皇弟はちょっぴりもやもやする
その言葉を聞いた時、セルティスは何故だかわからないが、気持ちがずんと沈み込むような感覚を覚えた。
「婚約者がいるんだ」
動揺を悟られないよう、何気ない口調でそう返せば、
「婚約歴はもう四年ですわ」
シアは吐息のような笑みを零した。
「幼馴染みなの?」
「いいえ。わたくしの家の寄り親が持ってきた縁談なんです」
シアは当たり前のようにそう答え、一方のセルティスは言われた意味がわからずに沈黙した。
寄り親ってなんの事だろう。
けれどその場でそれを聞くと話の腰を折ってしまいそうなので、ただ小さく頷くにとどめた。
話の流れから、どうやらごく常識的な事だと推測されたし、この少女に世間知らずだと思われるのも気恥ずかしい。
「九つの時に婚約が決まったんです。
うちは家柄は低いけど、かなり財力があるから、こんな家柄の娘でも需要があるみたい」
シアが自分を卑下するような言い方をするので、セルティスはちょっと気になった。
「君らしくない言い方だね」
「婚約者はね、わたくしの事が不満なんです」
シアはちょっと寂しそうに笑った。
「その家はうちとは比べ物にならないくらい家柄が良くて……。
ここミダスに邸宅を持っているのですけど、維持費が半端なくかかるそうですわ。
だから家柄の低い我が家を選んでやったそうです」
要は金目当ての婚約という訳だ。
家柄だけはいいが、実情は火の車という家は意外と多い。そういう家はプライドばかりが高く、裕福な下位の貴族の事を妬んで、殊更に見下す傾向がある。
その男もそう言った類の人間なのだろう。
ケインは思わず眉を顰めた。
「ひどい相手だな。……ああ、もしかしてその縁組みを了承するよう、寄り親から圧力をかけられたのかな。だから君のご両親も断れなかった?」
ケインの言葉にシアは黙って瞳を伏せた。
つまりはそれが事実だという事なのだなのろう。
「私が少しでもマナーに外れた事をしたら、婚約者はすごく嫌な顔をするんです。育ちが悪い人間はこれだからって。
だから家を悪く言われないよう、必死で勉強しました。
高名なマナーの教師を家に呼んでもらって、動作の一つ一つが美しく見えるよう、泣きながらおさらいしましたわ」
「ああ、それで仕草がきれいなんだな」
セルティスが思わずといった風に呟けば、シアは一瞬瞠目し、それから嬉しそうにふわりと笑った。
「ありがとうございます。
身につけたものは、わたくしの宝だと思っているんです。
ですから、婚約者のおかげと言えばおかげですよね。負けん気に火がついちゃったのですもの」
「……そういう考え方って、母に似てるな」
それほどひどい扱いをされても不貞腐れる事なく、前向きに生きようとしているシアにセルティスはちょっと嬉しくなった。
「お母さまと?」
「うん。私の母は平民だったんだけど、ものすごい美人だったから、無理やり父の妾にされたんだ」
「まあ。そうでしたの」
「父にはきちんとした家柄の正妻がいたし、貴族のマナーを知らない母は事あるごとに周囲から馬鹿にされてね。
で、見返してやろうと必死でマナーを身に着けたらしく、私が物心ついた時は優美な貴婦人そのものだったよ」
「きっとたくさん努力されたのですね」
シアは眩しそうに笑い、柔らかな眼差しでセルティスを見た。
「とても素敵な方だわ」
その言葉はすっとセルティスの心に入ってきて、それを聞いた途端、セルティスは何だかちょっと泣きたくなった。
理不尽な運命に翻弄されて、それでもくじける事なく、いつも未来を見つめて生きようとしていた母は、ずっとセルティスの誇りだった。
父帝が生きている間は誰にも言う事ができなくて、けれどずっとセルティスはそんな母の事を誰かにわかって欲しかったのだ。
「母はね、父の妾にされる前に別の家庭を持っていたんだ。
だから、幸せな家庭を自分から奪った私の父の事を死ぬまで嫌っていた。憎んでいたと言い換えてもいいと思う」
ケインは驚いてセルティスを見た。
ツィティー妃の事は人伝えにしか聞いた事がないが、皇帝の目に留まり、寵妃にまで登りつめた幸運な女性だと、ケインはずっと思い込んでいたからだ。
「それは……本当の話なの?」
思わずケインがそう問うと、セルティスは苦笑しながら頷いた。
「父が生きているうちは誰にも言えなかったけど、もう時効だろう?
母は死ぬまで前の夫の事を愛していた。病床で名前も呼んでいたし、多分ずっと会いたかったんだと思う」
ケインは言葉を失い、一方のシアは事情がよくわからないながらも、セルティスがひどく特殊な状況下で育った事を知り、動揺したように瞳を揺らした。
「レイは……、もしかして辛い子ども時代を送っていたのですか?」
心配そうにそう聞いてくるから、セルティスは慌てて否定した。
「そんな事はない。
つまりね、母には前の夫との間に娘がいて、私にとっては異父姉になる訳だけれども、母もこの姉も、私の事をとにかく可愛がってくれたんだ。
あの二人は何て言うのかな。楽天的で庶民らしい逞しさに溢れていて、物事にものすごく前向きだった。
そんな二人に育てられたから、私のこんな性格が形成された訳だけれど」
「ああ、なるほど」とケインは我知らず相槌を打っていた。
「じゃないと、こうはなりませんよね!」
ん? と首を捻るセルティスの脇で、シアはほっとしたように「なら良かった」と顔を綻ばせた。
「レイのお姉さま、きっと素敵な方なんでしょうね。わたくしには兄しかいないから、お姉さまのいるレイが羨ましいわ」
ごく自然な話の流れだったが、これはまずい話題ではないかとケインはひやりとセルティスの顔を見た。
そもそも姉上であるヴィア殿下が静養に出されたせいで、セルティスはしおしおになってしまったのだ。
話題を変えた方が無難かなとケインは口を開きかけたが、それよりも早く、姉の事を自慢したくてうずうずしていたらしいセルティスが嬉しそうに喋り始めた。
「姉上はね、ものすごく優しくてきれいな方なんだ。目は私と違って澄み渡るような青色をしていて、あの眼差しに捉えられたらどんな男もイチコロだと思う。スタイルも抜群だし、アンシェーゼ中を探したって、姉上以上に素敵な女性はどこにもいないと思うな。
いつも朗らかで優しくて、まあ、その分怒らせると怖いんだけど、怒らせる時は大抵私の方が悪いから仕方がないと言うか……。
貴族としてのマナーも完璧に身についていて、だからと言ってガチガチの淑女って訳でもなくてね。頭の回転は速いし、話していて楽しいし、見かけは楚々として儚げな美人なのに、男も顔負けの度胸もあって……」
セルティスの姉愛が止まらない。
シアはちょっと呆気にとられてセルティスを見ていたが、そのうちくすくすと笑い出した。
「レイは、何て言ったらいいのかしら。まるで……、そう、姉上至上主義者ね!」
セルティスはがばっと身を乗り出した。
「何それ。その心躍る言葉は」
えっ、心踊っちゃうんだ。
ケインは頬をひきつらせたが、セルティスの方はふむふむと自分に頷いている。
「姉上至上主義……。まさに私のためにあるような言葉だ……」
さすがにこの発言には引くだろうと、ケインは横目でシアの様子を窺ったが、意外にもシアはにこにこと笑っていた。
無理やりセルティスに合わせているというより、寛いでこの会話を楽しんでいる様子だ。
何だか不思議な子だなとケインは思った。
物腰や立ち居振る舞いはまるで大貴族の令嬢のようなのに、体裁ばかり取り繕おうとする貴族たちと違って声音や眼差しに穏やかな温もりがある。
大らかなくせに変なところで負けず嫌いで、そんなところも、セルティスがよく話していたヴィア妃殿下像に良く似ている気がした。
だからセルティスも、つい気が緩んでしまったのだろう。
「実はね、ある事情があって姉上は家を出てしまったんだ」
ごく自然に、自分の傷をシアに晒していた。
「多分もう、二度と会えないと思う」
シアは驚いてセルティスを見上げた。
「そう……なのですか?」
「うん」
セルティスは惰性のような笑みを口元に残したまま、ティーカップのソーサーに無意識に指を滑らせた。
「でも、仕方ないと分かっているんだ。残された方は辛いけど、いつかこうなる事はわかってたから」
それ以上事情を話そうとしないセルティスに、シアは自分が立ち入ってはいけない事柄なのだと賢明に理解したようだ。
理由を尋ねるような事はせず、ただ一言、「余程の事情があったのですね」と労わりを込めて言葉を返した。
「六年前に母が亡くなってから、姉は私の母代わりだったんだ。
ずっと姉に守られていた。
姉から実の父を奪ったのは私の父で、だから何か一つでも姉のためにしてあげたかったけど、結局何もできないままに一人で行かせてしまったな」
口調だけは明るく、けれど自嘲するように唇を歪めたセルティスに、シアは僅かに瞳を眇めた。
「……でも、生きていらっしゃる訳でしょう?」
やがてシアは真っ直ぐにセルティスを見つめてそう言った。
「ならばいつか会えますわ。願い続けていれば必ず」
口調は柔らかいが、その眼差しには強さがあった。
「レイはそう思われませんか?」
迷いのない言葉に気圧されたようにセルティスは一瞬息を呑み、それから徐々にその表情が緩み、ややあって参ったと言いたげに小さく息を吐いた。
「そうだね。会えるかもしれない。
確かにそう願う自由は残されている訳だ」
そう言って微笑んだセルティスの横顔はいつになく晴れやかで、このところの翳りのようなものが消えている事にケインはふと気が付いた。
元々セルティスは物事を明るく捉えようとする気性で、失ったものをくよくよと嘆く質ではない。
いつか会えるかもしれないと気持ちを切り替えた事で、鬱屈していた気持ちに一つの区切りをつけたのかもしれなかった。
それから三人は、時間を忘れて話に興じた。
シアとは話の波長が合うようで、いくら話しても話が尽きない。
気付けばずいぶん時間が経っていて、周りの客たちもほとんどが入れ替わっていた。
ついでに言えば、例の筋肉たちはすでに屍と化していて、テーブルに視線を据えたままぴくりとも動かなかった。
ケインはちらりと壁際の時計を見た。
「随分話し込んでしまったみたいだ。そろそろ馬車を呼ぼう」
セルティスにそう声をかければ、「ああ、もうそんな時間か……」と夢から覚めたようにシアを見た。
「シアはこれからどうするの?」
「窮児院へ行って来ますわ。今度皇都に来た時は、絵本の読み聞かせをしてあげると子どもたちと約束していましたから」
「窮児院?」
耳慣れない言葉にセルティスは戸惑った。
「親がいない子どもたちを扶育している施設なんです。司祭様がお世話をされていて……」
聖教会が中心となってやっているあれか……とセルティスはようやく思い出した。確か、国からもかなりの補助金が出ていた筈だ。
「じゃあ、その窮児院まで馬車で送るよ。帰りは大丈夫かな?」
「はい」とシアは頷いた。
「近くで辻馬車が拾えますのでご心配なく。ではお言葉に甘えて、そうさせていただきますね」
シアの言う窮児院は中心街から馬車でおよそ四半刻離れた場所にあった。
元々教会のあった場所に建て増しをしていったらしく、敷地内はごちゃごちゃと建物が立ち並んでおり、中からは子どもたちの元気な明るい笑い声が響いていた。
「送って下さってありがとうございました」
馬車から降りて頭を下げるシアに、セルティスは笑って首を振った。
「いや、こんなに長い時間付き合ってくれて、礼を言うのはこちらの方だ」
「お礼など。こんな楽しい一日を過ごしたのは久しぶりでした」
晴れ晴れとシアは笑い、それからふと二人に尋ねかけた。
「ミダスの街にまた来られる事はあるのですか?」
「いや、こんな風にミダスを歩く機会はなかなかないと思う」
「そうなんですね」
では、これで本当のお別れだという事だ。
どこか寂しげなシアに、「でも」とセルティスは声をかけた。
「どこかでまた、君と会えたらいいな。ほら、生きていればいつか会えるかもしれないし。そうだろう?」
悪戯っぽくそう続けられて、シアはすぐにそれがさっき自分が言った言葉だと気付いたようだった。
「そうですね。きっと思いがけないところで再会するのかも」
今度こそ楽しそうにそう返し、真っ直ぐに二人を見つめてきた。
「ではまた、どこかで」
「ああ」
最後に小さく会釈し、シアはそのまま踵を返した。
うじうじと別れを惜しむような真似はせず、きっぱりとしたその後姿が実にシアらしい。
馬車に同乗させていたシアの侍女と護衛がケインらに深々と頭を下げ、それから足早に主人の後を追って行った。
遠ざかるシアの髪に初夏の陽射しが当たり、オレンジかかった明るいブラウンがきらきらと輝いて見える。
窓辺に座っていた茶トラを思い出し、セルティスは馬車の窓辺に行儀悪く肘をついたまま、ううむと考え込んだ。
「タヌキというより、やっぱり茶トラか」
それを横で聞いたケインは思わず、「タヌキ?」と聞き返した。
「もしかしてシア嬢の事ですか?」
「うん」
言うに事欠いて、タヌキとは何事だとケインは思う。
「……わざわざ動物に例えなくても、普通に可愛かったと思いますけどね」
ぱっちりとした大きなヘーゼルの瞳に、可愛い鼻と小っちゃな唇。目鼻立ちのバランスがすごく良くて、一目見て、あ、可愛いなと誰もが思ってしまうような女の子だった。
でもまあ、タヌキ云々(うんぬん)は別にして、シアは確かに小動物系だ。
「で、シア嬢がその茶トラに似ていると」
「うん。可愛いところがそっくりだった。毛色も同じだし」
「毛色? ああ、確かにシア嬢の髪の毛はブラウンでしたね」
「今まであんな可愛い子は見た事がない。まあ、引きこもり歴十二年の私が言う事じゃないけどさ」
「……もしかして初恋ですか?」
おそるおそる聞いてみれば、セルティスは即座に否定した。
「初恋は姉上だ。失恋は半年後だけど」
「へえ」
自分の姉妹に初恋を覚えるセルティスの感性がケインにはそもそも理解できないが、まあ、人それぞれである。
やんちゃで通してきたケインは、少々の事におおらかだった。
「で、因みに失恋ってどういう事です?」
何気なく聞いてみれば、何故か目を逸らされ、「聞くな」と苦虫を潰したような顔で答えられた。
何だろう。ごまかされると妙に知りたくなってしまうのだが。
それはともかくとして、セルティスがシア嬢にかなり気持ちを寄せている様子なのは気になった。
「あのシア嬢って、かなり身分が低そうなので、お相手には向かないと思いますけど」
一応そう進言すると、セルティスは呆れた顔でケインを見た。
「変な心配はするな。彼女は婚約者持ちだっただろ。
私は誠実な恋をするんだから、婚約者のいる女性は論外だ。どこぞのクソ親父と違って、きちんと分は弁えている」
「……。そのクソ親父が誰かは決して口にしないで下さい」
聞きたくないし、聞いてしまえば家が潰れる気がする。
ごとごとと馬車に揺られ、夕闇に染まり始めた街並みが後ろに流れていく様子を、セルティスは黙って見つめていた。
そうして城門が近付いてきた頃に、セルティスはぽつんとケインに言った。
「今日は連れ出してくれてありがとう。楽しかった」
「気晴らしになったようなら良かった」
ケインはそう言って笑い、
「でもこの先、当分お忍びはありませんよ。あんな大立回りをやらかしましたから、しばらく許可がおりないと思います」
ケインの言葉にセルティスは思わず顔を顰めた。
そしてため息混じりに呟く。
「追っかけっこはやりすぎたか……」
「まあ、お忍びは無理ですが、出掛けたいなら、うちにまた遊びに来ればいいじゃないですか」
ケインがそう声をかけてやると、セルティスは素直にうんと頷き、それから急にがばっと顔を上げた。
「そうだ! お前んちって猫いる?」
目をキラッとさせて聞かれたが、生憎、望む言葉は言ってやれない。
「うちは家族揃って犬派です」
ケインがきっぱりとそう答えれば、
「犬派なんだ……」
セルティスは、この世の終わりとばかりにがっくりと肩を落とした。
同じパターンの誤字を繰り返していたようで、申し訳ありませんでした。文章の流ればかリ確認していたので、今後は気をつけたいと思います。教えて下さってありがとうございました。また、ブックマークや評価を本当にありがとうございます。この場を借りてお礼申し上げます。活動報告へのコメントや感想はいつもワクワクしながら読ませていただいています。こんな風にお便りをいただける事が嬉しく、読む度に心がふんわりとなって、これからも頑張ろう! という気分になります。ありがとうございました。