ダリアの咲く庭で 2
その後ウルク様の体調が良くなる事はなく、翌年の五月に身罷られた。
ダキアーノ家は喪中に入り、アント様の婚姻に関する諸々の行事はすべて延期となった。
ジョンの心にはぽっかりと大きな空洞が空いてしまった。
ウルク様は決して寛容な主ではなく、小さい頃からお仕えしているジョンでさえ非常に悩まされる事が多かった。
それでもウルク様はダレイシア様が残された唯一の若君で、ウルク様が幼い頃は、亡き母君を恋しがって泣くウルク様をジョンが何度となくお慰めした。
係累のいないジョンにとっては唯一絆を感じられる存在だった。
ジョンも本当は自分自身の家族を持ちたかった。
ただ、使用人が所帯を持つには主の許可が必要で、ウルク様はそれを最後までお認めにならなかった。
ジョンが世帯を構え、仕事がおろそかになるのを恐れたのだろう。
ダレイシア様との約束を果たし、これでジョンを縛る柵は無くなったが、同時に何を縁に生きていいのかもわからなくなった。
ダキアーノ家に来てからすでに五十年近くが過ぎ、妻もおらず、子もいない。
不遇の時代に無給でウルク様を支えたため、金も僅かばかりしか貯まっていなかった。
ジョンの唯一の楽しみは、庭園でダリアを育てる事だ。
幸い、ラヴィエ家との婚約が整ってから、給金はきちんと支払われるようになっている。
贅沢をせずにあと十年ここで頑張れば、老後に長屋を借りるだけの金も貯まるだろう。
そうやってジョンが衰え始めた体に鞭打って懸命に働いていた時、ラヴィエ家の援助のお陰で人並みの生活を送れるようになっていたアント様が馬鹿をやらかした。
オルテンシア様の家柄の低さに不満を抱いていたアント様が、長年の婚約を一方的に解消し、カリアリ卿の姪であるリリアーナ・レオン嬢と婚約すると大々的に発表したのだ。
そこからは転落の道まっしぐらだった。
アント様はラヴィエ家の寄り親であるカリアリ卿の力を借りて、そのままオルテンシア様を踏み躙る気満々でいた。
ところがこの問題に、カリアリ家より更に高位の貴族が介入してきたのである。
聞くところによると、オルテンシア様は軍食である乾パンの改良を手掛けておられ、それが皇国の上層部の耳に入り、皇后陛下の侍女に取り立てられるという話が急浮上したのだと言う。
皇后陛下のお傍近くに侍るとなれば、当然、厳格な身上調査が行われる。
そこで詳らかにされたのが、ダキアーノ家によるオルテンシア様への一方的な婚約解消で、更にこの問題に寄り親とその親族が口を出し、格下に当たるラヴィエ家の抗議を力づくで封じようとした事実が発覚した。
『皇后陛下は、ご自分の侍女となる女性の名誉が傷つけられたままでいる事を望んではおられない。
十年来の婚約を自らの不貞によって解消するというのであれば、それに関わったダキアーノ家、カリアリ家、レオン家の三家は、相応の賠償金を速やかにラヴィエ家に払うように』
名指しされた三家は戦慄した。
今はまだ皇后陛下のお考えが示されたに過ぎないが、この件を迅速に処理しないと皇家が本格的に乗り出してくる。
そうなってからでは、もう取り返しがつかない。
家を存続させるために、三家は死に物狂いで金をかき集めるしか道はなかった。
まるでウルク様の賭博の悪夢再びだった。
カリアリ家やレオン家は領地のほとんどを売り払い、広大な邸宅や価値ある財宝なども次々に手放す事となった。
両家は狭い邸宅に移り住み、僅かに残った領地やその家を担保にして金を借りた。
ダキアーノ家は唯一の財産であった邸宅を売り払った。
元々はダキアーノ家の借財が招いた災いで、アント様に対するカリアリ卿とレオン卿の怒りは凄まじかった。
アント様は館だけは手放したくないと散々抗ったが、没落したカリアリ家とレオン家がそれを許す筈もなく、母君と共に現在所属しているレント騎士団の宿舎に移る運びとなった。
勿論、使用人は全て解雇だった。
アント様は紹介状を書いてやるのと引き換えに、今月分の給金は支払わないと皆に告げてきた。
紹介状がなければ新しい仕事を見つけるのはほぼ不可能で、使用人達は泣く泣くその言葉に従う事となった。
ジョンは途方に暮れた。
ダレイシア様、ウルク様、アント様と三代に渡ってお仕えし、自分はすでに六十七になっている。
紹介状をもらっても新しい職場が見つかるという当てもなく、せめて最後の給金だけはもらえないかとアント様にお縋りする事にした。
主家が不遇の時にはほぼ無給でお仕えした。
その献身を覚えておられるなら、僅かなりとも身を哀れんで下さるのではないか。
一縷の望みをかけてそう申し出たのだが、そんなジョンにアント様は激怒した。
「主家のために尽くすのがお前の務めだろう!
あの頃のように無給で我が家に仕えたいというならまだしも、今月分の給金が欲しいだと?
お前のようなあさましい奴に、紹介状はやらん。
とっととこの家から出て行くがいい!」
ジョンはアント様の足に取り縋った。
「お館様、このジョンはずっとダキアーノ家のために尽くして参りました。
ここを追い出され、紹介状ももらえぬとなれば、もはや野垂れ死ぬしかありません。
どうか最後のお慈悲をジョンめにお与え下さい」
ジョンは床に這い蹲って許しを請うたが、アント様の怒りは収まらず、二度三度とジョンを足蹴にした。
カリアリ卿やレオン卿に身ぐるみはがされた鬱憤も溜まっていたのだろう。
「年で見目も悪くなり、きびきびと働けなくなったお前は、どうせ解雇する予定だった」
頭を庇って蹲るジョンに向かって、アント様は吐き捨てた。
「同じ金で雇うなら、見栄えがする者の方がいいからな。
どうせ紹介状を書いてやっても、お前のような年寄りを雇おうと思う者はいないだろう。書くだけ無駄というものだ。
わかったら、さっさと向こうに行け。私達がこの館に留まれる日までは無給で置いてやる」
ジョンは信じられない思いでその言葉を聞いた。
ダキアーノ家がこの先順当に繁栄していったとしても、アント様は年老いたこの自分を切り捨てるおつもりであったのだ。
ジョンは何とか立ち上がったが、自分が立っている床がゆらゆらと揺れている気がした。
人生を賭けて献身し、誠実に働き続けた結果がこれだった。
紹介状ももらえぬまま職を失い、碌な貯えもなく、頼る家族もいない。
希望は一切なく、この先どちらを向いて生きていいのかもわからなかった。
他の使用人は遠くに住んでいる親族を頼ったり、新たな働き口を見つけたりしてどんどんといなくなった。
やがてアント様は母君を連れてレント騎士団へと向かい、無人となった館には売り家を示す赤い布が扉や窓に掛けられた。
ジョンは裏庭の扉の布をそっと剥がして、こっそりと中に入った。
住み慣れた使用人部屋には売り物にならぬ薄い布団が残っていて、暖を取るためにそれを体に巻き付ける。
あれから時間を見つけて職を探し回ったが、案の定、紹介状すら持っていない六十七の男を雇ってくれるような家はなかった。
金が続く当てもないのに、家を新しく借りる訳にもいかず、ジョンは当面、この空っぽの館で寝泊まりさせてもらう事にした。
火を使う訳にもいかないから、手持ちの金で雑穀入りの安いパンを買い、庭にあった僅かな野菜や草を井戸の水で洗って食べた。
いつまでこの場所で雨風が凌げるのかわからない。
どのみち手持ちの金はいずれ尽きるし、そうなれば飢えて死ぬだけだ。
ジョンはぼんやりと自分の人生を思った。
生まれてすぐに親に捨てられ、育った孤児院も焼け出された。
ダレイシア様に拾われてようやく人並みの幸せを知ったが、その主人とも直に死に別れ、気付けば浮浪者に舞い戻っていた。
頑張ってきた事のすべてが、今となっては無駄に思えた。
ダレイシア様が亡くなった時、いっそ後を追って死ねば良かったのだ。
シミのできた皺だらけの手を見下ろして、ジョンは一人嗤った。
涙すらもう出て来なかった。
日が沈み、孤独が長い夜を苛んで、また陽が昇る。
そんな生活を惰性のように繰り返していたある日、館の前に馬車が停まるのがわかった。
いよいよこの家を出ていく日が決まったようだ。
ガチャガチャと鍵が開く音がして、正面ロビーの扉が大きく開け放たれた。
不法に住み着いていた自分にどんな罪が下されるのかわからなかったが、それでもジョンは真正直に屋根裏部屋から階下へと降りていった。
玄関ホールには裕福な貴族と思われる二十代後半の若い男がいて、ジョンの姿を認めた途端、数人の護衛が主を守るようにさっと前に立ちはだかった。
「ここで何をしている!」
一際体の大きな護衛が声を張り上げ、ジョンは慌ててその場に膝をついた。
「ここで仕えていた者です。行き場がなくて……」
そう言葉にした途端、自分でも思いがけず涙が溢れた。
ぽとりと落ちた涙が、埃の舞う床を濡らす。
空き家となった館にこっそりと住み着いて、追い出される日を待っていた時、ジョンは自分なりに人生を達観したつもりになっていた。
けれどこうやって人目に触れると、自分のこうした有様が途轍もなく惨めに感じられ、身の置き所のない羞恥にただ顔を俯けるしかできない。
僅かな沈黙が流れ、やがて若い貴族が静かに口を開いた。
「新しい職が見つからなかったのか?」
「……そもそも紹介状をいただけませんでした。
最後の月の給金が欲しいと願い出たところ、あさましい奴だと罵られ……」
「あのクズは、使用人に給金も支払わなかったのか」
その貴族は呆れたように呟き、がらんとした玄関ホールを今更のように眺め渡した。
「誰かに買い取られる前に一度この家を見ておきたかったが、想像通り大した邸宅ではないな」
その口ぶりだと、買い取るためにここを訪れた訳ではないらしい。
ジョンが黙って頭を下げていると、その貴族は呟くように言葉を続けた。
「先ほど庭を見たが、ダリアも咲いていないし」
「畏れながら……」とジョンは思わず口を挟んだ。
「ダリアは初夏から晩秋にかけて咲く花です。
今は枯れておりますが、地中には球根が残っており、茎も土中に埋めてございます。
春先になれば、芽を出す事でしょう」
「花について詳しいんだな」
その貴族はちょっと笑い、「お前、名は何と言う?」とジョンに尋ねてきた。
何か不興を買ってしまったのかと、ジョンは焦って平身低頭した。
「ジョンと申します。要らぬ事を申し上げました」
「顔を上げてみよ」
恐る恐るジョンが面を上げると、栗色の髪に薄茶色の瞳をしたその若い貴族は楽しそうに破顔した。
「お前がジョンか。そう言えば、聞いていた風貌と似ているな」
「わ、私の事をご存じで?」
「アントの婚約者をしていたシアを知っているだろう? 私はその兄だ」
え……とジョンは目を丸くした。
ではこちらが、アント様の婚約者をしておられたオルテンシア様の兄君でいらっしゃるのだ。
そう言えば、顔は全く似ていらっしゃらないが、髪や瞳の色は確かにオルテンシア様と同じである。
「あのアントはラヴィエ家を卑しい家だと侮って、一度も家に招こうとしなかった。
まあ、来たとしてもどうせ不快な思いをさせられていただろうから、それは構わないんだが、一度も呼ばれないとなるとそれはそれで妙に気にかかる。
それで興味半分に見に来たんだ」
「……その節は我が主が大層失礼な事を」
改めて謝罪すれば、「お前が謝る事ではないだろうに」とラヴィエ卿は笑った。
「シアはアントやその親には散々嫌な目に遭わされたが、使用人は優しかったと言っていた。
いつだったかは、ダリアの咲く庭園を案内してもらえたとも言っていた。
シアはそれをとても喜んでいた。妹に代わって礼を言う」
礼を言われたジョンはどぎまぎと瞳を伏せた。
ダリアを見せて差し上げた時のオルテンシア様の笑顔が今更のように思い浮かぶ。
『そんな風に手をかけているから、これほど美しく咲き誇るのね』
柔らかくかけられた言葉が心の中できらきらと飛び跳ねた。
辛いばかりの人生だと思っていたが、優しい思い出はきちんと自分に残されていた。
熱い塊が喉元に込み上げてきて、ジョンはそれを飲み下そうと厳つい口を引き結んだ。
涙腺が決壊したように涙は後から後から溢れてきて、言葉もなくただ嗚咽するジョンを、ラヴィエ卿が優しい眼差しで眺めていた。
その後ジョンは、ラヴィエ家で働かせてもらえる事になった。
「今の園丁だけでは庭の管理が到底追いつかなくなっていてね。
ジョンには是非そちらを任せたい」
そうして提示された給金は、園丁とは思えぬほど破格のものだった。
従僕としてダキアーノ家で働いていた頃の凡そ一・五倍である。
ラヴィエ家のお館様や奥様は申し分なくお優しい方で、嫡男であるジョシュア様は言わずもがなだ。
このジョシュア様はもうすぐご結婚を控えておられ、館内は華やかな活気で満ちていた。
こうしてラヴィエ家で働けるようになったのも、オルテンシア様がご家族に自分の事を伝えて下さっていたお陰である。
できる事なら直接お会いしてお礼を申し上げたいと思ったが、オルテンシア様はすでに皇都に発たれていてお会いする事は叶わなかった。
十九歳というご年齢を考えると、向こうでいい縁を見つけられて、そのまま縁づかれるようになるかもしれない。
オルテンシア様が皇后陛下の侍女に抜擢された事で、ラヴィエ家は周辺貴族に一目置かれるようになり、それと反比例するように寄り親のカリアリ家は落ちぶれていった。
元々、力ある者にだけ媚びて、下位貴族を平気で踏み躙ってきたような寄り親だ。
領地のほとんどを失い、こじんまりとした邸宅に移り住むようになると、人は面白いほどに離れていき、財力や名声を手に入れたラヴィエ家がここら辺りの貴族の取りまとめを代わりにするようになっていた。
社交が活発になった事でラヴィエ家には多くの使用人が新たに雇い入れられ、ジョンが以前仕えていたダキアーノ家の噂話も時々耳にするようになった。
「ダキアーノ卿が今どんな暮らしをしているのか、あんた知っているかい?」
顔馴染みの下女にそう聞かれ、「さあな」とジョンは首を振った。
「母君と共にレント騎士団の宿舎に移られたところまでは知っている。
以前寝起きしていた一人部屋ではなく、家族用の宿舎に入られたと聞いているが」
アント様は正騎士となられた後も騎士団の一人部屋を借りられていて、休みの時だけ邸宅に戻るという生活を送られていた。
宿舎費や食費は給金から天引きされるが、さほど高い額ではなく、身の回りの世話は準騎士がしてくれる。
仕事はきついが、そう悪い生活でもなかったようだ。
「どうやらご結婚後は、騎士団を辞めるおつもりであったらしいね」
「そうだったのか?」
ジョンには初耳である。
ご結婚後も騎士団を続けられ、休みの日だけ邸宅に戻るという生活をされるのかと思っていた。
「ああ。レオン家からこっちの館に転職した者も多いからね。
それによると、レオン家のお嬢様が持参金代わりに領地を切り分けてもらい、ダキアーノ卿は騎士団を辞めて領地経営に専念するつもりだったんだと」
「なるほどねえ。ところが肝心のレオン家も没落して、渡す領地もなくなったって訳だ」
「そういう事さね」と下女は肩を竦めた。
「ラヴィエ家を踏み躙るだけ踏み躙って、自分達だけはいい生活をするつもりだったんだろうけど、天の神様はよく見ていらっしゃるよ。
お嬢様は今になって、ダキアーノ家には嫁ぎたくないとお父君に泣きついておられるらしいよ」
「金の切れ目が縁の切れ目って訳か……」
「まあ、レオン家も没落しているけど、ダキアーノ家程じゃないからねえ」
「そりゃあ、そうだ」
レオン家は相応の借金を抱え込んだようだが、こじんまりとした家に移り住み、領地も僅かばかり残している。
家を失い、騎士団の家族宿舎で寝起きしているダキアーノ家とは、天と地ほどの違いがあるのだ。
担保にするものもないため、借金は背負わずに済んでいるが、これからは騎士としての稼ぎだけで慎ましやかに暮らしていかなければならない。
「そういや、レント騎士団の家族用宿舎は平民が暮らすところだと聞いた事があるな」
随分前に人伝に聞いた話を、ジョンはようやく思い出した。
一人用の宿舎は部屋こそ狭いが、掃除や洗濯といった身の回りの世話は準騎士がしてくれる。
だが家族用は少し離れた場所にあり、私的空間に準騎士が入り込む事はない。
むやみに火を使わせたくないという理由から、食事に関しては家族の人数分が大食堂で提供されるが、その他の家事は各々に任される。
家族用宿舎というくらいだから、二つのベッドルームと応接スペースくらいはあるだろうが、水回りは共同で、朝から自分で水汲みに行かなくてはならない。
「あの奥様がしているのか……?」
思わずジョンは仰け反った。
平民の真似事をするくらいなら死んだ方がいい、貴族とはそういうものだと豪語しておられた奥様だが、未だ死んだという噂を聞かないから、多分今もあそこで生活されているのだろう。
部屋に引き籠りたくても、食堂や浴場は共同だから出ていかない訳にもいかない。
第一、トイレが困るし。
「レオン家のお嬢様だって、そりゃあ嫌だろうな」
思わずそう呟けば、「だろうね」と下女も頷いた。
「あんなとこに嫁いだら、使用人代わりにこき使われるだろうさ。
おまけに新婚早々、狭い部屋に姑と三人暮らしだ。貴族のお嬢様には耐えられないだろう」
使用人だって、どこまで耐えられるかわからないなとジョンは思った。
何といっても一緒に暮らす相手は、あの奥様とアント様だ。
溜まった鬱憤をぶつけられそうで恐ろしい。
アント様が平民紛いの生活をされている事について、ジョンにはもう何の感慨も湧かなかった。
僅かばかり残っていた主従の絆を断ち切ったのはアント様だ。
敬愛するダレイシア様への恩は、ウルク様が不遇の時に全てお返しした。
この先、ジョンがダキアーノ家と関わる事は一生ないだろう。
ラヴィエ家では、二月には嫡男ジョシュア様の結婚式が華やかに執り行われ、多くの貴族が参列した。
ジョンはオルテンシア様にお目にかかれるのを楽しみにしていたが、オルテンシア様は結婚式への参加を見合せられた。
皇后陛下の侍女をしているオルテンシア様が出席されれば、花嫁そっちのけでオルテンシア様と繋ぎを取ろうとする者が現れてもおかしくない。
それを懸念されたのだろう。
オルテンシア様がラヴィエ家に帰って来られたのは六月だった。
大勢の騎士に警護されてご到着され、その華々しいご到着に屋敷中が圧倒された。
凡そ半年ぶりにお見かけしたオルテンシア様は、当時よりも垢抜けられ、女性らしい艶も増しておられた。
オルテンシア様の帰省に合わせ、次兄のルース様も所属先の辺境騎士団から帰って来られ、オルテンシア様は家族のお一人お一人と抱擁を交わし、頬に接吻をされていた。
多くの貴族らがオルテンシア様と繋ぎを取りたがったが、ラヴィエ卿はオルテンシア様とごく親しかったご友人方のみを館に招き、それ以外の方々の訪問は断られた。
せっかく生家に戻られたオルテンシア様をのんびりと過ごさせてやりたいと思われたようだ。
オルテンシア様はご家族と気の置けない日々を過ごし、朝や夕べに庭を散策され、時には母君や義理の姉君とお菓子作りも楽しまれた。
ジョンがオルテンシア様にご挨拶できたのは帰省されて三日目の事だった。
ダリアの咲き誇る一角に妹君を案内されたジョシュア様が、「シアに会わせたい者がいるんだ」と、ジョンをオルテンシア様に引き合わせて下さったのである。
「え。どうしてここにジョンがいるの?」
オルテンシア様がダキアーノ家を訪問される度、侍従として対応していたジョンの事をオルテンシア様はきちんと覚えておられた。
「うちで庭の世話をしてもらおうと思って来てもらったんだ」
簡単なジョシュア様の説明に、「そうだったのね」とオルテンシア様は嬉しそうに頷かれた。
「あの家の方々には嫌な思いばかりさせられたけど、ジョンはいつも優しい言葉をかけてくれたわ。
庭園で見せてもらったあのダリアの美しさを今でもよく覚えているの。きっと一生忘れられないわ」
「もったいないお言葉です」
単純にダリアの美しさを言っておられる訳ではないだろうとジョンは思った。
オルテンシア様はアント様や奥様の悪意にずっと晒され続けていた。
押し潰されそうな絶望の中で、それでも前を向いて笑っておられたオルテンシア様は、ほんの少しの温もりと優しさに飢えておられた。
あのダリアによってそれを少しでも得られたのであれば、ジョンにとってこれほど嬉しい事はない。
十日間の滞在の後、オルテンシア様は皇都に帰られた。
馬車に乗り込まれるオルテンシア様をご家族の方々は食い入るように見つめておられ、やがて馬車が豆粒のように遠く見えなくなってしまうと、堪えきれなくなったように奥様が泣き崩れられた。
オルテンシア様はもう二度とこの地には帰って来られないのかもしれない。
ふとそんな風に思った。
ジョンの予感は当たっていた。というか、ジョンの想像を遥かに超える未来が、オルテンシア様の前に広がっていた。
皇都に帰られると同時にオルテンシア様は皇后陛下の侍女を辞退され、その数日後、アンシェーゼの名門、カルセウス家の養女となる事が発表されたのだ。
そして大貴族の養女となったオルテンシア様は、この後、皇弟妃への階段を真っ直ぐに上っていく事となる。
春先に植えたダリアが瑞々しい若芽を地中からもたげ、空に向かって小さな葉を広げ始めていた。
うららかな春の陽射しが冬枯れた大地や木々に目覚めを呼び起こし、小さな虫が忙しなく地面を這い回っている。
皇弟セルティス殿下とオルテンシア様のご成婚は、昨年十一月に盛大に執り行われた。
乾パンの改善に貢献されたオルテンシア様は軍食の女神と称されており、民からの人気も高い。
義姉となった皇后陛下にも可愛がられ、幸せに暮らしておられると風の噂に伝え聞いた。
オルテンシア様にとっての長く厳しい冬は終わった。
勿論、春が永遠に続く訳ではないし、盛夏を過ぎれば秋が来て、寒々しい冬がまた到来する。
柔らかな晴れの日もあれば、身を切るような冷たい小雨が降りしきる日もある。時には耐え難い暴風に晒される時もあるだろう。
それでもオルテンシア様は、前に向かって進む事を決して諦めはされない筈だ。
大地の温もりを掌から感じながらふと空を見上げれば、うっすらとした雲に輪郭を朧にした太陽が白い陽筋を地に落としていた。
暖かな春の日差しを受けたダリアの若芽は、天に向かってぐんぐんと茎を伸ばしていく。
やがて固い花芽も徐々に膨らんで、初夏には色とりどりのダリアの花が庭園を彩る事だろう。
ダレイシア様の愛されたその季節はもう、すぐそこまで来ていた。
お読み下さいましてありがとうございました。ダキアーノ家に仕えた従僕視点で、あの当時の様子やその後について軽く触れてみました。誤字報告や感想をお寄せ下さり、ありがとうございます。




