皇弟は茶トラを見つける
財布を盗んだ子どもの方は、すぐに自分が追いかけられていると気付いたらしい。
体の小ささを活かしてちょこまかと通行人らの間をすり抜けていったが、それを言えばセルティスの方も負けていなかった。
しなやかな身のこなしで人の間を駆けて行き、後を追うケインはついていくので精いっぱいだ。
埒が明かないと思ったのだろう。子どもは狭く薄暗い路地へと逃げ入り、セルティスもまた迷わずその後を追っていく。
うわぁ、止せ……! と、追っかけていたケインは心の中で悲鳴を上げた。
この先はきっと迷路のようになっている。こんなところでセルティスの姿を見失ったら、もう取り返しがつかない。
日の当たらない狭い路地は先日の雨が完全に乾き切っておらず、ぬかるんだ土に時々足をとられそうになった。
所々に水たまりも残っていて、走りにくいことこの上ない。
それでも、護衛騎士たちの力強い足音が後ろからだんだん近づいてくるのがわかり、これで一緒に追ってもらえるとケインは安堵した。
が、ほっとしたのも束の間だった。
ぬおお? という間抜けな声がして思わず後ろを振り返れば、先頭を走っていた屈強な騎士が足を滑らせて大きくつんのめり、仲間を道連れに盛大にすっ転ぶところだった。
巻き込まれた騎士の方は受け身も取れずに顔からぬかるみに突っ込んで、ケインは顔をひきつらせたが、悲劇はそれだけでは終わらない。
後続の騎士たちがその二人につまづいて次々と折り重なり、避けようとした最後の男が飛び越えようとして誰かの頭に足を引っかけ(ちょうど頭をもたげたその騎士は、蹴飛ばされて再び水たまりに沈んだ)、そのせいでバランスを崩して水たまりに大きくダイブした。
すっぽーんと何かが飛んでいったが、それが何かを目で追う余裕はケインにはない。
後続部隊全滅……。あり得ないだろ! とケインはやけくそになってセルティスを追っかけた。
ここまで追い詰められたのは、人生初めてである。
セルティスの走りは快調だった。
毎日の鍛錬で鍛えているだけあって、距離を走ってもセルティスの速度は全く落ちず、いっそ転んでくれ! と皇族の不幸を心から望んでしまったケインであった。
が、願いに反してセルティスは軽やかに走り続け、子どもとの距離は徐々に狭まりつつあった。
子どもは焦ったように何度も後ろを振り返っては路地を右へ左へと曲がり、何とか追手を振り切ろうとしたが、逃げ切れずに再び大通りへと出てしまった。
そうなれば、歩幅の長いセルティスの方に利がある。
あと数歩で手が届く距離となり、セルティスが最後の追い込みをかけた時だった。
前方から、侍女と護衛らしき男を従えた身なりのいい少女が歩いてくるのを見て取った子どもはそちらの方へ向きを変え、すれ違いざま、その少女を思いっきり突き飛ばしたのである。
「きゃあっ」
バランスを崩した少女が、受け身もとれずに石畳に叩きつけられそうになるのを、間一髪、セルティスが膝を落としてその腕に掬い上げる。
走ってきた勢いを止めきれず、舗道に片膝をつく形とはなったが、無様に転ぶ事はせず、腕の中の少女を守り切った。
「お嬢様ッ!」
「おい、レイッ!」
真っ青になって駆け寄る護衛の声と、ようやく追いついたケインがセルティスの名を呼ぶのが同時だった。
セルティスは荒い息のまま、片膝をついて少女を抱きかかえていた。
突き飛ばされた衝撃で、花飾りのついた少女の白い帽子は路肩に飛ばされ、少女は怯えたようにセルティスの腕の中に顔を埋めていた。
肩で喘ぐように大きな息をついているが、どうやら怪我はないようだ。
「君……、大丈夫?」
ややあってセルティスがそう声をかけると、腕の中でぎゅうっと身を縮めていた少女はゆっくりと体の力を抜き、自分を覗き込むセルティスの顔を見上げ……、彫像のようにぴきんと凍り付いた。
あっ石化した……と、隣で見ていたケインは思った。
何と言ってもセルティスは人並外れた美形である。何の心の準備もなく、いきなり間近で見たらそりゃあ思考も停止するだろう。
その時、少女の目にまず飛び込んできたのは、ぱっちりとした二重の瞳だった。
睫毛は濃く長く、深みの増した琥珀色はまるで吸い込まれるように美しく、顔の輪郭もすっと通った鼻梁も気品ある口元も、すべてが完璧に調和して非の打ちどころがない。
ここまできれいだと、頬を染める段階は軽くすっ飛ばして、人間は言葉を失ってしまうものらしい。
まるで物語に出てくる皇子様のよう……と少女は心に呟いたが、まさしく本物の皇子様で間違いはなかった。
一方のセルティスはと言えば、こぼれんばかりに目を大きく見開いて自分を見ている少女が何かに似ていると気付き、何だっただろうと考え込んでいた。
確かちょっと前に見た動物図鑑の……。
何だっけ?
……?
…………。
………………っ!
あっタヌキだ!
……失礼極まりない男である。
でもまあ、よくよく見れば、タヌキというより猫かもしれないとセルティスは思い返した。
というか、この目の色、飼っていた茶トラとまるっきり同じだった。琥珀に近いような薄茶色の瞳で、よくよく見れば毛色(注:髪の毛)も同じだ。
茶トラもオレンジがかったきれいなブラウンの毛色をしていた。目が大きくて鼻と口が小っちゃくて、どこか構いたくなるような愛らしさがあって、まさに茶トラである。
「あの……」
腕の中の少女がもぞもぞと動いたので、セルティスは仕方なしに腕の中から出してやる事にした。
柔らかな温もりが腕の中から消えて、残念感が半端ない。
「助けていただいてありがとうございました」
身を起こした少女が改めて礼を口にすると、少女の傍らに控えていた護衛も土下座せんばかりの勢いでセルティスに何度も礼を言ってきた。
「あのままでは、お嬢様が怪我をされるところでした。
よろしければ、お名前を教えていただけませんでしょうか。当主の方から改めて礼をさせていただきます」
セルティスはいや……と首を振った。
「そもそも私があの子どもを追いかけていたせいで、そちらを巻き込んでしまったんだ。
礼を言われるような事じゃない」
少女は居住まいを正し、改めてセルティスを仰いだ。
守ってやりたくなるような小動物系の容姿をしているのに、物腰やしぐさの一つ一つが美しく、どこの令嬢だ? とセルティスは内心首を傾げた。
その身なりから裕福な家の娘だとは知れるが、大貴族の娘でないことは確かだった。大きい通りとはいえ、侍女と護衛一人だけで通りを歩かせるなど考えられない。
「そう言えば、何故追いかけていらしたのですか?」
そう問われて、セルティスは「ちょっとしたトラブルに見舞われてね」と苦笑した。
そして軽くケインの肩を小突くと、何やら後ろを見ていたケインが慌てて少女の方に向き直る。
「えっと、私が財布をすられたんだ。それで友人が追いかけてくれて」
「財布を……」
少女は軽く眉宇を寄せ、
「では、わたくしのせいで逃げられてしまったのですね。申し訳ありません」
「いや、金の方は何とかなるし、油断していた私が悪かったんだ」
それよりも……とケインは困ったように辺りを見渡した。
全く見覚えのない風景が辺りに広がっている。これはあれだ。巷で言う、迷子というやつだろう。
セルティスも同じように思ったのか、「どこだ、ここ……」と今更のように呟いている。
「ったく、場所も知らないのに勝手に走るなよ。危うく見失うかと思ったぞ」
取り敢えず、無茶をやらかした皇弟殿下にタメ口で苦言を呈しておいた。地方貴族の息子同士という設定なので、ここで敬語は使えない。
それにしてもひどい目に遭ったとケインは心に呟いた。
もっとも、一番の被害者はケインではなく護衛騎士らであろう。勢いよく走っていただけに、一人が転ぶと、団子状になってみんな転がっていた。
あれから無事後を追ってこられただろうかと心配になり、セルティスと少女が二人で見つめ合っている間にさりげなく後ろを振り返ったら、泥にまみれ、ぜいぜいと息を切らした厳つい男たちが路地から縦に三つ顔を並べていて、そのシュールな光景にケインは正直、度肝を抜かれた。
声を出さなかった自分を褒めてやりたい。
余りに怪しさ全開なので、セルティスたちから見えないように、ケインはそっと体をずらした。
「悪かったよ。つい体が動いちゃって」
そんなセルティスたちを見ていた少女が、ちょっと躊躇った末に口を開いた。
「あの、有り金をすられてお困りなら、少しは用立てる事もできますわ。
怪我をするところを助けていただいたのですもの。
どうかお礼をさせていただけませんか」
セルティスはちょっと考え込んだ。
「お金より、ここがどこなのか教えてもらっていい?
行きたいところがあるんだけど、完全に道に迷ってしまって」
「勿論ですわ」
少女はにっこりと微笑み、
「で、どちらへお行きになりたいのですか?」
「両替商」
「………」
少女の笑顔が引きつった。
「……えっとつまり、何かを売ってお金に換えたいという事でよろしいのですね」
「そうなんだ。どこかいいところを知っているかなあ」
よほど金に困っていると今、誤解されたぞ……とケインは心の中でため息をついた。
片方は現金を持たずに両替商頼み、片方は有り金すべてをすられて無一文。この二人が皇族と高位の貴族だなんて、この少女はきっと思いもつかないだろう。
「中心街にあるお店なら信用が置けると思いますわ。
わたくしは入った事はないのですけれど、よろしければご案内しましょうか」
少女の言葉に、「えっ、いいの?」とセルティスは顔を輝かせた。
「でも、何か用があったんじゃないの?」
「中心街にあるコルネッティ商会をちょっと覗いて、あともう一ヶ所、行く予定のところはあるのですが。
でもどちらも約束している訳ではありませんし、時間ならいくらでもありますわ」
それを聞いたケインは、コルネッティ商会ねえ……と心に呟いた。
セルティスはぴんと来ていないようだが、ケインの母が「あそこのパーネ嬢の新作が一着欲しいわ」とよく言っていたから、名前だけは知っている。
オーダーメイドの個性的なドレスを専門に扱っている店で、特に看板デザイナーのパーネ嬢が仕立てるドレスは目が飛び出るほどに高かった。
金に飽かせて流行のドレスを漁るようなタイプに見えないのに意外だなと、内心首を捻っているケインには気付かず、セルティスの方は「じゃあ、言葉に甘えてしまって構わないかな」と口元を綻ばせている。
「他にも行きたいところがあれば、ご案内しますけれど」
「本当に?」
セルティスは嬉しそうにそう答え、「ケインも構わないか?」と聞いてくるので、ケインは「ああ」と頷いた。
どうやらセルティスは、この少女がすっかり気に入ったようだった。初対面の人間には少し構えるセルティスが、この少女に対しては自然体で話をしている。
「私はレイだ。家名はちょっと言えないんだけど、こっちは友人のケイン」
セルティスやケインのいで立ちから、どうやら地方に領地を持つ、さほど裕福ではない貴族の子弟だと少女は思ったようだ。
それ以上事情に立ち入ろうとはせず、「わたくしはオルテンシアですわ」と自己紹介し、「どうぞシアと呼んで下さい」と言ってくれた。
それから三人は、話をしながら仲良く大通りを歩いて行ったが、ケインはセルティスの護衛がどうなっているかが気になっていた。
泥にまみれていた筈だが、きちんと警護してくれているのだろうか。
そうして何気なく通りの向こう側に視線を走らせれば、まだ若い黒々とした髪の男が杖をついて歩いているのがふと目に入った。
若いのに足が悪いんだとそのまま視線を外そうとして、右半身が広範囲に泥で汚れているのに気付き、もしかして……と思い至った。
そう言えばあの風体には見覚えがある。ぼさぼさの白髪頭で顔を隠していた例の杖男だ。
きれいな放物線を描いて飛んでいった物体、あー、あれって変装用のカツラだったんだ、なるほどね! と、ケインは心に呟いた。
謎が解けてすっきりである。
そうこうするうちにシアお勧めの両替商に着き、いよいよセルティスの本領発揮である。
セルティスが例のブローチを見せると、三人はすぐに奥の小部屋に通されて値段交渉が始まった。
シアが物珍しそうにその光景を眺める中、セルティスは物怖じする事なく、両替商の主人と渡り合っていく。
結局、三百十カペーで折り合いがつき、予定通りの軍資金を手に入れたセルティスはほくほくである。
「すごい交渉力ね」とシアにも感心され、セルティスはどうだ!という顔でケインを見てきた。
皇族にこの能力は必要だろうかという問題はさておき、こういうセルティスの姿を見ても全く引かないシアの姿に、ケインはむしろ感心した。
ケインが知る貴族令嬢なら、百人が百人ともドン引きしているだろう。
「次はどこに行きましょうか?」
と朗らかに尋ねてくるシアに、セルティスがちょっと眩しそうに戸外を目をやった。
「まずは帽子屋かな。思ったより日差しが強いから、つばが広いやつを買いたいんだ。後、掌広場にも行ってみたい」
「じゃあ、お勧めの帽子屋に案内しますね」
気の合う連れを見つけて、セルティスはとても楽しそうだ。
護衛たちにとってはとんだ災難だったが、こういう街歩きも悪くないよなと、笑みを弾ませるセルティスを見ながら、ケインはそう心に呟いた。
「仮初め寵妃のプライド 皇宮に咲く花は未来を希う」のキャラクターデザインをメゾン文庫さまのTwitterで公開しています。セルティス君もいます。きゅんとなるような美少年でした。よろしければご覧ください。