皇弟はお忍びを満喫する
シアが連れて行ってくれたのは、値段がそう高くもなく、質もほどほどに良い、こじんまりとした帽子屋だった。
セルティスはシアの帽子を駄目にした事を気にしていたようで、店に入るなり、一番にシアの帽子を見繕ってくれるよう店員に頼み、それから自分の帽子を選び始めた。
探すのは、顔が半分くらい隠れるツバ広の帽子だ。
引きこもりだったセルティスは民に全く顔が知られておらず、そのまま出歩いても大丈夫だろうと軽く考えていたのだが、顔立ちが秀麗すぎるセルティスは思ったより人の注目を集めていた。
さすがにこれはまずいとセルティスも思ったようで、金を手にするなり、帽子を見繕う事にしたようだ。
ついでにケインにも買ってくれるというので、陽射しが眩しかったケインはその言葉に甘える事にした。
何と言ってもケインは今、無一文だ。付けがきくところならいいが、馴染みのないこうした店では手も足も出ない。
そこそこ顔が隠れるつば広のものを互いに選び、一方のシアは花飾りのついたピギーピンクのクロッシェが気に入ったようだ。
顔の小さい、愛くるしい顔立ちのシアに、それは大層似合っていた。
いよいよ清算となると、セルティスは精一杯慣れた風を装って、財布から紙幣を取り出していた。
どうやら初めてのお買い物が嬉しくて堪らないらしく、隠しきれない笑みが口元に浮かんでいる。
そんなセルティスを横目で見ながら、それにしてもこういう買い物の仕方を良く知っていたなとケインは思う。
これもきっとヴィア側妃の教育の賜物というやつに違いない。
皇族にこんな無駄な事を教える人間が他にいるとは思えないからだ。
そうして買い物を済ませた三人は真新しい帽子で市中散策を楽しみ、掌広場で念願の硬貨投げをした後、中央通りにあるサロンに向かった。
街中で小休憩をしたくなった時のために、ケインが手配をしていたところである。
因みにここで言うサロンとは、歌劇場内に作られた喫茶ホールの事である。
皇都ミダスには多くの歌劇場が建てられていて、毎夜のように歌劇が上演され、時には仮面舞踏会も催されていたが、日中に貴族らが立ち寄れるような飲食の場がなかった。
それを不便に思ったある貴族が歌劇場側に要望し、社交場となっていたホールを午後に開放してもらったところ、富裕層の間で瞬く間に人気となり、『サロン』という名で皇都ミダスに定着した。
サロンは利用者の身分は問わないが、利用料金は目が飛び出るほどに高額である。畢竟、財がある者しか利用できなかった。
さて、話は再びケインに戻るが、実は今回のお忍びに出掛ける前、ケインはアモン副官から注意を受けていた。
外出の際は水嚢を携帯し、決して変なものを皇弟殿下の口に入れないようにと。
屋台での買い食いも禁止すると言われ、その時は言われた意味がわからなかったが(屋台とか買い食いという言葉自体がケインの理解の範疇を超えていた)、部屋に戻って許可が下りたとセルティスに伝えた途端、「屋台で買い食いしようよ!」と返す言葉で言われ、副官の懸念をようやく理解した。
ということで、毒殺を恐れるアモン副官の心配は十分理解できたが、初めてのお出かけの飲食が水嚢の水というのではあまりにショボいとケインは思った。
だからそこは副官に交渉した。中央通りのテビア歌劇場のサロンに行ってはいけませんか? と。
テビア劇場は歌劇場の中でも特に格式が高く、ケインは二度ほど両親に連れられて行った事がある。
そのサロンは庭園にかなりのこだわりがあり、段差を作ったところに水を引いて、見事な布落ちの滝を作っていた。
景観料も入っているのか利用料金はかなり高額だが、その分いろいろと便宜を図ってもらえる。
あそこならば、客という形で騎士を配置してもらうのも可能だし、カルセウスの名前を出せば、毒見の済んだものを出してもらう事もできるだろう。
という事で、副官との交渉の末に許可をもぎ取ると、今度はセルティスの説得だった。
屋台にこだわるセルティスに、「いい事を教えてあげましょうか」とケインは言ってみた。
「実は皇帝陛下は、サロンに行かれた事がないんです」
皇帝陛下は皇子時代、観劇には何度か訪れていたようだが、サロンが貴族の間に定着したのはここ二、三年の話だ。
ちょうど皇位継承争いが激しくなり始めた頃で、アレク殿下にはサロンを楽しむような余裕はなく、皇位に就かれてからはひたすら国のために専心されていて、私的な外出は一切されていなかった。
「兄上が行った事がない?」
瞠目するセルティスに、
「はい。確かな情報です」
「あの兄上が行った事がないところに行く……」
ケインの見るところ、セルティスは姉上大好きっ子であると同時に、兄上大好きっ子でもある。
父帝からの愛情を知らずに育ったセルティスは、絶対的な力で自分を庇護してくれた兄君を心から慕っており、かつその人柄を強く尊敬していた。
その憧れの兄上も行った事がないサロンに自分が先に行けると聞いて、心が動かない筈はなかった。
「行ってみたいと思いません?」
「行くっ!!」
意外とチョロいセルティスであった。
そうして掌広場から徒歩でテビア歌劇場を訪れた三人は、予約していた窓際の端の席にすんなり通された。
ホールの中で一番人気なのは広大な庭園が一望できる窓際の席で、警護の観点からケインは一番端のテーブルを押さえていた。
因みに窓際席はどのテーブルも半円形で、どこの席に座っても戸外の景色が楽しめるようになっている。
初めて目にする滝にシアは目を輝かせ、セルティスも皇宮とは違う庭園の佇まいにとても満足そうだ。
ケインは一番安全な奥の席にセルティスを誘導し、真ん中にシアを座らせ、シアを挟む形で自分も着席した。
好みのケーキと紅茶をそれぞれに注文し、改めてケインが周囲を見渡せば、サロン内は結構埋まっていて、着飾った多くの貴婦人たちが優雅にお茶を楽しんでいた。
家族連れや、明らかにデートと思われるカップルもいないではないが、その大半は女性ばかりのグループである。
そんな中、自分たちの席からさほど遠くない場所に、筋骨隆々の強面二人が向かい合ってお茶を飲んでいるのを見つけ、ケインは思わず、んん? と二度見してしまった。
いや、男二人で来るのがいけないと言う訳ではない。
自分とセルティスだって二人でここに来る予定だったし、男二人で来たって悪くはないのだが、あの二人に関して言えば、何と言うか非常に悪目立ちしていた。
まず、顔が怖い。一人は三白眼で、一人は妙に迫力がある。おそらくアントーレの護衛騎士だろうが、一目でわかる人選ミスだった。
二人も自分たちがこの場で浮いている事がわかるのだろう。
厳つい顔がいよいよ仏頂面になり、しかも注目を引いている恥ずかしさから耳まで赤くなっており、無言でお茶をすする姿は最悪だった。
まるで二人して恥じらっているようにも見え、もはや目の暴力のようになっている。
ケインは速攻で他人の振りをする事に決めた。実際他人である訳だし。
が、二人に関わるまいとするケインの努力も虚しく、隣の席のご婦人方が彼らについてひそひそと話を始めてしまった。
「ねえ奥様、ご覧になって。あのお二人、耳をあんなに赤くされて」
「初めてのデートかしら。とても初々しい事」
「どちらがここに誘ったのでしょうね。まあまあ、あんなに恥ずかしがって」
ここでさざめくような笑いが起こる。
ケインは無視したかったが、妙に通る声で、どうしても会話の方に耳がいってしまう。
シアも気になり始めたのか、さりげない仕草でちらりと後ろを向き、一瞬固まった後、ものすごい勢いで顔を戻した。
初々しい男女二人がデートを楽しんでいると思いきや、そこにいたのは顔を赤らめた筋肉ダルマ二人組である。
そりゃあ、混乱もするだろう。
「それにしても精悍な体つきの方です事」
「あら、嫌だ、奥様ったら」
「そう言えば確かな筋から聞いたのですけれど、騎士団の中は男性ばかりなので、そういう方たちが多いのだそうでしてよ」
「まあっ本当ですの!」
きゃあっという嬉しそうな小さな悲鳴が上がり、確かな筋ってどこよ……とケインは死んだ目で心に呟いた。ケインの知る限り、アントーレにそんな奴はいない。
一方のセルティスは、シアが振り向いた先を目で追って例の二人組に気付き、すぐに自分の護衛騎士だと思い至ったようだった。
お前の差し金? という目でちらりとケインを見てきたので、ケインは軽く肩を竦めた。
バレちゃったものは、まあ仕方がない。
セルティスはシアに向き直った。
「シア。言っとくけど、私がケインと街を歩いていたのは、単純に散策を楽しみたかっただけだからね。
私たちは同じ騎士学校に通っているけど、彼らと違ってああいう男同士の趣味はないから」
いや、彼らだって間違いなくないだろう!
シアの誤解をわざと定着させたセルティスは間違いなく確信犯である。
さてシアの方は、ちょっとひきつった笑顔で頷くにとどめた。
そして、賢明に危険な話題から遠ざかる事に決めたようだ。
「騎士学校という事は、やっぱりお父様は貴族でいらっしゃるのね」と、話題を変えてきた。
こうした時のために地方貴族の次男坊という設定を作ってきたセルティスであったが、設定通りの答えを返すのを何故か躊躇った。
ちょっと間を開けた後に、
「私は爵位なしの次男坊。家の手伝いをする予定なんだ」
まあ、嘘ではない。
セルティスの肩書は皇弟殿下なので爵位は持っていないし、皇家のために尽くす事がお仕事である。
因みにセルティスの子供までが皇族だった。
そこから先の子孫に関しては、男児であれば成人の時に爵位と領地を持たされるであろう。
アンシェーゼは貴族の数が半端なく多いので、不正をして取り潰される家もちょくちょくある。そうして取り上げられた領地は皇家の直轄領となり、いずれ皇族が家名を頂く時にその中のどれかを渡される事となっていた。
返事を聞いたシアは、セルティスが地方貴族の次男だと何の疑いも持たずに思い込んだようだった。
「そう。家の手伝いも大変ですよね」と頷いている。
「ところでシアは? もしかしてどこかの豪商の娘だったりする?」
セルティスがそう問えば、
「いいえ。一応貴族の娘ですわ。家格は低いけど、お金だけはたくさんあって……、そんな家なんです」
「そう言えば不思議だったんだけど、コルネッティ商会には馴染みがあるようなのに、こういったサロンには来た事がないのかな?」
疑問に思っていた事をケインが口にすれば、問われたシアはともかく、セルティスにはその問いの意味がわからなかったのだろう。
「コルネッティ商会?」と呟いて眉宇を寄せた。
なのでケインは説明した。
「有名な服専門店だ。流行の中心になっていて、コルネッティのドレスを纏うのは一種のステイタスだと聞いている。
一番有名なのがパーネ嬢というデザイナーで、今注文しても、取りかかってもらえるのは一年先らしいよ」
「その通りですわ」と、シアも頷き、
「亡き皇太后陛下は、夜会ドレスや乗馬服のほとんどをコルネッティで仕立てておられたと店の者が自慢げに言っておりましたわ。
わたくしはさすがにパーネ嬢のものは買った事はありませんけど、年に一度くらいはコルネッティでドレスを仕立てています」
「それはすごいね」
パーネ嬢のデザインでなくても、コルネッティでドレスを仕立てられるだけでも大したものである。
ケインは純粋な称賛を込めてそう言ったのだが、シアは少し顔を暗くした。
「本当は、わたくしはそれほどコルネッティに興味はないんです。
流行もある程度大事ですが、ブランドにこだわらずに自分に合うドレスを着る方が好きなので。
でも、コルネッティのドレスでないと金を惜しんでいると両親を悪く言われた事があるんです。
だから皇都に来た時は、なるべくコルネッティに寄るようにしているのですわ」
「……誰がそんな事を?」
セルティスの問いにシアは一瞬言い淀んだが、「わたくしの周辺はみんな知ってるから、きっと言っても構いませんわね」と自分に言い聞かせるように呟いた。
そしてセルティスの目を真っ直ぐに見つめて言った。
「わたくしの婚約者です」