皇弟は、姉をおびき寄せる餌となる
ケインの読み通り、セルティスのお忍びは凍結となった。
そりゃあそうだろう。
守られるべき対象が護衛を振り切って下町を走り回ったのだ。
こっそり張り付いていた護衛らは泥まみれの無残な状態となり、備品(注:かつら)はなくすし、サロンに配された屈強な騎士二人は何故か心が折れていた。
セルティスは団長から大目玉を食らい、少なくとも騎士の叙任を受けるまではお忍び禁止が言い渡された。
セルティスを止められなかったケインには三ヶ月間の外出禁止処分が下されて、セルティスにはそれプラス、数頁に及ぶ反省文の提出が求められた。
反省房に入れられなかったのは、お忍び自体が公にできない事であったためで、まあ、妥当な処分であると言えるだろう。
その後セルティスは、アントーレ内に猫が飼われていないか厨房の女たちに聞き回っていたが、結局、騎士学校や宿舎周辺には猫はいないという事実が判明した。
その後しばらくは、茶トラが恋しい……とセルティスがうるさかった。
そうこうするうちに月日は流れ、ヴィア側妃殿下がガラシアに行かれて二年が過ぎる頃、国を揺るがす大事件が起こった。
皇位継承権暫定一位の皇弟殿下、つまりセルティスが、風邪をこじらせて危篤状態となったのである。
その経緯は、いかにも不自然だった。
まず、ある日突然セルティスが皇宮に呼び出され、その晩から宿舎に帰って来なくなった。
何でも急に喉の痛みを訴えて、夜からは高熱が出たとの事だったが、その報せを聞いた時、ケインははっきり言って耳を疑った。
一緒の部屋で寝起きして三年以上経つが、セルティスはそんなに弱っちいタマではない。
一見、華奢でいかにも線の細そうな印象を与えるが、見かけに反して大飯食らいの健康優良児だし(食べても太らない体質だと言っていた)、しかも皇宮に呼び出される前日は、体重と同程度の重さの背嚢を背負って訓練場十周の走り込みもやっていた。
疲労の余り物が食べられなくなった同期もいる中、セルティスは「運動の後のご飯はおいしい!」などと言って、元気にご飯をぱくついていた筈だ。
そのセルティスがいきなり寝込むなんて不自然だし、しかも五日後に入ってきた報せは、『風邪をこじらせて危篤状態』だ。
毒でも盛られたのだろうかと、さすがのケインも青ざめた。
そしてほぼ同時期、『セルティス殿下重病、危篤説』がまことしやかに民の間に流れ始めた。
これもあり得ない事態だった。
前皇帝パレシスは、己が兄弟とその血を引く男児すべてを殺害しており、現皇帝の三親等内で皇位を継げるのは、皇弟であるセルティスだけだ。
もう一人の皇弟ロマリス殿下は皇籍を剥奪されて幽閉中だし、それ以外の皇統と言えば、前皇帝の従兄弟に当たる方々しかいない。
そんな状況下でもしセルティスが危篤となったとしても、政権がそれを公にする筈がないのだ。
だが現実に、噂は一気に皇宮を飛び越えて民の間に浸透し、気付けば国を越えて他国にまで知れ渡っている状態となっている。
ケインは、セルティスが何らかの陰謀に巻き込まれたのだと半ば覚悟した。
もしかすると謀叛を疑われているのかもしれないし、そうなれば紫玉宮に蟄居させられている可能性もある。
居ても立ってもいられず、ケインは紫玉宮を訪れたが、その紫玉宮は皇位継承者が療養しているとは到底思えぬほどに静まり返っていた。
顔見知りの侍従長に聞けば、皇帝の命で、訪れた貴族連中は全て追い払われたと言う。
ケインが、「殿下に会わせて欲しい」と言うと、侍従長は躊躇った末に宮殿の奥へ聞きに行ってくれ、やがて「どうぞ」とケインを中に迎え入れてくれた。
ケインはもう泣きそうだった。
セルティスと会うのもこれが最後となるのかもしれないと、乱れる心を抑えて寝所へと足を踏み入れれば、そんなケインを迎え入れたのは、「おー! 待ってたんだ!」というセルティスの能天気な一声だった。
「する事なくて退屈でさ。いやあ、来てくれて助かった」
セルティスは一応寝間着を着ていたが、見るからにお肌はつやつやだし、元気そのものである。
ケインは一瞬無言になった。
「……貴方、確か危篤の筈でしたよね」
「危篤、危篤。対外的にはちゃんとそうなってるだろ?」
「えーと、何のために?」
「国家機密だけど知りたい?」
ケインはちょっと考えた。
もうどっちにしても、元気なセルティスの姿を見ただけで、国家機密に片足を突っ込んでいる。
足を一本突っ込もうが、両方突っ込もうが、大した違いはない気がした。
「教えて下さい」
「実は、ヴィア姉上を釣り上げるためなんだ」
ケインは器用に片眉を上げた。
「釣り上げる? ガラシアにおられるのでしょう? 使いを送ればいいだけの話じゃないですか」
「姉上、ガラシアにはいないし」
「……どこにおられるんです?」
「うーん、それがわかんないんだよね」
セルティスは腕を組んで嘆息した。
「つまりさ、姉上は元々ガラシアになんか行っていないんだ。
自分がいたら皇帝陛下のためにならないって身を引いて、そのまま行方くらましちゃってるんだよね」
ケインはぽかんと口を開けた。
あの時、セルティスがもう会えないって言っていたのはこういう事だったのかと、ケインはようやく理解した。
「姉上が行方くらましちゃった後も、兄上は姉上が忘れられなくてさ。皇后は迎えないわ、伽の女も呼ばないわで、このままじゃ跡継ぎなんかできないだろ?
だから側近連中が、姉上を皇宮に呼び戻す事にしたんだ。
ほら、姉上は私を可愛がっていたし、その可愛い弟が危篤だって聞きつけたら、どっかから慌てて駆け付けるんじゃないかって話になった」
そのために皇位継承権第一位の弟君を危篤状態に仕立て上げたんだ。現政権、すげえとケインは心に呟いた。
「……下手をすると、国が潰れません?」
「へーきへーき」
セルティスはひらひらと手を振った。
「列国が変な動きをしないよう、いろいろ目は光らせているみたいだし、実際、私は元気な訳だからね。
それより私は、本当に姉上が帰って来てくれるか、そっちの方が心配。
これで会いに来てくれなかったら、一か月泣き通す自信がある」
「……ですよね!!」
結果から言えば、セルティスの心配は杞憂に終わった。
市井に下りておられたヴィア妃殿下はどこぞからすっ飛んで帰られ、皇帝陛下は愛しの女性を見事にゲットされた。
さて、その後の展開は急で、皇帝は毎夜のようにヴィア妃殿下を皇帝宮に呼んで愛おしまれるようになり、ほぼ同時期にヴィア妃殿下の皇后立后が円卓会議で了承された。
因みに推挙人はアンシェーゼ三大騎士団の一つ、ロフマン騎士団の当主である。
事実上のヴィア妃の後見人であり、皇族出身以外で三大騎士団の後ろ楯を持った人間はアンシェーゼ史上初めてであり、大きな話題を集める事となった。
立后されてほどなく皇后は懐妊され、翌年の八月には待望の男児を出産された。
なかなかお子ができなかったり、子が産まれても王女ばかり四人続いたというシーズのような例もある中、第一子で皇国の跡継ぎを産み参らせた皇后は強運のお方だなと、ケインはつくづくそう思った。
国中は祝賀ムードに押し包まれ、誕生からひと月も経たぬうちに皇子殿下は立太子され、セルティスはもう狂喜していた。
「あと二、三人、姉上が男の子を産んでくれたら、私に構ってくる輩もいなくなるな」
セルティスはほくほく顔でそう言っていたが、犬や猫じゃあるまいし、人間はそうぽんぽんと子どもを産める訳ではない。
それよりも、数か月後には騎士の叙任を受けていよいよ成人皇族の仲間入りをする訳だから、セルティスにとって本当に大変なのはこれからだと言えるだろう。
「そう言えばケインは卒業後どうする訳?」と聞かれので、
「二、三か月はアンシェーゼでのんびりしますけど、その後は二年くらいかけて遊学に行くようになると思います」
セルティスは目を丸くした。
「え? 遊学ってどこに行くつもりなの?」
「まずは北のガランティアですね。それから、シーズ、タルス、ペルジェと回っていって、最終的にはセクルト連邦の公国を見て回りたいと思っています」
何と言っても、ケインの家は金持ちである。
数か国以上の国を二年かけての遊学となれば莫大に金はかかるが、そのくらいカルセウス家にとっては何て事はなかった。
「アンシェーゼ周辺の国を一通り回るつもりなのか。私も行ってみたいけど、遊学なんて夢のまた夢だな」
現在アンシェーゼに男性の成人皇族は五人しかいない。皇帝陛下とあとは前皇帝の従兄弟にあたる四人の殿下方だけだ。
四人の殿下方は、前パレシス陛下に粛清されなかった程度には無能であり(こういう言い方をすると身も蓋もないが、有能な皇族ならおそらく殺されていた)、その嫡男らはいずれも爵位を賜ってすでに臣籍降下している。
つまり今後、皇帝の周囲で成人皇族としての働きが期待できるのはセルティスだけで、そんなセルティスに長期に渡る遊学が許される筈がなかった。
「それにしても、いつからそんな話になってたんだ?
私は全く聞いていなかったけど」
ちょっと拗ねたようにセルティスが聞いてくるので、
「先月そういう話を親からされたのですが、私は一年くらいはアンシェーゼでのんびりしようかと。
けれど、ガランティアに嫁いでいた伯母が私の遊学に乗り気になっていて、来年の夏前にはこちらに来るようにと昨日手紙が届いたんです」
ケインはいずれ皇弟殿下の片腕になるだろうと目されていて、そのためにも広い世界を見て回るよう、父親から強く言われていた。
そしてケイン自身も、その事はしばらく前から感じていた。
アントーレで学ぶべきものはすべて学んできたと思っているが、それだけでは十分でない。これからもセルティスの傍らに立ちたいなら、ケイン自身がもっと成長しなければならなかった。
「こうやってセルティスと名前を呼ぶのも、あと数か月です。卒業したら『殿下』と呼びますよ」
自分たちは成人し、誇りと覚悟をもってこの先の人生を歩んでいかなくてはならない。
そんな決意を込めてセルティスにそう言ったのだが、セルティスにしてみれば、ケインが急に遠くなったように感じたのだろう。
不貞腐れたようにそのまま黙り込んでしまった。
「今までだって人前では殿下とお呼びしていたでしょうが。さすがに成人皇族を呼び捨てにする訳にはいきませんからね」
そう言葉を足してみたが、セルティスは相変わらずそっぽを向いたままだ。
ケインは小さなため息をついた。
「セルティス。私はいずれ貴方の剣となり、盾となります。この遊学はそのための布石です」
「え」
セルティスが驚いたように顔を上げた。
「えっと、それって……」
「アンシェーゼにいると、この国の文化や風習だけが当たり前のように感じられるじゃないですか。
他国には他国なりの事情があり、気候や風土も違えば、言語そのものが異なる国もあります。思想も信仰も異なる国で自分がどんな事を感じるか、実際に身を置いて確かめてきます。
まあ、もしかして国が恋しくなる事もあるかもしれませんけど、それで逃げ帰ったら馬鹿みたいですから死ぬ気で頑張ってきます。
……さっきの話に戻りますが、『殿下』呼びは一種のけじめです。呼び方が変わったくらいで、簡単に縁が切れるなどとは思わないで下さいね」
ケインの言いたい事がようやく伝わったのだろう。セルティスは勝手に拗ねていた自分が恥ずかしくなったらしく、気まずそうに目を揺らした。
「……私ができない遊学を一人で楽しんでくるんだ。手紙くらい寄越せ」
「勿論、そのつもりです」
ケインは笑って頷いた。
「セルティスもたまには手紙を下さい。
あと、遊学先に会いに来ませんか? アレク陛下も皇子時代はいくつかの国を訪問していたようですし、多分そのくらいは許可が下りると思いますよ」
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