皇弟は側近とお忍びに出かける
さてお忍び当日、ちょっと安っぽい衣装と偽の許可証を偽造してもらい、地方から出てきた小貴族の子弟風に化けたセルティスはそりゃあもうご機嫌だった。
何でもセルティスの大好きなヴィア殿下が、皇女時代お忍びで皇都ミダスを歩いていたらしく(きっとこれも国家機密に違いないとケインは思った)、その姉上と同じ経験ができるという事が嬉しくて堪らないようだ。
「今日はセルティスじゃなくて、レイと呼んでくれ」とセルティスが言うので、ケインは「そうします」と素直に頷いた。
因みに、レイはセルティスのセカンドネームである。
ケインは、ケイン・リュセ・カルセウスが正式の名前だが、ケインはアンシェーゼではごくありふれた名前なので、わざわざ呼び方を変える必要はないだろう。
そうやってちょっと古びた二頭立ての馬車に用意してもらい、アントーレの城塞から外に出た二人である。
ケインは幼い頃からミダスの中心地にはよく遊びに行っていたのでこうしたお出かけは珍しくも何ともなかったが(でも、こんなにボロい馬車に乗るのは初めてだった)、セルティスは城外に出るというだけで大興奮だった。
物珍しそうに、ずっと馬車の外の景色を目で追っている。
因みに城の外に出るのが初めてという訳ではない。初めてのお出かけはケインの家で、その時も興奮していたが、生憎あの日は雨で窓ガラスが濡れ、かなり視界が悪かった。
ガラス越しの街の様子を一心不乱に見つめているセルティスを見ながら、取り敢えず元気になってくれてよかったとケインは胸を撫で下ろす。
お忍びが決まってからはようやく笑顔を見せてくれるようになり、姉君と会えなくなった哀しみも少しずつ薄らいでいるように見えるセルティスである。
乗り越えるまでにはまだ時間もかかるだろうが、笑えるようになっただけで今は十分だとケインは思った。
「あっ猫だ」
かじりつくように外を見ていたセルティスが嬉しそうに声を上げ、ケインがその方を見れば、小さな黒猫が通りの向こう側へとすばしっこく駆けて行くところだった。
「本当だ……って言うか、猫わかるんですね」
思わずそう言ってしまったのは、セルティスが思う以上に世間知らずである事をケインは知っていたからだ。
頭もよく、知識欲の旺盛なセルティスは引きこもり時代に様々な本を読破していて、その莫大な知識量はケインも舌を巻くほどだったが、逆に子どもでも知っているような常識的な事がぽっかりと抜けていた。(何と言ってもハゲも知らなかった)
馬もアントーレに来て初めて目にしたようだし、狩りのために飼われている猟犬を初めて見た時も、これが犬かと目を丸くしていた。
動物について自分が無知だと知ったセルティスは、半年くらい前に動物図鑑なるものを取り寄せて熱心に見入っていたが、その図鑑に猫が載っていたのだろうか?
「私だって猫くらい知っている」
セルティスの言葉にケインはちょっと首を傾げた。
「アントーレに猫なんていましたっけ?」
「アントーレでは見た事がない。そうじゃなくて、昔、私が飼ってたんだ」
「飼ってた? えっ? まさか紫玉宮でですか?」
「うん」とセルティスは頷いた。
「ほら私って、生まれてからずっと宮殿の一角に閉じ込められていただろ?
姉上や侍女頭の子どもたちがいたから遊び相手には困らなかったけど、閉じ込められっぱなしでいい加減うんざりしててさ。
外に出してもらえるまでご飯を食べない! ってごねまくっていたら、姉上が市中で茶トラ猫を拾ってこっそり連れ帰ってくれたんだ」
「ああ……、なるほど」
ヴィア殿下が市中で猫を拾ってきたという件にはいろいろと物申したい気分になったが、それはともかくとして、そりゃあずっと閉じ込められっぱなしだったら誰でも嫌になるよなとケインは素直にそう思った。
紫玉宮での生活をそれとなく聞いた事はあるが、セルティスは内庭に面した広々とした一角を居住空間として与えられ、自由に出入りできたのは、ツィティー妃とヴィア皇女、そしてツィティー妃が心を許していた数人の使用人たちだけだったという。
庭師やら下級侍女らが居住空間に入ってくる時はひたすら寝込んだ振りをしてやり過ごし、家庭教師らが来ると聞けば、染め粉で唇や爪の色を悪くして体調不良を装っていたというから、その努力はなかなか涙ぐましいものがある。
そんな事をケインがつらつらと考えていれば、セルティスの方は幼い頃の事を思い出したか、「茶トラが紫玉宮に来て、世界がぱあっと明るくなった気がしたなあ」と懐かしそうに呟いていた。
「そんなに可愛かったんですか?」
「うん。毛色は明るいオレンジブラウンで、それより濃い色の縞模様が入っていた。琥珀っぽい薄茶色の目はぱっちりと大きくて、そりゃあもう、最高に可愛かった。私の茶トラだから、小さい間は私が毎日ミルクを飲ませてやって、大きくなってからも茶トラの餌やり係はずっと私だった。
基本的に人懐っこい性格だから、誰にでもすぐお腹を見せていたけど、茶トラが一番懐いていたのは私でさ。私が本を読んでいると肘に顔をすり寄せてきたり、私が歩くと後をついてきたりするんだ。
おやつの時間になったらちゃっかり膝の上に乗って来るんだけど、あいつは爪を持ってるから、そのまま乗っかられると爪が食い込んで痛いんだよね。だから夏場でもひざ掛けが手放せなかった。
で、一番困ったのが夜だったんだ。私がぐっすり寝入っていると胸の上に乗っかってくるから、息苦しくて目が覚めてしまうんだ。まったくなんでわざわざ胸の上に乗ってくるかなあ。夜はゆっくり眠りたいし、扉の外に追っ払ったら、今度は中に入れてもらおうと、カリカリカリカリ爪で扉を引っ掻くんだ。おまけに甘えるように扉の向こうから鳴いてくるから、気になって眠れやしない。結局、中に入れてやって、一緒に寝てたんだけど」
ちょっと迷惑げに言っているが、言葉の端々から猫愛が滲み出ている。とにかくその茶トラ猫をセルティスがものすごく可愛がっていた事だけはわかった。
「随分甘えん坊の茶トラ猫だったんですね。で、何て名前だったんです?」
「だから“茶トラ”」
「…………」
まんまかよ、とケインは心の中で突っ込んだ。猫愛に対して命名が雑過ぎ……と思ったが、まあ、本人の嗜好の問題だ。“ネコ”と名付けるより幾分ましだろう。
そうこうお喋りしている内に、やがて馬車はとあるところで止まった。
セルティスが行きたがっていた掌広場(正式名称はセス・モンテニ広場)である。
始祖帝が死闘を繰り広げた地名がつけられた由緒ある広場の筈が、ここまでチープな名前に変わり果てていたなど、幼い頃から自国の歴史に親しんできたケインには思いもつかぬ事だった。
因みに隣にいる子孫の方は、「おおっ。ここが掌広場か!」と純粋に感動している。正式名称で呼んでやれよと思わぬでもないケインである。
さて、広場の一角の馬車止めで下ろしてもらった二人は、物珍しげに辺りを見渡した。
広々とした広場中央には、人々に時間を知らせる高い鐘楼が建てられていて、その横の大きな噴水中央には始祖帝の銅像がデーンと置かれている。
広場には様々な露店が所狭しと並んでいて、行き交う人々が引きも切らず、大層賑わっていた。
「すごい活気だな」とセルティスは興奮気ぎみに辺りを眺め渡し、一方のケインは護衛騎士たちはどこら辺にいるのだろうとさりげなく辺りを窺った。
旅人の格好をしたやけにガタイのいいあの二人組とか、広場のベンチに暇そうに腰かけている傭兵っぽい男達とかが、どうやらそれらしい気がする。
杖をつき、ぼさぼさの白髪頭で顔を隠している老人風のあの男も、剣をとらせたら意外と俊敏そうだ。
とはいえ、普通に二人で街を散策するだけだから、彼らの手を煩わせる事はないだろうとケイン自身はふんでいる。
取り敢えず、手練れの騎士が傍にいてくれれば、何かあった時に安心だというだけだ。
「ケイン、あそこを見てみろよ。例の硬貨投げをやっているぞ」
セルティスがわくわくと肩を小突いてきて、ケインは慌ててその方を振り向いた。見れば一人の男が後ろ向きになり、噴水に向かって硬貨を投げている。
セルティスが言うには、後ろ向きに硬貨を投げ、その硬貨が始祖帝の掌にうまく乗っかれば願い事が叶うのだそうだ。
居合わせた男たちが、「お兄ちゃん、もっと右に投げろ」だの、「もうちょっと距離がいるぞ」だのと声をかけてやっていて、大層楽しそうである。
「レイもやりたいんですか?」と聞いてみると、
「勿論やりたいに決まっている!」とセルティスは即答した。
「ケインもするだろ?」と言ってきたので、ケインはうーんと考え込んだ。
畏れ多くも始祖帝の銅像に尻を向けて小銭を投げるなんて、不敬罪に当たらないだろうか。
でもまあ、皇族のセルティスが気にしないなら、やっちゃって構わないのかもしれない。
「それより先に換金かな。せっかくなら自分のお金でやりたいし」
そう言ってセルティスは辺りを見回した。両替商の看板を探しているのだろう。
「ところで、何を持ってきたんです?」
出掛ける前、セルティスが胸の隠しに何やらごそごそと突っ込んでいたのを、ケインは目の端に捉えていた。
「母上が持っておられたブローチだ。翠石が嵌め込まれていて、多分、三百カペーくらいで売れると思う」
「えっ? 相場まで知ってるんですか?」
さすがにケインはびっくりした。
それに対しセルティスは、「姉上から基本的な知識は仕入れている」と何でもない事のように答え、ヴィア殿下って一体何者!? という素朴な疑問がケインの頭をよぎった。
でも、言葉に出して聞く事はしない。そこを突き詰めると、国家機密に行き着くような気がしたからだ。
「最低で二百八十、うまくぼったくれば三百十くらいかな」
ぼったくる……。日常会話でこの言葉を使う人間を初めて見たぞとケインは思わず遠い目をした。少なくとも、今までケインの周囲にはいなかった。
それにしても、知れば知るほどこの皇子様は奥が深い。
皇宮の外の世界を全く知らないセルティスを自分が庇うつもりで街に出て来たが、度胸はあるし、頭の回転は速いし、庶民っぽさが妙に板についているし、意外とセルティスの方が自分よりしっかりしているのかもしれない。
これでいくと、初めての換金も難なくこなしてくれそうだ。
……などとそんな他所事に浸っていたのが悪かったのかもしれない。
急にどんっと小さな子どもにぶつかられて、ケインは二、三歩たたらを踏んだ。
よろけそうになったケインの腕を、「大丈夫か」と掴んできたセルティスは、そのまま謝りもせずに駆け去って行く子どもの姿にふと眉根を寄せた。
「財布は盗られてないよな?」とケインに確認してきて、ケインが慌てて隠しを探ると、先ほどまであった財布がない。
そこから先の展開は想定外だった。
ケインの顔色を見たセルティスが、「おい、待て!」と身を翻して子どもを追いかけていき、ケインは、お前こそ待て! と慌ててその後姿を追う。
財布が盗られてもカルセウス家は潰れないが、皇位継承者に怪我を負わせたら責任問題だ。
「セル……じゃないっ、レイ、止まれッ!」
通りの向こう側でも、護衛の騎士らしき男たちが慌てふためいて全力疾走を始めていた。
ちらりと横目で見た限りでは、ガタイのいい二人組の旅人も、広場のベンチに腰かけていた傭兵風の男達も、白髪に杖をついていた老人風の男も形振り構わず追っかけっこに参加していた。
因みに、捕獲対象は財布を盗んだ子どもではない。土地勘もないくせに闇雲に走り出した自国の皇弟殿下である。