここを訪れたのは、そもそも皇后に呼ばれたからだ。ケインが遊学するとセルティスから聞いた皇后が二人で顔を見せるようにと伝えてきて、今こうしてここにいる。
実を言うと、ケインと皇后はすでに顔見知りだった。ヴィア妃が皇后になられてすぐ、セルティスは皇后に親友のケインを紹介し、それ以来の仲である。
初めてケインがヴィア皇后を間近に見た時の感動は、今も記憶に新しい。うわあ、こんなきれいな人間がこの世にいるんだ! と、一瞬言葉も忘れてその顔に見入ってしまった。
セルティスも美人だが(大きくなれば少しはむさくるしくなるかと思っていたが、体を鍛えても筋肉ダルマにはならず、精悍というより秀麗な皇弟殿下である)、皇后陛下はそれに加えて独特の艶と華やぎがあった。
セルティスが姉をべた褒めする気持ちもよく理解できたが、「姉上を好きになるなよ」とセルティスに釘を刺された時には、そんなんしたら家が潰れるだろ? と本気で思った。
何と言っても、この皇后陛下に対する皇帝の執着と並外れた寵愛は有名であり、一説によると「どの男の目にも触れさせたくないから皇帝宮の奥まった一角にずっと皇后を閉じ込めておきたい」と宣ったそうである。
まあ、そんな事がアンシェーゼの皇后の立場で許される筈もなく、皇后は普通に社交をこなされている訳だが、そこまで皇帝に愛されている皇后を恋愛対象にするような命知らずな臣下はいないだろう。
それに、こんな華やかな美人さんは観賞用で十分だ。『皇后陛下を称える会』の会員一号は言わずと知れたセルティスだが、ケインだって三百五十四番の会員番号を持っている。因みに取りまとめ役は、会員番号二番を持つ、皇后の侍女頭のレナル卿夫人だ。
美しく賢明で慈悲に満ち、臣下にも慕われている皇后は、まさにアンシェーゼの至宝である。
話は戻るが、実は初めてセルティスに紹介してもらったその日、ケインは皇后から「これからもセルティスの様子を教えてもらえないかしら」とこっそり頼まれていた。
皇后はセルティスが心底可愛いようで(危篤と聞いて、慌ててどっかから戻って来られたほどだ)、どのように日々を過ごしているかがとても気になっていたらしい。
ケインにしても、セルティスの話を心置きなく話せる相手がいるというのはありがたく、二つ返事で承諾させていただいた。
何と言ってもセルティス絡みでは国家機密扱いの話も多く、家族や他の友人たちにはおいそれと話ができない事が多かったからである。
そうして時折、皇后とお会いするようになったケインだが(勿論、二人きりではない。皇后が信頼する侍女が必ず傍に控えている)、セルティスの前向きな明るさはこの皇后譲りだとすぐに確信するようになった。
とにかく朗らかで、話しているととても楽しい。
ついついケインの口も軽くなり、騎士学校でのあれこれをすべて語らせられる羽目になり、帰ってから喋りすぎたかなと、時折思わないでもないケインである。
まあ、皇后は賢しい方なので、得た情報を迂闊に漏らす事はないだろう。
さて、久しぶりにお会いした皇后は、すでに二人目を身籠っておられたが、体形はまださほど変わっておられなかった。相変わらずお美しく、眩いばかりの華やぎがある。
その皇后は早速ケインの遊学についてお尋ねになられ、ケインは今知る限りの事をお伝えしていった。
どういう基準で遊学の先を決めたか、どの国でどんな事を学びたいかなどを話していけば、皇后は我が事のように目を輝かせ、楽しそうに相槌を打って下さった。
「では、シーズにもいずれ行くようね。カルセウス家の人脈もあるのでしょうけど、わたくしからもシーズの王妃様に一言、文を書いておきましょうね」
言われたケインは、へ? と顔を上げた。
「皇后陛下は、シーズの王妃様とご友人でいらっしゃるのですか?」
「ええ。わたくしの結婚の祝賀行事にシェルルアンヌ様が来て下さって、それ以来の友人よ。そう言えば、あの頃はまだガランティアの王女殿下でいらっしゃったわね」
その言葉に、『あー、アレク陛下の皇后候補ナンバーワンだった、あの王女殿下だぁ!』とケインは思わず心の中で叫んでいた。
でも待てよ? 確か、あの王女殿下は皇帝にぞっこんだった筈だ。つまり王女殿下にとって皇后はにっくき恋敵だった筈で、なのに何で友達になってるんだろう?
ケインは眉間に皺を寄せた。
そんなケインには気付かず、皇后は楽しそうに話を続けられる。
「今も親しく文通させていただいているの。とても楽しくて前向きな方よ。王妃様のサロンにも呼んでいただけるよう、手紙でお願いしておくわね」
ケインは思わず笑顔をひきつらせた。
ここで言うサロンとは、自分とセルティスがお遊びで行ったあのサロンとは全く別物だ。王族や貴族らが開く私的な集まりで、芸術への理解や教養一般、会話の軽妙さ、優美さを競い合う場所でもある。
そこに年齢は関係ない。会話についていけなければ恥をかき、その評判がいつの間にか知れ渡っているという恐ろしい集まりだ。
ケインも名家の出だから、内々で開くサロンには幼い頃から参加しているが、正式なサロンデビューはこれからだ。
少し格の低いサロンから徐々に慣れようと思っていたのに、行ったばかりの他国でいきなり王妃様のサロンに呼ばれるようになるなんて、無謀もいいところである。
けれど、こんなところで弱音は吐けなかった。
この先もセルティスの傍らに立ち続けたいなら、他国にも大きな人脈を築いていく事がケインにとっては不可欠になる。
「お力添え、ありがとうございます」
覚悟を決めたケインは吐息を喉の奥に噛み殺し、真っ直ぐに皇后の顔を仰ぎ見た。
「様々な出会いを通し、一回りも二回りも自分が成長していけるよう、これからも精進してまいります」
その言葉に皇后はゆっくりと頷いた。
「貴方ならできるわ。楽しみながら頑張っていらっしゃい」